阿部正与
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 | 寛永17年3月22日(1640年5月12日) |
別名 | 通称:七之助、善兵衛、河内 |
戒名 | 立正院殿道助日観大居士 |
墓所 | 愛知県一宮市瀬部川原の日観寺跡 |
官位 | 従五位下河内守 |
主君 | 徳川家康、松平忠吉、徳川義直 |
藩 | 清洲藩、尾張藩 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部正勝 母:江原定次の娘 |
兄弟 | 女、正次、忠吉、永井直勝室、正與 |
妻 | 富永忠兼の娘 |
子 | 正致、正周、石川光忠室、千村重長室、滝川時成室、山村良豊室 |
阿部 正與(あべ まさとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。清洲藩家老、のち尾張藩家老[1][2]。
通称は七之助、善兵衛、河内。官位は従五位下河内守[1]。名は正興と書くことが多く、『日本人名大辞典』は「まさおき」と読むが[3]、江戸幕府で編纂された『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』、尾張藩で編纂された『士林泝洄』のいずれの系譜も正與(略字・常用漢字で正与)と書き、「まさとも」と読む[1][2][4]。
生涯
[編集]天正元年(1573年)、徳川家康の家臣阿部正勝の三男として生まれた。長男正次(岩槻藩主・大坂城代)と次男忠吉(旗本・大番頭)は同母兄に当たる[1]。
天正18年(1590年)、小田原征伐で初陣。先鋒の松平康重隊に加わり、馬から降りて槍を取って追撃していたところを敵兵に囲まれて多数の傷を受け、助けに入った家臣も討たれる窮地に陥ったが、味方の援護で辛うじて生還した。文禄元年(1592年)、武蔵国忍城主となって10万石を得た家康の四男松平忠吉に附属され、700石を与えられた[1]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで先陣を切った松平忠吉・井伊直政隊で戦功を挙げ、忠吉が尾張国清洲52万石に封じられると3000石を与えられて家老に任命された[1]。慶長10年(1605年)、忠吉の従三位左近衛権中将昇叙に合わせて従五位下河内守に叙任され[5]、翌11年(1606年)、忠吉に尾張国知多郡10万石が加増されると2000石を加増された[2]。この頃に作成された清洲藩の分限帳によれば、同心25人と合わせて1万2250石を預かっていた[6]。
慶長12年(1607年)、忠吉が死去して東条松平家が無嗣断絶し、代わって家康の九男徳川義直に尾張国一国が与えられると、家康の命により他の忠吉家臣とともに義直に仕え[1]、引き続き同心頭を務めた[7]。このとき、忠吉の清洲入封以降に加増された知行は収公され、3000石に戻った[2]。慶長14年(1609年)、藩内の対立から正與の妻の父である富永忠兼ら東条松平家重臣が改易される[8]が、正與は連座を被らず、さらに2000石の加増を受けて以前と同じ5000石に復した[2][9]。
慶長19年(1614年)、20年(1615年)の大坂の陣に同心を率いて出陣し、 竹腰正信の隊に属した[10]。その後、3000石を加増されて8000石となり[2]、丹羽郡瀬部村(現在の愛知県一宮市瀬部)を中心に尾張国北部にまとまった知行地を持った[11]。
元和3年(1617年)、滝川忠征に次いで家中で4人目、幕下御附属衆(徳川宗家から尾張徳川家に直に附属された者)以外の甚太郎衆(松平忠吉旧臣)からは最初の年寄(家老)に任命された[12]。
寛永17年(1640年)、現職のまま死去した。享年68[2]。旧主松平忠吉の菩提寺性高院に葬られ、宝永8年(1711年)に在所瀬部村に阿部家菩提所として建立された日観寺[注釈 1]に改葬された[14]。明治維新後、阿部家の没落により日観寺は廃寺[注釈 2]となり[15]、寺の跡地は一宮市立瀬部小学校の校地となって、小学校の西に阿部家代々の墓石のみが残っている[17]。
系譜
[編集]正與の死後、嫡男正致が家禄8000石と同心を引き継ぎ、慶安元年(1648年)に年寄に就任するが、承応4年(1655年)に没し、嫡男正治は同心を召し上げられた。さらに延宝4年(1676年)、正治は乱心して蟄居させられて所領を没収されるが、石川正光(正與の外孫)の三男正寛が阿部姓を名乗って名跡継承を許され、2000石を与えられた[2]。
正寛は元禄6年(1693年)に前藩主徳川光友附年寄、13年(1700年)に光友が没すると加判の年寄に加えられ、再び同心を預けられて家禄も5000石まで加増[2]。また在所の瀬部村に屋敷と菩提所の日観寺を建てた[14]。享保5年(1720年)に正寛が致仕した後、嫡男正恭は19歳で死去し、後を継いだ弟の正茂は3000石に減知されたが、寛保3年(1743年)から明和4年(1767年)に死去するまで年寄を務めて1000石の加増を受けた[2]。
以後、阿部家は4000石を世禄として正茂 - 正嘉 - 正長 - 正信 - 正直 - 正傷と続いた[14]。幕末の当主正傷は維新後、名古屋城三の丸郭内の屋敷[注釈 4]を引き払って味噌溜商になった[19]。
参考文献
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『寛政重脩諸家譜』第4輯, 國民圖書, 1923, p. 349.
- ^ a b c d e f g h i j k l 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書続編』第18巻 士林泝洄 第2, 名古屋市教育委員会, 1967年, pp.1-4.
- ^ 「阿部正興」(コトバンク)
- ^ 「寛永諸家系図伝 安倍姓」(国立公文書館)
- ^ 東京大学史料編纂所編『大日本史料』第12編之3, 東京大学, 1902年, p.119.
- ^ 埼玉県県民部県史編さん室編『分限帳集成 : 埼玉県史調査報告書』埼玉県県民部県史編さん室, 1987年, pp.121-122.
- ^ 名古屋市教育委員会 編『名古屋叢書』第5巻 記録編 第2, 名古屋市教育委員会, 1962年, p.5.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市, 1915年, p.94.
- ^ 名古屋市蓬左文庫編『名古屋叢書三編』第11巻, 名古屋市教育委員会, 1985年, p.196.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書』第4巻 記録編 第1, 名古屋市教育委員会, 1962年, p. 191.
- ^ 一宮市編『一宮市史 : 新編』上, 一宮市, 1977年, pp.712-713.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第4巻 記録編 第1』名古屋市教育委員会, 1962年, p. 207.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書』続編 第11巻 鸚鵡籠中記 第3, 名古屋市教育委員会, 1968年, pp.593-594.
- ^ a b c 『一宮市史西成編』一宮市教育委員会, 1953年, pp.509-512.
- ^ a b 『一宮市史西成編』一宮市教育委員会, 1953年, pp.491-492.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史』社寺編, 名古屋市, 1915年, pp.974-976.
- ^ “阿部氏屋敷と日観寺”. にしなり. 西成連区地域づくり協議会 (2018年5月20日). 2025年3月6日閲覧。
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書続編』第17巻 士林泝洄 第1, 名古屋市教育委員会, 1966年, p. 121.
- ^ a b 名古屋市編『名古屋市史』地理編, 名古屋市, 1916年, pp.435-436.