竹腰正信
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正19年1月21日(1591年2月14日)[1] |
死没 | 正保2年4月30日(1645年5月25日) |
改名 | 万丸→小伝次→竹腰正信 |
別名 | 正次、正徳 |
戒名 | 正信院安誉道輝 |
墓所 | 愛知県名古屋市千種区、栃木県日光市 |
官位 | 従五位下・山城守 |
主君 | 徳川家康→徳川義直 |
藩 | 尾張藩:付家老 |
氏族 | 竹腰氏 |
父母 | 父:竹腰正時、母:お亀の方 |
兄弟 | 正信、石川光忠、徳川仙千代、徳川義直 |
妻 | 正室:春・大久保忠隣養女(孫) |
子 | 成方、正晴、正辰、石川正光継室 |
竹腰 正信(たけのこし まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。美濃国今尾藩初代当主。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄。
生涯
[編集]天正19年(1591年)、竹腰正時の長男として誕生。母はお亀の方(志水宗清の娘)。
文禄3年(1594年)に母・お亀の方が徳川家康の側室となり、文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、正信も召し出されて近仕し、文禄6年(1601年)に甲斐国に5,000石を与えられる。
江戸幕府初代将軍・徳川家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に尾張藩主となった義弟・義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下・山城守に叙任されたほか、死去した平岩親吉に代わって22歳で尾張藩の執政に任じられ、名古屋城の普請を監督した。
慶長17年(1612年)には2代将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜り、元和5年(1619年)には主君・義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃国今尾を居所とした。これが後の今尾藩となる。
正保2年(1645年)、死去。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。
系譜
[編集]父母
正室
子女