鍋島正茂
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長11年(1606年) |
死没 | 貞享3年12月18日(1687年1月31日) |
改名 | 孫平太(幼名)、正茂、宗甫(法号) |
戒名 | 清鏡院一円日光大居士 |
墓所 | 東京都台東区谷中の感応寺 |
官位 | 従六位、布衣 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 肥前鹿島藩主→旗本寄合 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島忠茂、母:関部兵部の娘・隆子(仏晃院) |
兄弟 | 正茂、佐野茂久、茂貞 |
妻 | 正室:酒見氏(永春院) |
子 | 正恭、養子:直朝 |
鍋島 正茂(なべしま まさしげ)は、肥前鹿島藩の第2代藩主。後に5000石の旗本寄合となる。餅ノ木鍋島家の祖。
生涯
[編集]家督相続
[編集]慶長11年(1606年)、初代藩主・鍋島忠茂の長男として江戸で生まれる。寛永元年(1624年)に父が死去したため、家督を継いだ。寛永3年(1626年)に第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、その後も幕命による軍役などを負担した。
養子問題
[編集]寛永13年(1636年)、本家の佐賀藩主で伯父にあたる鍋島勝茂が、自分の九男・直朝[注 1]を養子に迎えるように求めてくる。正茂は31歳になっても嗣子に恵まれなかったのである。しかし、正茂はそれを拒否した。自らはまだ31歳であり、仮に子が生まれなかったら弟の茂久を跡継ぎにしようと考えていたからである。しかし勝茂は正茂に圧力をかけ、直朝を強引に養子とさせた。翌寛永14年(1637年)に、皮肉にも長男の正恭が誕生している。
このため勝茂との間に対立が生じ、寛永17年(1640年)に直朝が勝茂の後ろ盾によって従五位下に叙任すると、正茂に対して隠居を求めてくる。理由は正茂が当時の大名としては最も低い従六位下[4]であるためとしたが、これは勝茂が圧力をかけて正茂の叙任を阻んでいたためでもあった。正茂はこの要求を拒否し、逆に「勝茂はかつて逆賊に与して御家の存続を危うくしたのを、我が父によって助けられたのを忘れたのか」とまで発言し、そしてこの理不尽さを幕府に訴えた。これが勝茂のさらなる激怒を買い、勝茂はその後も正茂に対して圧力をかけるようになった。
領地の放棄
[編集]寛永19年(1642年)、正茂は遂に勝茂の圧力に耐えかねて藩主の座と領地を捨て、鍋島本家とも義絶して江戸に去った。このため、直朝が第3代藩主になった。
正茂はその後、下総矢作5000石の旗本として幕府に仕え、書院番となっている。貞享3年(1686年)12月18日に死去した。享年81。その後は、正恭、直旨(正恭の子)、長行(鍋島光茂の子)、直弼(水野忠直の子)、直益(直弼の子)、直賢(直益の子)と続く。
系譜
[編集]父母
正室
- 永春院 ー 酒見氏
子女
- 鍋島正恭(長男)
養子
注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ 黒田安雄「佐賀藩家臣団の構造(三)」『史淵』第116巻、九州大学文学部、1979年3月31日、59-83頁、doi:10.15017/2232304。
- ^ 『佐賀市史:第二巻(近世編)』佐賀市、1977年7月29日、15頁 。
- ^ a b “初代佐賀藩主 鍋島勝茂公の13人の子供たちと、2代藩主になった孫”. 徴古館. 2024年8月25日閲覧。
- ^ 大名は普通は1万石でも従五位下(初期の松前家と旧主筋の喜連川(足利)家は例外)。六位は旗本・七位以下は平士の官位である。鹿島藩鍋島家は、正六位下に昇る浄瑠璃(名誉職だが直参扱い)の藤原貞勝や佐渡雅好より格下になる(『浄瑠璃太夫口宣案』、『烏丸家記五諸人上卿之留』 )