金沢仁作
2代 金沢 仁作(金澤、かなさわ にさく[1]、1861年12月8日(文久元年11月7日[2])– 1928年(昭和3年)12月8日[1])は、明治・大正期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・元治郎[3]。
経歴
[編集]摂津国西成郡大坂三郷、のちの大阪市西区靭北通四丁目(現:大阪市西区靱本町)で、大年寄役・大阪西区長、金沢卯右衛門[注 1]の二男として生まれる[2][3][4]。大阪初の小学校である西大組第六番校(のちの靱小学校)に学び、同窓に田中市太郎、志方勢七らがいた[3]。
15歳の時に本家・先代金沢仁兵衛が死去し、本家に入り見習、事務補助を務めた[3]。1877年(明治10年)田中市兵衛らによって第四十二国立銀行が設立され、選ばれて大蔵省銀行学伝習所で学び、帰阪後に同行に入行した[2][3][4]。1881年(明治14年)長兄・仁作が死去したため家督を相続して2代仁作を襲名し、家業に従事した[2][3][4]。
1888年(明治21年)本家・金沢仁兵衛が平野紡績社長に就任すると、同支配人に就任し、職工の待遇改善を進めて業績の回復に尽力した[2][3]。また、原料綿花輸入税、綿糸輸出税の廃止について業界を代表して活動し、製品の輸入防止・輸出奨励策を立案し実行した[3]。平野紡績社長となり1902年(明治35年)平野紡績と摂津紡績が合併した際に一時退職したが、1907年(明治40年)摂津紡績の取締役、実弟・平野平兵衛が死去したため、その後任の取締役に就任した[3]。その他、帝国製紙社長、平野大豆工業監査役などを務めた[1][2]。
政界では、大阪府会議員、大阪市西区土佐堀外十七ヶ町連合区会議員、同副議長を務めた[1][2]。1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で大阪府大阪市から出馬して当選し、次の第13回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した[1][2]。
親族
[編集]脚註
[編集]注釈
[編集]- ^ 『成功亀鑑』67頁では宇右衛門。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 尾野好三編『成功亀鑑』大阪実業興信所、1909年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。