コンテンツにスキップ

野尻邦基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日[1][2])– 1910年明治43年)8月1日[3][4])は、幕末岡藩士、明治期の官僚政治家衆議院議員。旧姓・首藤[3]。幼名・長之助、半之允[5]

経歴

[編集]

豊後国直入郡竹田町[4]大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる[2][5]。藩校・由学館[3]、経武館で学び、その後、長崎に遊学した[5]。文武に通じ[5]廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任[3][5]。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部大分郡長、直入郡長を歴任した[3][5]。その後、1886年(明治19年)[6]大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官高知県書記官を務めた[3][5]

1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)[3][5][7]、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され[5]、衆議院議員を通算2期務めた[3][4]。この間、立憲政友会発会準備委員、同協議員、豊国同志倶楽部顧問などを務めた[4]

1910年8月、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町の自宅で脳溢血により死去した[6]

親族

[編集]

脚註

[編集]
  1. ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第二十回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1904年、27頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第2版』777-778頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』489頁。
  4. ^ a b c d 『立憲政友会功労者追遠録』281-282頁。
  5. ^ a b c d e f g h i 『大分県歴史人物事典』385頁。
  6. ^ a b 『明治過去帳』1175頁。
  7. ^ 『官報』第5420号、明治34年7月27日。

参考文献

[編集]
  • 人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年。
  • 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。