野尻邦基
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野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日[1][2])– 1910年(明治43年)8月1日[3][4])は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤[3]。幼名・長之助、半之允[5]。
経歴
[編集]豊後国直入郡竹田町[4](大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる[2][5]。藩校・由学館[3]、経武館で学び、その後、長崎に遊学した[5]。文武に通じ[5]、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任[3][5]。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した[3][5]。その後、1886年(明治19年)[6]大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた[3][5]。
1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)[3][5][7]、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され[5]、衆議院議員を通算2期務めた[3][4]。この間、立憲政友会発会準備委員、同協議員、豊国同志倶楽部顧問などを務めた[4]。
1910年8月、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町の自宅で脳溢血により死去した[6]。
親族
[編集]脚註
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年。
- 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。