金光鎮
金光鎮 김광진 | |
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生年月日 | 1927年5月12日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮 平安南道平壌府 |
没年月日 | 1997年2月27日(69歳没) |
死没地 | 朝鮮民主主義人民共和国 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
称号 |
金日成勲章、共和国英雄 第1級国旗勲章、自由独立勲章 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1972年10月 - 1977年11月 1982年2月 - 1990年4月 |
最高指導者 | 金日成(1948年 - 1994年) |
その他の職歴 | |
人民武力部副部長 (1984年12月 - 1997年2月27日) | |
朝鮮労働党中央委員会委員 (1984年7月 - 不明) | |
朝鮮労働党中央軍事委員会委員 (1995年3月 - 不明) | |
朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員 (1990年5月 - 1997年2月27日) |
金光鎮 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 김광진 |
漢字: | 金光鎭 |
発音: | キム・グァンジン |
金 光鎮(キム・グァンジン、朝鮮語: 김광진、1927年5月12日 - 1997年2月27日)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家。人民武力部副部長、朝鮮労働党中央委員会委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員など要職を歴任した。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は次帥。革命第1世代から革命1.5世代に分類され、朝鮮戦争で戦功を立てた[1]。金正日が軍を掌握する際に重要な役割を果たした。
経歴
[編集]1927年に日本統治下の平安南道平壌府に生まれる[1]。金日成とは6親等離れた族弟に当たるという[2]。解放前は労働者であった[1]。万景台革命学院卒業[1]。1950年に勃発した朝鮮戦争では砲兵の大隊長として参加し、ソウル会戦などで部隊を指揮し洛東江まで進撃した[1]。終戦後の1954年には金日成軍事総合大学で教育事業に参加した[1]。1969年に中将に昇進し[1]、砲兵司令官に就任すると、10年の間砲兵の分野を担当した[1]。1972年に最高人民会議第5期代議員に選出され[1]、1980年に開催された朝鮮労働党第6次大会で朝鮮労働党中央委員会委員候補に選出された[1]。1984年には第5軍団軍団長を経て[1]、12月に人民武力部副部長に就任し、党中央委員会委員に昇格した[1]。1990年から開始された南北首相会談に参加するため、韓国の青瓦台を訪問した[1]。1992年4月に次帥に昇進した[1]。
1994年に金日成主席が死去した際には追悼演説を読んだ[3]。1995年に朝鮮労働党中央軍事委員会委員に選出され[1]、朝鮮労働党の機関紙、労働新聞に金正日への軍部の忠誠を誓った文を寄稿した[1]。同年10月に新設された人民武力部第一副部長に就任し[1]、金日成勲章を受賞した[1]。1997年2月27日に病気の為、死去[3]。6日前の2月21日に崔光人民武力部長が死去し、部長候補に取りざたされている中でのことだった[3]。
エピソード
[編集]1990年に南北首脳会談に参加するため、ソウルを訪問した。軍縮交渉を行っている中で軍帽を被らずにエレベーターに乗ったところ、延亨黙首相から「帽子をかぶらないことも軍縮だ」と言われ、爆笑された[4]。