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酒井重澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
酒井重澄
時代 江戸時代前期
生誕 慶長12年(1607年[1]
死没 寛永19年9月29日1642年10月22日[2]
戒名 法雲院殿前城州大守機山宗関大居士[2]
墓所 広島県福山市西町1-11-8 龍淵寺(廃寺)墓地
官位 従五位下、山城
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
下総国生実藩
氏族 金森氏酒井氏
父母 父:金森可重、母:名護屋高久の娘
兄弟 金森重近金森重次金森重頼金森可次金森重勝金森重義重澄末次平蔵室、則生院某室、小出三尹継室
正室:井上正就の娘
重知
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酒井 重澄(さかい しげずみ)は、江戸時代前期の大名下総生実藩主。飛騨高山藩2代藩主金森可重の七男。

生涯

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慶長12年(1607年)、飛騨国において生まれる[1]元和8年(1622年)、16歳の時に徳川秀忠に拝謁した[1]。のち徳川家光小姓となって寵愛を受け、家光の命で酒井忠勝の家号を称するようになり、下総国生実に2万5000石を与えられた(3万石との説もあり[2][注釈 1]

元和(1615年 - 1624年)末年ころには[3]堀田正盛とともに家光の「一双の寵臣」と称されたといい[4]、『徳川実紀』によれば、堀田正盛と酒井重澄に官位や知行で上下が生じないよう、正盛が3万石を与えられた際に重澄にも3万石を与えられたとある(典拠として『藩翰譜[5]を挙げる)[4]。ただし『寛政譜』を見る限りは重澄は3万石を与えられておらず、正盛が3万石を越えるのは重澄の改易後である[注釈 2]

しかし重澄は病気を理由に出仕せず、屋敷で静養しているはずであったにもかかわらず4子をもうけたことから家光の勘気を蒙り、寛永10年(1633年)5月13日に改易された[1][4]。勤務怠慢[1][4]・不行跡[4]が理由とされ、切腹相当とされたものの[4]、病弱であったことは事実と見なされて罪を減じられたものである[1][4]

重澄は備後福山藩水野勝成にお預けとなった。寛永19年(1642年)に自殺した。享年36。『藩翰譜』によれば、堀田正盛が佐倉城主となったと聞いて自らの境遇を恥じ、食を絶っての自害という[2]

嫡男の重知(牛之助、権兵衛)[注釈 3]も重澄に連座して伯父の飛騨高山藩3代藩主金森重頼にお預けとなったが[7]承応2年(1653年)に許された。翌年2000俵を給され[8]、子孫は2000石の旗本として存続した。

登場作品

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漫画
  • 今井ムジイ『将軍の血』KADOKAWA

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政譜』では、酒井重澄が生実で2万5000石を与えられた時期は明示されていない。元和8年(1622年)に16歳で家光に御目見したのち、しばしば加増を受けたとある[1]
  2. ^ 参考までに、堀田正盛は元和6年(1620年)に13歳で家光に御目見し、元和9年(1623年)に700石、寛永2年(1625年)に5000石、寛永3年(1626年)に1万石、寛永10年(1633年)に1万5000石、寛永12年(1635年)に3万5000石と加増を受けている[6]
  3. ^ 『藩翰譜』では権兵衛重照とする[5]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十三「酒井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1052
  2. ^ a b c d 『飛騨国大野郡史 上巻』, p. 837.
  3. ^ 生実藩”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 『大猷院殿御実紀』巻廿二・寛永十年五月十三日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』pp.291-292
  5. ^ a b 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』81-82/87コマ
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四十四「堀田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.411
  7. ^ 『飛騨国大野郡史 上巻』, p. 825.
  8. ^ 『飛騨国大野郡史 上巻』, p. 874.

参考文献

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  • 田中貢太郎 編『飛騨国大野郡史 上巻』升重書店、1925年。NDLJP:1020720