コンテンツにスキップ

酒井忠利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
酒井忠利
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄2年(1559年
死没 寛永4年11月14日1627年12月21日
戒名 大性院月桂宗識居士
墓所 滋賀県守山市浮気町の源昌寺
栃木県日光市山内の輪王寺妙道院釈迦堂
官位 従五位下、備後
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
駿河田中藩主→武蔵川越藩
氏族 雅楽頭酒井家
父母 酒井正親:妙玄尼(石川清兼の娘)
兄弟 重忠忠利
正室:寶鏡院鈴木重直の娘)
忠勝忠吉忠重忠久忠末忠次、娘(高木正綱室)、娘(河合宗利室)、娘(三浦好正室)
テンプレートを表示

酒井 忠利(さかい ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名徳川家の家臣。駿河田中藩主、武蔵川越藩初代藩主。老中

生涯

[編集]

酒井正親の三男。徳川家康の遠縁にあたる。兄重忠と共に家康に仕え、小牧・長久手の戦いでは大いに戦功を立てた。天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、武蔵国川越に3000石の所領を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に供奉した。

戦後、家康より7000石を加増され、合計1万石の大名として駿河田中藩に移された。慶長14年(1609年)、さらに1万石を加増され、合計2万石の大名として川越に戻された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた。その後もしばしば加増され、最終的には3万7000石を領する大名となった。

寛永4年(1627年)11月14日死去。享年69。

系譜

[編集]