織田秀綿
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦6年2月28日(1756年3月28日) |
死没 | 文化3年9月20日(1806年10月31日) |
改名 | 富十郎(幼名)→秀綿 |
戒名 | 法光院殿通山宗貫大居士 |
墓所 | 東京都港区南麻布の天真寺 |
官位 | 従五位下・筑前守、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 大和柳本藩主 |
氏族 | 織田氏(長益系尚長流) |
父母 | 父:織田秀賢 |
兄弟 | 秀綿、秀寧、三淵純之丞、水野元休室、日向正肥室、多賀高賢室ら9男8女 |
妻 |
正室:鳥居忠意九女・虎子 継室:間部詮央長女・菊子 |
子 | 秀便、日向正好、溝口秀久、信陽、田中玄恵室ら8男8女 |
織田 秀綿(おだ ひでつら)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。大和国柳本藩の第10代藩主。官位は従五位下・筑前守、大和守。尚長流織田家10代。
生涯
[編集]8代藩主・織田秀賢の三男として誕生。幼名は富十郎。幕府には9代藩主・織田長恒の長男と届けられた。
明和3年(1766年)10月16日、長恒が死去したため、家督を相続した。明和8年(1771年)7月28日、10代将軍・徳川家治に御目見する。安永元年(1772年)江戸火消役を命じられる。安永3年(1774年)12月18日、従五位下筑前守に叙任する。安永5年(1776年)、駿府加番を命じられる。安永8年(1779年)5月、鎌倉を訪れて、織田長好の建立した建長寺長好庵などを参詣する。明和6年(1769年)1月15日、柳本領内で百姓一揆が起こり、12名の百姓を処罰した。享和2年(1802年)12月にも年貢軽減を求めて農民が柳本陣屋に押し寄せ、藩側の発砲で死傷者を出した。
文化3年(1806年)9月20日、死去。享年51。法号は法光院殿通山宗貫大居士。墓所は東京都港区南麻布の天真寺。
系譜
[編集]子女は8男8女。