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織田秀綿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田秀綿
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦6年2月28日1756年3月28日
死没 文化3年9月20日1806年10月31日
改名 富十郎(幼名)→秀綿
戒名 法光院殿通山宗貫大居士
墓所 東京都港区南麻布天真寺
官位 従五位下筑前守大和守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
大和柳本藩
氏族 織田氏(長益系尚長流)
父母 父:織田秀賢
兄弟 秀綿秀寧、三淵純之丞、水野元休室、日向正肥室、多賀高賢室ら9男8女
正室:鳥居忠意九女・虎子
継室:間部詮央長女・菊子
秀便日向正好溝口秀久信陽田中玄恵室ら8男8女
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織田 秀綿(おだ ひでつら)は、江戸時代中期から後期にかけての大名大和国柳本藩の第10代藩主官位従五位下筑前守大和守。尚長流織田家10代。

生涯

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8代藩主・織田秀賢の三男として誕生。幼名は富十郎。幕府には9代藩主・織田長恒の長男と届けられた。

明和3年(1766年)10月16日、長恒が死去したため、家督を相続した。明和8年(1771年)7月28日、10代将軍・徳川家治御目見する。安永元年(1772年)江戸火消役を命じられる。安永3年(1774年)12月18日、従五位下筑前守に叙任する。安永5年(1776年)、駿府加番を命じられる。安永8年(1779年)5月、鎌倉を訪れて、織田長好の建立した建長寺長好庵などを参詣する。明和6年(1769年)1月15日、柳本領内で百姓一揆が起こり、12名の百姓を処罰した。享和2年(1802年)12月にも年貢軽減を求めて農民が柳本陣屋に押し寄せ、藩側の発砲で死傷者を出した。

文化3年(1806年)9月20日、死去。享年51。法号は法光院殿通山宗貫大居士。墓所は東京都港区南麻布天真寺

系譜

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子女は8男8女。