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結城直朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
結城 直朝
時代 南北朝時代
生誕 正中2年(1325年
死没 興国4年/康永2年4月2日1343年4月26日
改名 犬鶴丸(幼名)、直朝
別名 結城七郎(通称)
戒名 大竜庵固翁堅大
墓所 関城跡茨城県筑西市
官位 左衛門尉中務少輔
幕府 室町幕府
主君 足利尊氏
氏族 結城氏
父母 結城朝祐
兄弟 直朝直光、桐瀬某(三郎、駿河守
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結城 直朝(ゆうき なおとも)は、南北朝時代武将下総結城氏7代当主。結城七郎と号した[1]幼名は犬鶴丸[2]官位は、左衛門尉中務少輔[1]

生涯

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正中2年(1325年)、6代当主・結城朝祐嫡男として誕生。足利直義より偏諱を受けて直朝と名乗る[要出典][注 1]

延元元年(1336年)4月、父・朝祐が多々良浜の戦いで戦死したため、12歳で家督を継いだ[3][注 2]。直朝は引き続き北朝勢力に与し、南朝方の白河結城氏小田氏関氏などと対立した。

また、朝祐は、生前、箱根・竹ノ下の戦いなどの戦功により、足利尊氏から常陸国関郡(新治西郡南条)[5]を宛てがわれていた[6]。直朝は同郡支配のために戦い続けている[2]

興国4年/康永2年(1343年)、尊氏の重臣・高師冬に従って、南朝方の北畠親房関宗祐宗政父子が守る常陸国関城の攻撃に参加した[7][8]関城合戦)。

同年4月3日、関城から出撃した春日顕国との戦いで重傷を負い、死去した[4][1][7][注 3]。享年19[1][7]。大竜庵固翁堅大とされた[1]。関城跡に直朝の墓が現存する[9]

嗣子がなく、弟・直光が14歳で家督を継いだ[10]

家族

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家督を継いだ直光の他に、「結城系図」には、桐瀬某(三郎、駿河守)という弟が記述されており、直光から桐瀬領を配分されたとしている[1]

また、『系図纂要』に記載のある久朝、氏義について、『結城市史』第四巻は、他との混同を指摘している[11]

結城七社

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直朝は、関城攻略への参戦に際して、七曜星に戦勝祈願し、康永2年(1343年)、結城七社を建立したといわれている(「結城御代記」)[12][7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 結城氏は鎌倉将軍府の管轄国内の武士であった
  2. ^ 『結城市史』第四巻では、朝祐の戦死についての記述をはじめ、「結城系図」の内容について吟味が必要としている[4]
  3. ^ 坑道を掘って関城を攻略しようとする作戦に参加したが、城兵に看破され敗走する際に討ち取られたとも[要出典]

出典

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  1. ^ a b c d e f 結城市史編さん委員会a 1977, p. 665.
  2. ^ a b 関城町史編さん委員会 1987, p. 202.
  3. ^ 結城市史編さん委員会a 1977, pp. 664–665.
  4. ^ a b 結城市史編さん委員会b 1980, pp. 340–341.
  5. ^ 関城町史編さん委員会 1987, p. 124.
  6. ^ 関城町史編さん委員会 1987, pp. 175–176.
  7. ^ a b c d 連載 結城家物語 -四百年の歴史-(令和4年5月号~)”. 結城市 (2023年5月18日). 2023年8月19日閲覧。
  8. ^ 結城市史編さん委員会b 1980, p. 346.
  9. ^ 関城跡”. 観光いばらき. いばらき観光キャンペーン推進協議会. 2023年8月20日閲覧。
  10. ^ 関城町史編さん委員会 1987, p. 209.
  11. ^ 結城市史編さん委員会b 1980, p. 834.
  12. ^ 結城市史編さん委員会b 1980, p. 528.

参考文献

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  • 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第一巻《古代中世史料編》、結城市、1977年3月30日。NDLJP:9641592 (要登録)
  • 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第四巻《古代中世通史編》、結城市、1980年10月30日。NDLJP:9642041 (要登録)
  • 関城町史編さん委員会 編『関城町史』《通史編 上巻》関城町、1987年3月31日。NDLJP:9644036 (要登録)

外部リンク

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