結城直朝
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 正中2年(1325年) |
死没 | 興国4年/康永2年4月2日(1343年4月26日) |
改名 | 犬鶴丸(幼名)、直朝 |
別名 | 結城七郎(通称) |
戒名 | 大竜庵固翁堅大 |
墓所 | 関城跡(茨城県筑西市) |
官位 | 左衛門尉、中務少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利尊氏 |
氏族 | 結城氏 |
父母 | 結城朝祐 |
兄弟 | 直朝、直光、桐瀬某(三郎、駿河守) |
結城 直朝(ゆうき なおとも)は、南北朝時代の武将。下総結城氏7代当主。結城七郎と号した[1]。幼名は犬鶴丸[2]。官位は、左衛門尉、中務少輔[1]。
生涯
[編集]正中2年(1325年)、6代当主・結城朝祐の嫡男として誕生。足利直義より偏諱を受けて直朝と名乗る[要出典][注 1]。
延元元年(1336年)4月、父・朝祐が多々良浜の戦いで戦死したため、12歳で家督を継いだ[3][注 2]。直朝は引き続き北朝勢力に与し、南朝方の白河結城氏、小田氏、関氏などと対立した。
また、朝祐は、生前、箱根・竹ノ下の戦いなどの戦功により、足利尊氏から常陸国関郡(新治西郡南条)[5]を宛てがわれていた[6]。直朝は同郡支配のために戦い続けている[2]。
興国4年/康永2年(1343年)、尊氏の重臣・高師冬に従って、南朝方の北畠親房や関宗祐・宗政父子が守る常陸国関城の攻撃に参加した[7][8](関城合戦)。
同年4月3日、関城から出撃した春日顕国との戦いで重傷を負い、死去した[4][1][7][注 3]。享年19[1][7]。大竜庵固翁堅大と諡された[1]。関城跡に直朝の墓が現存する[9]。
家族
[編集]家督を継いだ直光の他に、「結城系図」には、桐瀬某(三郎、駿河守)という弟が記述されており、直光から桐瀬領を配分されたとしている[1]。
また、『系図纂要』に記載のある久朝、氏義について、『結城市史』第四巻は、他との混同を指摘している[11]。
結城七社
[編集]直朝は、関城攻略への参戦に際して、七曜星に戦勝祈願し、康永2年(1343年)、結城七社を建立したといわれている(「結城御代記」)[12][7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f 結城市史編さん委員会a 1977, p. 665.
- ^ a b 関城町史編さん委員会 1987, p. 202.
- ^ 結城市史編さん委員会a 1977, pp. 664–665.
- ^ a b 結城市史編さん委員会b 1980, pp. 340–341.
- ^ 関城町史編さん委員会 1987, p. 124.
- ^ 関城町史編さん委員会 1987, pp. 175–176.
- ^ a b c d “連載 結城家物語 -四百年の歴史-(令和4年5月号~)”. 結城市 (2023年5月18日). 2023年8月19日閲覧。
- ^ 結城市史編さん委員会b 1980, p. 346.
- ^ “関城跡”. 観光いばらき. いばらき観光キャンペーン推進協議会. 2023年8月20日閲覧。
- ^ 関城町史編さん委員会 1987, p. 209.
- ^ 結城市史編さん委員会b 1980, p. 834.
- ^ 結城市史編さん委員会b 1980, p. 528.
参考文献
[編集]- 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第一巻《古代中世史料編》、結城市、1977年3月30日。NDLJP:9641592。(要登録)
- 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第四巻《古代中世通史編》、結城市、1980年10月30日。NDLJP:9642041。(要登録)
- 関城町史編さん委員会 編『関城町史』《通史編 上巻》関城町、1987年3月31日。NDLJP:9644036。(要登録)