島風 (峯風型駆逐艦)
島風 | |
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基本情報 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
駆逐艦 哨戒艇 |
級名 |
峯風型駆逐艦 第一号型哨戒艇 |
建造費 | 2,028,495円(予算成立時の価格) |
艦歴 | |
計画 | 1917年度(八四艦隊案) |
起工 | 1919年9月5日 |
進水 | 1920年3月31日 |
竣工 | 1920年11月15日 |
最期 | 1943年1月12日被雷沈没 |
除籍 | 1943年2月10日 |
その後 |
1940年4月1日哨戒艇編入、第一号哨戒艇と改名 1941年高速輸送艦に改造 |
要目 | |
基準排水量 |
駆逐艦時:1,215トン 哨戒艇時:1,270トン |
公試排水量 |
駆逐艦時:1,345トン 哨戒艇時:1,700トン |
全長 | 102.6メートル |
水線長 | 99.8メートル |
最大幅 | 8.92メートル |
吃水 |
駆逐艦時:2.79メートル 哨戒艇時:2.9メートル |
ボイラー |
駆逐艦時:ロ号艦本式缶 4基 哨戒艇時:ロ号艦本式缶 2基 |
主機 | パーソンズ式タービン 2基 |
推進 | 2軸 |
出力 |
駆逐艦時:38,500馬力 哨戒艇時:19,250馬力 |
速力 |
駆逐艦時:40.698ノット 哨戒艇時:20.0ノット |
燃料 | 重油395トン |
航続距離 | 14ノットで3,600カイリ |
乗員 | 154名 |
兵装 |
駆逐艦時 45口径三年式12cm砲 4門 三年式機銃 2挺 53.3cm連装魚雷発射管 3基 (魚雷8本) 一号機雷 16個 哨戒艇時 45口径三年式12cm砲 2門 九六式25mm機銃 連装3基、単装4挺 爆雷 18個 |
搭載艇 | 内火艇x1隻、20ftカッターx2隻、20ft通船x1隻 |
その他 |
大発2隻 陸戦隊約250名収容可能 |
島風(しまかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。峯風型駆逐艦の4番艦である。日本の駆逐艦として公試運転時に40.698ノットの新記録を出したことで知られる。1940年に哨戒艇に改造され第一号哨戒艇(だいいちごうしょうかいてい、旧字体:第一號哨戒艇)と改名し、艦名は2代「島風」に引き継がれた。「島風」の名は「島に吹く風」または「島より吹き来る風」[1]に由来する。
艦歴
[編集]舞鶴海軍工廠で建造。一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。竣工後直ちに第3駆逐隊に編入された。
1928年(昭和3年)10月11日午後9時20分、浦賀水道において、小演習に参加していた「島風」に僚艦「夕風」が衝突し、右舷艦首に大破口が生じ横須賀で修理を行った。
1937年(昭和12年)から翌年にかけて、日中戦争に伴う華中、華南での沿岸諸作戦に参加。1937年9月25日、第二次上海事変に際し黄浦江にて作戦中、中国軍の射撃を受け、乗艦していた第三駆逐隊司令博義王中佐と皇族付武官・早川幹夫中佐が戦傷を受けた。
1938年(昭和13年)12月、第三駆逐隊は解隊し予備艦となる。
1940年(昭和15年)4月、哨戒艇に改装され艦種変更、「第一号哨戒艇」と改名される。太平洋戦争開戦直前、後甲板・艦尾を改造し、大発2隻を搭載する強襲揚陸艦となり、12cm単装砲1門と魚雷兵装を撤去し陸戦隊約250名収容可能の居住区を設けた。
開戦後、フィリピン、蘭印攻略作戦に参加。1942年3月から4月には西部ニューギニア戡定作戦に参加。ついでソロモン諸島方面で活動。1943年(昭和18年)1月12日、給油船「あけぼの丸」を護衛中、米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃によりビスマルク諸島カビエン沖で沈没。
歴代艦長
[編集]※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』222-223頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]駆逐艦長
[編集]- (心得)岩城茂身 少佐:1920年9月17日[3] - 1920年12月1日[4]
- (心得)有地十五郎 少佐:1920年12月1日 - 1921年12月1日
- 有地十五郎 中佐:1921年12月1日 - 1922年11月20日
- (兼・心得)江口喜八 少佐:1922年11月20日 - (本職:灘風駆逐艦長心得)
- (心得)森田重房 少佐:1922年12月1日[5] -
- (心得)小沢治三郎 少佐:1923年8月5日 -
- 森田重房 中佐:1923年12月1日[6] - 1924年8月5日[7]
- (心得)小沢治三郎 少佐:1924年8月5日[7] - 1925年1月20日[8]
- 小林宗之助 中佐:1925年1月20日 - 1925年12月1日[9]
- 穂本繁治 少佐:1925年12月1日 - 1927年2月15日[10]
- 長尾惣助 少佐:1927年8月10日 - 1928年12月10日
- 藤田類太郎 中佐:1928年12月10日 - 1929年9月5日 同日より予備艦
- 清水他喜雄 少佐:1929年9月5日[11] - 1931年12月1日[12]
- 中瀬泝 少佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日 同日より予備艦
- 森可久 少佐:1932年12月1日[13] - 1933年11月1日[14]
- (兼)池田久雄 中佐:1933年11月1日[14] - 1933年12月15日[15](本職:第三駆逐隊司令)
- 西田正雄 中佐:1933年12月15日 - 1934年8月15日[16]
- 島居威美 少佐:1934年8月15日 - 1936年6月15日
- 白石長義 少佐:1936年6月15日 - 1936年12月1日
- 古川文次 少佐:1936年12月1日 - 1937年9月28日[17]
- 有本輝美智 少佐:1937年9月28日[17] - 1937年12月1日[18]
- 宮内新一 少佐:1937年12月1日[18] - 1939年1月15日[19]
- (兼)有馬時吉 少佐:1939年1月15日[19] - 1939年3月10日[20] (本職:汐風駆逐艦長)、以後駆逐艦長の発令無し。
- 第一哨戒艇隊特務艇長[注釈 1]
注釈
[編集]- ^ 海軍辞令公報上の職名は全員が「第一哨戒艇隊特務艇長兼分隊長」で、誰がどの艇の艇長なのかは記載されていないが、本艇については「第一哨戒艇隊第一号哨戒艇事変日誌」 アジア歴史資料センター Ref.C08030620500 と突合せを行うことにより、当時の特務艇長の特定が可能。なお第一哨戒艇隊特務艇長は海軍省が発令するもので、防備隊編制令や哨戒艇乗員標準による制限を受けない。
脚注
[編集]- ^ 1928年 東京水交社 出版 浅井将秀 編 「#日本海軍艦船名考」P.125〔島風 しまかぜ Simakaze.島ヨリ吹キ來ル風。〕
- ^ 『官報』第2419号、大正9年8月24日。
- ^ a b c 『官報』第2440号、大正9年9月18日。
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ a b 『官報』第3586号、大正13年8月6日。
- ^ 『官報』第3722号、大正14年1月21日。
- ^ 『日本海軍史』第9巻、226頁。
- ^ 『官報』第37号、昭和2年2月16日。
- ^ 『官報』第808号、昭和4年9月6日。
- ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
- ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2053号、昭和8年11月2日。
- ^ 『官報』第2089号、昭和8年12月16日。
- ^ 『官報』第2288号、昭和9年8月16日。
- ^ a b 「昭和12年9月29日付 海軍辞令公報号外 第63号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072300
- ^ a b 「昭和12年12月1日付 海軍辞令公報号外 第99号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ a b 「昭和14年1月16日付 海軍辞令公報 (部内限) 第287号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075300
- ^ 「昭和14年3月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第312号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ 「昭和16年11月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第752号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083200
- ^ 「昭和17年4月10日付 海軍辞令公報(部内限)第841号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085100
参考文献
[編集]- 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。