白埼 (給糧艦)
白埼 | |
---|---|
特別輸送艦時の白埼(1946年初頭)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 大阪鉄工所桜島工場[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 運送艦[3](給糧艦[2]) |
級名 | 杵埼型[3] |
建造費 | 予算:2,110,000円[4] |
母港 | 呉[5] |
艦歴 | |
計画 | マル臨計画[6](昭和16年度[2]) |
起工 | 1942年5月18日[2] |
進水 | 1942年11月5日[2] |
竣工 | 1943年1月30日[2] |
除籍 | 1945年10月5日(日本海軍)[2] |
その後 |
1945年12月1日特別輸送艦[7] その後特別保管艦[2] 1947年10月国府海軍武陵となる[2] |
要目(計画) | |
基準排水量 | 910.06英トン[8] |
公試排水量 | 960.00トン[8][9] |
満載排水量 |
990.89トン[8][9] または990.90トン[10] |
軽荷排水量 | 734.70トン[9] |
全長 | 62.285m[8] |
水線長 | 約59.45m[8] |
垂線間長 | 58.00m[8] |
最大幅 | 9.418m[8] |
水線幅 | 9.400m[8] |
深さ | 5.30m[8] |
吃水 |
軽荷平均:2.52m[10] 公試平均:3.130m[8] 満載平均:3.20m[8] |
主機 | 艦本式23号甲8型(単動4サイクル[11])ディーゼル 2基[12] |
推進 |
2軸 x 330rpm[11] 直径1.900m[11] |
出力 | 1,600shp[8] |
速力 | 約14ノット[8] |
燃料 | 重油:57.67トン[8][9] |
航続距離 | 3,500カイリ / 12ノット[8] |
乗員 |
竣工時定員:64名[13] 1945年4月総員:110名[14] |
搭載能力 |
冷凍品、糧食:84.60トン[9] 真水:57.70トン[9] |
兵装 |
40口径3年式8cm高角砲C型 1基、弾薬300発[15] 13mm機銃 連装1基2挺、弾薬4,000発[15] 九五式爆雷8個[12](計画外) 須式手動60cm探照灯 1基[16] |
搭載艇 | 8m(10m)通船 1隻、6m通船 1隻[17] |
その他 | 1トンデリック4基[17] |
白埼(しらさき)[18]は、日本海軍の運送艦[3](給糧艦[2])。 杵埼型給糧艦の1隻[3]。 艦名は岬の名であるが、白埼の名は海図上でも10カ所近くあり、どの地名を採用したかは判らない[19]。 五島列島の若松島や三重県鳥羽沖の菅島、大分県佐伯湾東部に突き出した岬の名などがある[19]。
艦歴
[編集]昭和16年(1941年)度(後にマル臨計画と呼称[6])に雑役船として計画された[2]。 1942年(昭和17年)5月18日に大阪鉄工所桜島工場で起工[2]、 4月20日白埼と命名[18]、 8月20日本籍を呉鎮守府と仮定[20]、 特務艦類別等級の運送艦、杵埼型に類別された[3]。 同年11月5日進水、1943年(昭和18年)1月30日に竣工[2]、 同日本籍を呉鎮守府とし、在役特務艦に定められ[5]、 連合艦隊附属に編入された[21]。
太平洋戦争では主に北方での糧食補給と海上護衛任務に従事した[2]。 3月2日に呉を出港し大湊に回航した[21]。
1944年(昭和19年)3月20日、幌筵東海岸で触礁し、大湊と函館で修理を実視した[21]。 7月13日に大湊を出港し、千島方面の補給任務に従事した[21]。
1945年(昭和20年)2月27日に大湊に入港[21]、 4月は大湊に停泊し整備作業などを実視した[22]。 23日に約42トン(仏トン以下同)、24日に約15トンの糧食を[23]、また20日に50トン、24日に20トンの飲料水を搭載し[23]、 25日17時56分(または55分)に出港、キ503船団の護衛と糧食補給任務のために占守島片岡に向かった[24]。
終戦時は大湊に所在した[2]。 1945年(昭和20年)10月5日除籍[2]。 同年12月1日に特別輸送艦に指定され[7]、 復員輸送に従事した[2]。 その後特別保管艦に指定され、1947年(昭和22年)10月3日、青島で賠償艦として中国に引き渡され、国府海軍に所属し武陵(ウーリン[19])と命名[2]。日本海軍の8センチ砲1門、40ミリ機銃1門を搭載[25]。1949年、国共和平交渉決裂により揚子江上流に取り残された国府軍艦艇のうち「武陵」を含む何隻かは脱出を試み、その際4月23日に「武陵」は座礁するも離礁でき、台湾まで逃れることができた[26]。 1954年(または1970年5月1日[27])に除籍された[2]。
脚注
[編集]- ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.869、No.2749
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32
- ^ a b c d e #昭和17年内令3巻/8月(3)画像6-7、昭和17年8月20日内令第1555号
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.805
- ^ a b #昭和18年内令1巻/1月(2)画像48、昭和18年1月30日内令第72号。
- ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.803-804
- ^ a b #S20.12-S21.6第2復員省公報/12月画像13-14、昭和20年12月1日第二復員省復内令第6号
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #一般計画要領書(特務艇)p.2、重要寸法等。「註.上記計画ハ昭和十○年○月計画当初ノモノヲ杵埼完成成績ヲ参照シ艦本ニテ調○セルモノナリ.」
- ^ a b c d e f #一般計画要領書(特務艇)p.22、重量比較表
- ^ a b #一般計画要領書(特務艇)p.29、復原性能
- ^ a b c #一般計画要領書(特務艇)p.14、機関
- ^ a b #海軍造船技術概要p.917。
- ^ #S18.6.30内令提要巻1(下)原稿/定員(9)画像33、運送艦定員表 其ノ七
- ^ S20.4戦時日誌, pp. 29–30、人員の現状。
- ^ a b #一般計画要領書(特務艇)p.4、砲熕兵装
- ^ #一般計画要領書(特務艇)p.10、電気兵装
- ^ a b #一般計画要領書(特務艇)p.18、主要ナル艤装品
- ^ a b #昭和17年内令3巻/8月(3)画像19-21、昭和17年8月20日達第2338号
- ^ a b c 銘銘伝 2014, p. 586.
- ^ #昭和17年内令3巻/8月(3)画像1-3、昭和17年8月20日内令第1548号
- ^ a b c d e #写真日本の軍艦第13巻p.47、伊達久「『特務艦』行動年表」白埼(給糧艦)
- ^ S20.4戦時日誌, pp. 21–27、作戦経過概要4月1日から25日。
- ^ a b S20.4戦時日誌, pp. 38.
- ^ S20.4戦時日誌, p. 27、作戦経過概要25日。
- ^ 中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り、144ページ
- ^ 中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り、138、144ページ
- ^ 中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り、144、146ページ
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所)
- 『昭和17年1月~12月 達/8月』。Ref.C12070115300。
- 『昭和17年7月~9月 内令 3巻/昭和17年8月分(3)』。Ref.C12070164600。
- 『昭和18年1月~4月 内令 1巻/昭和18年1月(2)』。Ref.C12070175100。
- 『昭和20年2月1日~昭和20年4月30日 特務艦早鞆戦時日誌 特務艦白崎』。Ref.C08030635100。
- 『昭和20年12月 昭和21年6月 第2復員省公報/12月』。Ref.C12070534400。
- 『昭和22年4月 昭和22年10月 復員庁第2復員局辞令公報/10月』。Ref.C13072166000。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 田村俊夫「中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍真実の艦艇史2』、2005年、学習研究社、ISBN 4-05-604083-4、137-148ページ
- (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6。
- 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」。