志自岐 (給油艦)
志自岐 | |
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竣工直前の「志自岐」(1916年3月、呉)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 呉海軍工廠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
運送船(給油船[2]) 運送艦[3](給油艦) |
建造費 | 予算 703,000円[4] |
母港 | 佐世保[2] |
艦歴 | |
計画 | 大正4年度[5] |
発注 | 1915年3月18日製造訓令[6] |
起工 | 1915年11月26日[注釈 1] |
進水 | 1916年3月15日[7] |
竣工 | 1916年5月15日[8][9][10] |
最期 | 1919年8月15日座礁し、のち沈没[9] |
除籍 | 1920年6月1日[9] |
改名 | (志自岐丸[2] →)志自岐[11] |
要目 | |
常備排水量 |
計画 5,300英トン[7] 実際 5,366.8トン[12] |
満載排水量 | 6,021.3トン[12] |
総トン数 | 約2,500総トン[13] |
全長 | 312.58 ft 0 in (95.27 m)[12] |
垂線間長 | 300 ft 0 in (91.44 m)[7] |
最大幅 | 42 ft 0 in (12.80 m)[7] |
深さ | 26 ft 6 in (8.08 m)[12] |
吃水 |
常備計画 20 ft 1+3⁄4 in (6.14 m)[7] 常備 20.25 ft 0 in (6.17 m)[12] 満載 22.417 ft 0 in (6.83 m)[12] |
ボイラー | 艦本式缶 4基[7] |
主機 | 直立3気筒3段膨張レシプロ1基[1] |
推進 | 1軸[7] |
出力 |
計画 2,500馬力[7] 実際 2,930馬力[12] |
速力 |
計画 12ノット[7] 実際 12.5ノット[12] |
燃料 | 重油タンク容量 345英トン[7][注釈 2] |
乗員 | 定員 116名[14] |
搭載能力 | 計画 石油:3,000英トン[1][注釈 3] |
兵装 | 40口径安式8cm単装砲 2門[7][注釈 4] |
搭載艇 | 3隻[7] |
その他 | 約3トンのデリック3本[1] |
志自岐(しじき)は、日本海軍の運送船[11](給油船[6])、沈没後に運送艦[3](給油艦)に類別。艦名は長崎県平戸島の志々岐埼による[8][15]。「志自岐」は1915年(大正4年)以前の水路図誌での表記[15]。
日本海軍が初めて建造した給油船(現在のタンカーに相当)で、1919年にタラカンからの重油輸送中に遭難、沈没し多くの殉職者を出した。
艦歴
[編集]計画
[編集]明治末から日本海軍の重油輸送は民間のタンカーが担っていたが、第1次世界大戦開戦後はタンカーの不足が目立った[16]。また八八艦隊計画で大量の重油輸送が必要となると予想された[1]。日本海軍では1914年(大正3年)2月に三千噸積重油船を至急建造する必要がある、という建議が艦政本部二部から出された[17]。
それによると、この頃の国内産の重油は主に鉄道を利用し横須賀へ輸送しているだけだったが[18]、国内産で35,000トン(トンは英トンを指す、以降すべて同じ)の供給も困難ではないと予想された[19]。重油を鉄道輸送した場合は年間10,000トン[19]から15,000トンが限度であり[20]、また引き込み線を敷き、ポンプなどを全て新設する必要もあった[19]。一方海上輸送の場合は現在の受け入れ設備を拡充し[21]、この1隻で年間10航海、約30,000トンが輸送できる計画だった[22]。金剛型が完成した場合の平時重油使用量は約25,000トンが見込まれていたので、国内産重油のみで全てを賄うことも可能という意見だった[19]。また平時、戦時に関わらず海外からの重油輸入、戦時の進出根拠地への輸送にも活用できるとされた[23]。
軍令部からは戦時の使用を考え6,000噸積に、艦政本部三部からは1,500噸積の提案もあったが、6,000噸積は平時の使用では大きく、1,500噸積では平時でも小さすぎるとされ、当初の計画通りの3,000噸積が適当とされた[24]。またこの年に第1次世界大戦が起こり、戦時での民間船の徴用の困難さや、その改造に時間の掛かることが痛感され、海軍所有船の至急建造に動いた[25]。
建造
[編集]1915年(大正4年)3月18日に製造の訓令が呉鎮守府に出され[6]、予算は大正4年度から大正5年度の軍備補充費から703,000円[4]が捻出された[26]。設計はタンカー建造経験のある三菱造船がおこない呉海軍工廠で建造された[1][27]。軍艦構造という訳ではなく艦型そのものは民間タンカーと違いはない[16]。ただ速力12ノットが指定され、ボイラーは艦本式缶4基を2室に収めた[1]。また現代のタンカーとは違い、船艙が3つあり[28]、デリックを3本設けて[1]物資も搭載できるようになっていた[注釈 5]。
同年5月21日、船名は「志自岐丸」を予定し一旦はそのように命名された[29]が、起工前の同年8月23日に船名を「志自岐」とし[30]、11月26日に起工した[注釈 1]。翌1916年(大正5年)3月15日進水[7]、5月15日に竣工[9]、引き渡された。佐世保鎮守府籍[29]。
1916年
[編集]同年6月から12月まで秋田県土崎、新潟から横須賀、呉、佐世保の各軍港への重油輸送を行う予定となり[31]、6月は計画通りに土崎から呉へ3,007トン[32]、佐世保へ2,969トンの重油を輸送した[33]。7月2日土崎に入港の際、風や波に流され坐洲[34]、7月17日に救援を得て離洲し[35]舞鶴で入渠[36]、その後9月末まで佐世保で入渠し修理を行った[37]、10月から輸送を再開し、12月まで土崎からの重油輸送を行った[38]。
1917年以降
[編集]冬期は天候、雄物川の水深、氷結などにより土崎での重油積み込みは難しいため[39]、翌1917年(大正6年)1月まで修理などを行い[40]、2月には佐世保、馬公間の軍需品輸送[41]、3月も鎮海へ測量艇7隻など軍需品の輸送を行った[42]。
3月末に土崎、新潟からの重油輸送に戻り、新潟から佐世保へ2,710トン[43]、土崎から佐世保へ2,998トン[44]、横須賀ヘ3,037トン[45]、呉へ3,080トンの重油を輸送した[45]。
この年の4月に日本海軍はボルネオ島産の重油60,000トンを同年6月から21カ月間で購入することを決定し[46]、本船はその輸送に当たることになった[47]。第1回目は6月20日佐世保出港[48]、ミリで重油3,243トンを搭載し[49]7月19日佐世保に帰港した[50]。
以降は1918年(大正7年)8月に国内の輸送を行った以外[51]、ほとんどボルネオからの石油輸入を行った[1]。
遭難
[編集]1919年(大正8年)にボルネオ島のタラカンから佐世保港へ重油を輸送中[1]、8月9日のフィリピン東方海上から[52]台風の荒天に巻き込まれた[53]。種子島水道(種子島と屋久島の間)を航行する予定だった[54]が進路を誤り[1]8月15日午後0時55分頃[55]に種子島南方の源三郎礁付近で座礁(沈没原因調査報告によると釣出瀬に触礁[56])し浸水[57]、波浪で自然と離礁したが機関運転不能のため錨を降ろして停船しようとした[55]。だが波浪のため錨鎖が切れ、船は浸水と打ち上げる波により船首から沈没した[55]。沈没位置は北緯30度18分、東経130度57分、「釣出瀬」の北500m[58][注釈 6]、海図室の時計の停止時刻[59]から沈没時刻は1時35分頃と推定されている[58]。
この事故で乗組員120名中、生存者は7人、死者15名、その他多くの乗組員は行方不明となった[60]。公文備考に収録の『嗚呼特務船志自岐』によると生存者は島に漂着した8名[61]、乗員は士官以上13名、准士官6名、下士卒98名、傭人3名[62](計120名)で、うち1名は病気入院中で乗船していなかった[63]。その他に便乗者が1名いた[64]。8月28日に鎮霊祭を行いその夜は通夜、翌29日に矢竹練兵場で東伏見宮・伏見若宮臨席の下に葬塲祭、その後に日宇海軍埋葬地に埋葬、という次第で海軍合同葬儀を行った[65]。
なお捜索救助には佐世保から「肥前」と第九艇隊(「雁」「燕」)、呉から「浅間」「春風」が参加[66]、遅れて救難船「猿橋丸」も派遣された[67]。また潜水調査のため庭田尚三が派遣されている[68]。
その後
[編集]破損の状況や附近の潮流などにより船体の引き揚げは困難と判断し、重要物件のみを引き揚げて船体は廃棄とされた[69]。船籍はそのまま残り1920年(大正9年)4月1日に特務艦籍に編入、運送艦に類別[3]され、2箇月後の6月1日に除籍された[9]。船体は1920年(大正9年)9月20日に売却処分が決定[70]、1924年(大正13年)6月25日に管理権を放棄した[71][9]。
その後種子島では夜釣りに出た漁師によって、何百という電気を灯した軍艦の幽霊船が、浅瀬である所を通って行く様が何度も目撃されたという。[72]
歴代艦長
[編集]- 指揮官
- 匝瑳胤次 中佐:1916年4月1日 - 1916年12月1日[73]
- 人見三良 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日[74]
- 前川直平 中佐:1917年12月1日[75] - 1918年11月10日[76]
- 石川庄一郎 中佐:1918年11月10日[76] - 1919年8月15日殉職[77]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b #昭和造船史1p.794-795による。#日本海軍艦船名考p.204では2月26日になっているが、製造訓令前の起工はありえない。#T4公文備考41/製造付製造費予算(雑船其他)(4)画像15の11月24日附呉工第4号の10の222では11月26日起工予定とある。
- ^ 『世界の艦船』によると石炭345英トン。#T8公文備考31/諸報告(5)画像16-17に『「ツリム」変更ノ為一番二番給油庫(重油タンクのこと)ヨリ約百噸ノ重油ヲ燃油庫ニ移セリ』とあり、燃料に重油を使用していたのが分かる。また#T8公文備考31/諸報告(5)画像25-31の『破損箇所図』に炭庫は描かれていない。
- ^ 計画は三千噸積であるが、#T8公文備考26/志自岐、室戸行動(1)画像28によると1919年2月にタラカンで自艦の燃料を含めて重油3,523.613英トンを積んでおり、実際の載貨重量はその程度と思われる。
- ^ #日本海軍特務艦船史p.13によると『最後まで砲兵装を陸揚げして行動していたようである』とあるが、#T6公文備考28/運送船志自岐(2)画像28、大正6年の電報には『同船ハ武装セリ』と明記され、#T6公文備考28/運送船志自岐(4)画像16の同年ボルネオへの第1回航海報告には『今回武装シタル三吋砲二門ノ公試発射施行ノ上』と記載がありボルネオ航海から武装していることがわかる。また#T8公文備考31/救助出動画像20には『(ホ)船橋ハ大破損ノ儘存在シ両舷ノ大砲ハ潮流ニ従ヒ遊動シ居レリ』とあり、遭難時も船橋両舷に砲を搭載していたことがわかる。
- ^ #日本補助艦艇物語p.220で『甲板上を利用して軍港と軍港間の物資輸送に資したことと、』とあるが、本船は船艙を持っていた。
- ^ #T8公文備考31/諸報告(6)画像9、9月1日提出の運送船志自岐沈没状態調査報告(第一回)では『釣出シノ瀬ノ北四百米』となっている。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k #日本海軍特務艦船史p.13
- ^ a b c d #海軍制度沿革巻八p.397『大正四年五月二十一日(達七五) 軍備補充費ヲ以テ呉海軍工廠ニ於テ製造スヘキ三千噸積給油船ヲ志自岐丸ト命名シ其ノ本籍ヲ佐世保鎮守府ト定ム』
- ^ a b c #海軍制度沿革巻八p.103『大正九年四月一日(達四〇) 特務艦類別等級別表ノ通定ム』
- ^ a b #T5公文備考24/製造(雑船)(3)画像30、軍備補充費支弁三千噸積給油船製造豫算書
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.245
- ^ a b c #T4公文備考41/製造付製造費予算(雑船其他)(2)画像15-16『官房第八四一號 大正四年三月十八日 海軍大臣 呉鎮司令長官アテ 給油船製造ノ件 軍備補充費ヲ以テ三千噸積給油船壱隻別紙図面及製造方法書並豫算書ニ依リ其ノ府工廠ヲシテ製造セシムヘシ 但シ竣工期限ヲ大正五年五月十五日トス 右訓令ス (別紙豫算書壱葉図面目録弐葉図面類十通添) (了)』
- ^ a b c d e f g h i j k l m #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その三「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務船」
- ^ a b #日本海軍艦船名考p.204
- ^ a b c d e f #T13公文備考25/沈設艦引揚の件画像4、元特務艦志自岐に関する件
- ^ #T5公文備考27/受授、引渡画像15、電報『志自岐本日受領結了 五月十五日 呉鎮司令長官』。同画像16、電報『運送船志自岐本日受領ス (大正5年)五月十五日 佐鎮司令長官』
- ^ a b #海軍制度沿革巻八p.397『大正四年八月二十三日(達一一〇) 運送船「高崎丸」ヲ「高崎」ニ同「志自岐丸」ヲ「志自岐」ニ工作船「關東丸」ヲ「關東」ニ改ム』
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- ^ #T7公文備考29/雑款画像19、特務船使用予定表
- ^ #海軍制度沿革巻十の1p.533『大正五年三月二十二日(内令五三) 海軍定員令別中運送船定員表ヲ附表ノ通改正セラル | 船第二表 | 運送船定員表 | |高崎 | 勞山 | 靑島 | 膠州 | 志自岐 |(詳細備考略)|』將校、機關將校、將校相富官10人、特務士官、准士官5人、下士22人、卒79人
- ^ a b #聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)p.585
- ^ a b #日本補助艦艇物語p.220
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像42-56、『艦本二機密第一二号 大正三年二月 海軍艦政本部第二部長 鈴木富三○ 海軍艦政本部長 伊地知季珍殿 三千噸積重油船壱艘建造ノ建議(以下略)』
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- ^ a b c d #T3公文備考15/製造(3)画像46
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像49-50
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像50,52-53『(一)各軍港ニハ左ノ如ク受入装置アリ(以下略)』
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像55
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像56
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像40-41、意見
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像38-39、『官房機密第一五二三號 大正三年十一月起案 十二月十八日附決裁済 三千噸積重油船一隻製造ノ件』
- ^ #T3公文備考15/製造(3)画像59『艦政本部長 会計部長 ○○部長 覚書 大正三年七月二日(本文略)備考 減額シタル金額ハ重油船製造費ノ一部ニ充ツル豫定ナリ』
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- ^ 「大正4年8月23日付 達第110号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070069500
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- ^ #T5公文備考29/志自岐画像10-11の大正5年6月12日附輸送報告の件
- ^ #T5公文備考29/志自岐画像12-13の大正5年6月28日附輸送報告の件
- ^ #T5公文備考32/遭難に関する調査書類(1)画像8-11
- ^ #T5公文備考32/遭難に関する調査書類(3)画像33
- ^ #T5公文備考26/貸与画像2『舞鎮第四九八號ノ二 舞鶴鎮守府司令長官 名和叉八郎 海軍大臣加藤友三郎殿 機働艇貸与ノ件 運送船志自岐當工廠第一船渠ニ入渠中通信交通ノ為當港務部所属公称第一六六號汽艇ヲ貸与セシメ候條 右報告ス(終)』
- ^ #T5公文備考29/志自岐画像40-41、大正5年9月8日 志自岐行動ニ関する件、本文は『重油船志自岐ハ本月末日ヲ以テ修理完成出渠ノ予定ニ付試運転自差修正需品搭載等ヲ見積リ十月四日頃ヲ以テ行動差支ナキ見込(以下略)』
- ^ #T5公文備考29/志自岐画像18-19の大正5年10月15日附、同画像21-22の大正5年10月29日附、同画像25-26の大正5年11月14日附、同画像29-30の大正5年12月7日附、#T6公文備考28/運送船志自岐(1)画像45-46の大正6年1月5日附の各輸送報告の件
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(1)画像46
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(1)画像37
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(1)画像4『志自岐第四七號 大正六年三月一日 志自岐指揮官人見三良 海軍省御中 輸送報告ノ件 本船二月十五日佐世保出港十八日馬公着二十一日同地発二十五日佐世保着別紙ノ通リ軍需品輸送候條 右報告ス (別紙一通添) (終)』
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(1)画像16『志自岐第四七號ノ二 大正六年三月十二日於鎮海 志自岐指揮官人見三良 海軍省御中 輸送報告ノ件 本船三月十一日佐世保出港十二日鎮海着別紙ノ通リ軍需品輸送候條 右報告ス (別紙一通添) (終)』。同画像17-19、運送船志自岐第二回軍需品搭載表
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(2)画像1-2、大正6年4月9日附輸送報告の件
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(2)画像20-21、大正6年4月22日附輸送報告の件
- ^ a b #T6公文備考28/運送船志自岐(2)画像22-23、大正6年4月22日附輸送報告の件
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(3)画像1-2『官房第一三四八號 大正六年四月二十七日 大臣 在英造船造兵監督官宛 購買訓令 (以下略)』
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(2)画像28『大正六年五月三十一日起案 六月二十日午前十一時?十分發電済 軍務局長 第一特務艦隊司令官宛 電報(暗号) 運送船志自岐當分英領ボルネオヨリ本邦ヘ重油輸送任務ニ従事ス 第一回行動豫定左ノ通 六月二十日 佐世保發 六月三十日サラワック州ミリ着七月七日發 七月十七日 佐世保著 同船ハ武装セリ』
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(4)画像16、運送船志自岐「ボルネオ」航海報告 二.経過概要
- ^ #T6公文備考28/運送船志自岐(3)画像28-29、大正6年7月26日附輸送報告ノ件
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- ^ #T8公文備考31/諸報告(5)画像15
- ^ #T8公文備考31/諸報告(5)画像16
- ^ a b c #T8公文備考31/諸報告(5)画像18
- ^ #T8公文備考31/諸報告(5)画像19
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- ^ a b #T8公文備考31/諸報告(5)画像18、大正八年九月十六日 佐鎮機密第420号 志自岐触礁沈没原因調査報告の件、『午後一時三十五分頃北緯三十度十八分東経百三十度五十七分釣出瀬ノ北方五百米ノ地点ニ於テ(以下略)』
- ^ #T8公文備考31/救助出動画像20『(ヘ)海圖室ハ大破損シ室内ノ時計ハ一時三十五分ヲ示メセリ』
- ^ “特務艦「志自岐」遭難記念碑(とくむかん「しじき」そうなんきねんひ)”. 南種子町. 2012年6月10日閲覧。
- ^ #T8公文備考31/葬儀関係画像29-30、生存者の漂着
- ^ #T8公文備考31/葬儀関係画像22-29、志自岐乗員名簿
- ^ #T8公文備考31/葬儀関係画像23
- ^ #T8公文備考31/諸報告(1)画像15、大正8年8月19日肥前第6番電報『八、志自岐ニハ秋津洲ヨリ水雷學校ニ入校ノ二水小林謙次朗便乘シ居リタリ』
- ^ #T8公文備考31/葬儀関係画像32-34、特務船志自岐殉難者合同葬儀次第、鎮霊祭、葬塲祭、埋葬。
- ^ #T8公文備考31/葬儀関係画像19、遭難當時ノ状況竝救難。
- ^ #T8公文備考31/葬儀関係画像22、救護艦艇ヨリノ諸情報 二十二日。
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- ^ 『日本海軍史』第10巻、168頁。
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- ^ 『官報』第2136号、大正8年9月16日。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- 『大正8年 公文備考 巻31 艦船14/救助出動』。Ref.C08021338200。
- 『大正8年 公文備考 巻31 艦船14/諸報告(1)』。Ref.C08021338400。
- 『大正8年 公文備考 巻31 艦船14/諸報告(5)』。Ref.C08021338800。
- 『大正8年 公文備考 巻31 艦船14/諸報告(6)』。Ref.C08021338900。
- 『大正8年 公文備考 巻31 艦船14/処分』。Ref.C08021339300。
- 『大正8年 公文備考 巻31 艦船14/葬儀関係』。Ref.C08021339400。
- 『大正10年 公文備考 巻26 艦船3/沈没艦船引揚願(3)』。Ref.C08050179000。
- 『大正13年 公文備考 巻25 艦船/沈設艦引揚の件』。Ref.C08051101100。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 下野敏見『タネガシマ風物誌』未来社、1969年2月15日。
- 『日本海軍特務艦船史』 世界の艦船 1997年3月号増刊 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月。
- (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 福井静夫『日本補助艦艇物語』 福井静夫著作集第10巻、光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。