町尻量輔
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代初期 |
---|---|
生誕 | 享和2年3月1日(1802年4月3日) |
死没 | 明治7年(1874年)6月19日 |
別名 | 久馬丸(幼名) |
官位 | 従二位権中納言 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 町尻家 |
父母 | 父:町尻量聡、母:家女房 |
妻 | 万里小路局(池尻暉房の娘) |
子 | 養嗣子:町尻量衡 |
町尻 量輔(まちじり かずすけ、1802年4月3日 - 1874年6月19日)は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した日本の公卿。羽林家の家格を有する町尻家の第9代当主。
生涯
[編集]享和2年3月1日(1802年4月3日)、町尻量聡の子として生まれる[1][注釈 1]。母は家女房[1]。幼名は久馬丸[2]。
文化3年1月18日(1806年3月7日)、叙爵[1]。文化6年9月13日(1809年10月21日)、東宮児に任じられ、文化13年まで務めた[2]。同年10月17日(1816年12月5日)、15歳で元服し昇殿を許された[1]。文政7年8月8日(1824年8月31日)、拝賀した[1]。
天保8年1月1日(1837年2月5日)、拝賀した[1]。同年3月11日(4月15日)、従三位に叙され、公卿に列せられた[1]。
弘化2年3月27日(1845年5月3日)、大宰大弐の補任を受け拝賀した。同年11月23日(12月21日)、豊明節会の外弁を務めた[3]。翌年3月4日(1846年3月30日)、仁孝天皇崩御を受けて当色を賜い、同月7日(4月2日)には素服を賜い服喪、4月4日(4月29日)に除服宣下を受けた[4]。
弘化5年から四年連続で踏歌節会の外弁を務めた[注釈 2]。嘉永4年の踏歌節会では、一献の後に退出した[8]。嘉永5年11月22日(1853年1月1日)、豊明節会の外弁を務め、一献の後に退出した[9]。
安政3年1月12日(1856年2月17日)には踏歌節会の外弁を、11月14日(12月11日)には豊明節会の外弁を務めた[10]。安政4年1月1日(1857年1月26日)、初めて元日節会の外弁を務めた[11]。
安政5年1月2日(1858年2月15日)、初めて白馬節会の外弁を務めた[12]。同年3月12日(4月25日)、参内して日米修好通商条約締結の条約案の内容の撤回を要求する書状に連署した(廷臣八十八卿列参事件)[13]。
万延元年11月15日(1860年12月26日)、豊明節会の外弁を務め、二献の後に退出した[14]。万延2年1月2日(1861年2月11日)、白馬節会の外弁を務めた[15]。文久2年1月12日(1862年2月10日)、踏歌節会の外弁を務め、二献の後に退出した[16]。
文久3年1月2日(1863年2月19日)、白馬節会の外弁を務め、12月29日(1864年2月6日)、参議に任じられた[17]。文久4年1月2日(1864年2月9日)白馬節会の外弁(神酒勅使)を務め、1月7日(2月14日)に拝賀し着陣、1月20日(2月27日)従二位に昇叙した[18]。9月15日(10月15日)、石清水放生会に参向した[18]。11月19日(12月17日)、豊明節会の外弁を務めた[18]。11月29日(12月27日)、賀茂臨時祭に参仕した[18]。
元治2年1月12日(1865年2月7日)には踏歌節会の外弁(御酒勅使)を、慶応元年11月19日(1866年1月5日)には豊明節会の外弁(御酒勅使)をそれぞれ務め、どちらも役が終わり次第退出した[19]。慶應2年1月12日(2月26日)には踏歌節会の外弁(御酒勅使)を、11月25日(12月31日)には豊明節会の外弁(御酒勅使)をそれぞれ務め、後者では役が終わり次第退出した[20]。
慶応3年1月27日(1867年3月3日)、孝明天皇が崩御したことに伴い当色を賜い、2月2日(3月7日)に素服を賜い服喪、2月28日(4月2日)に除服宣下を受けた[21]。9月26日(10月23日)、参議を辞した[21]。3月20日(1868年4月12日)、権中納言に任じられ、8月19日(10月4日)に辞した[22]。
明治4年2月8日(1871年3月28日)、隠居し、養嗣子量衡に家督を譲った[23]。
官歴
[編集]天保8年以前は『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保八年条を参照。
- 文化 3年 1月18日(1806年 3月 7日)、叙従五位下
- 文化13年10月17日(1816年12月 5日)、叙従五位上、任出羽権介
- 文政 2年 1月25日(1819年 2月19日)、叙正五位下
- 文政1822年 1月27日)、叙従四位下 5年 1月 5日(
- 文政1824年 6月30日)、任右近衛権少将 7年 6月 4日(
- 文政1825年 3月14日)、叙従四位上 8年 1月25日(
- 文政11年1828年 3月 5日)、叙正四位下 1月20日(
- 天保 7年12月19日(1837年 1月25日)、転右近衛権中将
- 天保従三位 8年 3月11日(1837年 4月15日)、叙
- 天保13年1842年 7月21日)、叙正三位[24] 6月14日(
- 弘化 2年 3月27日(1845年 4月11日)、任大宰大弐[3]
- 文久 3年12月29日(1864年 2月 6日)、任参議[17]
- 文久従二位[18] 4年 1月20日(1864年 2月27日)、叙
- 慶應 3年 9月26日(1867年10月23日)、辞参議[21]
- 慶応1868年 4月12日)、任権中納言[22] 4年 3月20日(
- 慶応[22] 4年 8月19日(1868年10月 4日)、辞権中納言
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保八年条.
- ^ a b 林大樹 2018, p. 331.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇弘化二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇弘化三年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永三年条.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永四年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永五年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇安政三年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇安政四年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇安政五年条.
- ^ 刑部芳則 2018, pp. 40–41.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇万延元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇文久元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇文久二年条.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇文久三年条.
- ^ a b c d e 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇元治元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇慶応元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇慶応二年条.
- ^ a b c 『公卿補任』第五篇, 明治天皇慶応三年条.
- ^ a b c 『公卿補任』第五篇, 明治天皇明治元年条.
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 566.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保十三年条.
参考文献
[編集]史料・系譜
[編集]- 『公卿補任』第五篇、黒板勝美・国史大系編修会編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。