万里小路局
万里小路局(までのこうじのつぼね、文化10年(1813年) - 明治11年(1878年)5月7日)は、江戸時代後期から幕末の大奥女中(上臈御年寄)。父は大納言・池尻暉房[1]。名は壽賀。
江戸幕府11代将軍・徳川家斉から14代将軍・徳川家茂までの4代に渡り大奥の最高位である筆頭老女を務めた[1]。
生涯
[編集]大奥時代
[編集]文化10年(1813年)、大納言・池尻暉房の末娘として京都にて生まれる[2]。
天保3年(1832年)、後に江戸幕府13代将軍となる徳川家定の正室として輿入れした当時8歳の鷹司任子の世話役として江戸へ出仕。天保7年(1836年)、11代将軍・徳川家斉の寵臣である林忠英が宿元となり、家斉の将軍付小上臈として大奥に入る。その後、徳川家慶が12代将軍に就任して以降、将軍付上臈御年寄に昇格、万里小路と名を改める[3]。この頃の大奥では、同じく上臈御年寄の姉小路が権力を握っていたとされるが、実際の筆頭老女は万里小路であった。
13代将軍・徳川家定が死去した安政5年(1858年)頃に大奥から退き桜田御用屋敷へ移る。しかし、14代将軍・徳川家茂の御世には、再び大奥への出仕を命じられた。
引退後
[編集]元治元年(1864年)5月29日、大奥を退き、宿元であった林忠英の四男で請西藩主・林忠交の元を頼り、江戸浜町藩邸に移り住む。慶応3年(1867年)に忠交が死去、養子の林忠崇が後継ぎとなり、慶応4年(1868年)に元部屋方の都山と共に請西藩の上総国望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)へ移り住む[4]。その際に請西藩にある長楽寺が仮宿となり、同寺では万里小路を「まて様」と呼んでいたと伝わる[1]。長楽寺の裏手にある真武根陣屋へ移り住む。 明治4年(1871年)には重田嘉之三郎を養子とする。
明治11年(1878年)5月7日、脳卒中により死去。享年66。戒名は松寿院殿雙円成心大姉。墓所は木更津市にある長楽寺。
親族
[編集]- 父:池尻暉房(大納言、宝暦12年7月5日(1762年) - 嘉永5年8月17日(1852年))
- 母:不詳[5]
- 夫:町尻量輔[6](権中納言、享和2年3月1日(1802年) - 明治7年(1874年)6月19日)
- 養子:重田嘉之三郎(別名:鹿次郎、明治10年(1877年)10月16日に死去。享年15)
また、池尻家の系譜において、末娘は中納言・町尻量輔の正室と記載されており、大奥引退後の万里小路局が正室になったという説もある[6]。
登場する作品
[編集]- 妻女たちの幕末 大奥の最高権力者 姉小路の実像(南々社、著:穂高健一)
関連項目
[編集]- 姉小路 - 万里小路局と同じ時期に活躍した大奥の上臈御年寄で、大奥では権力を握っていた。
- 歌橋 - 万里小路局と同じ時期に活躍した大奥の上臈御年寄。徳川家定の乳母。
- 唐橋 - 万里小路局と同じ時期に活躍した大奥の上臈御年寄。