源頼綱
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 万寿2年(1025年) |
死没 | 承徳元年閏1月27日(1097年3月13日) |
別名 | 多田頼綱、多田歌人、三河入道 |
官位 | 従四位下、蔵人、左衛門尉、検非違使、下野守、三河守 |
主君 | 藤原師実 |
氏族 | 摂津源氏、多田源氏 |
父母 | 父:源頼国、母:藤原中清の娘 |
兄弟 | 頼弘、六条斎院宣旨、頼資、頼実、実国、頼綱、国房、頼仲、師光、頼房、頼任、明円、藤原為房室、藤原師実室、藤原顕家室、藤原良綱室、藤原定輔室 |
妻 | 中納言局 |
子 |
明国、仲政、国直、頼子、藤原師通側室、源能俊室、藤原行実室、盛子 養子:行延、国房[1] |
源 頼綱(みなもと の よりつな)は、平安時代後期の武将・歌人。多田頼綱(ただ の よりつな)とも呼ばれる。美濃守・源頼国の五男。官位は従四位下・三河守。
生涯
[編集]頼国の五男であったが摂津源氏の嫡流を継承する[2]。頼綱も父祖に同じく摂関家と緊密な関係を築き、関白藤原師実に家司として仕える一方、蔵人、左衛門尉、検非違使などを経て、下野守、三河守を歴任し従四位下に昇った。武門としての事跡に乏しいが、承暦3年(1079年)の延暦寺の強訴の際には在京の軍事貴族として源頼俊(大和源氏)や仲宗(河内源氏)、平正衡(伊勢平氏)などと共に都の防衛にあたっている(『為房卿記』)。寛治2年(1088年)10月の春日祭では当時左中将であった藤原忠実の前駆を務めた(『中右記』)。
親族に多くの歌人がいる環境にあり、頼綱もまた和歌に秀でた。永承年間(1046年 - 1052年)の「六條斎院歌合」から嘉保(1094年)元年の「高陽院七番歌合」まで6度の歌合に出席しており、大江匡房や能因、源俊頼などの著名歌人らと交流があったことが知られ、その詠歌は『後拾遺集』以下の勅撰和歌集に計8首入集している。また、頼綱の時代に本拠地・多田庄を摂関家に寄進したとされており、曽祖父・満仲(多田満仲)以来の由緒ある名乗りである「多田」を家号とし、「多田歌人」と呼ばれた。
宮廷との結びつきを深め、女子のうち一女(頼子)を白河天皇の後宮に入れ官子内親王を儲けた一方、また別の一女を関白藤原師通の側室としたほか、さらに別の女子を大納言・源能俊室や武蔵守・藤原行実室、土佐守・藤原盛実室(盛子[3])などともしている。こうした関係もあり、永長元年(1096年)に頼綱が出家した際には、その邸に師通自らが足を運んだという(『後二条師通記』)。出家後は参河入道と号し、翌承徳元年(1097年)に卒去した。
子孫
[編集]子孫は摂津国と美濃国に分かれ[4]、本拠地の多田荘は長男・明国(多田明国)が継承する。また次男・仲政(馬場仲政)は源三位頼政の父として知られ、三男・国直(山県国直)は山県氏や能勢氏などの祖となった。
代表歌
[編集]夏山のならの葉そよぐ夕暮はことしも秋の心ちこそすれ — 『後拾遺和歌集』231番
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『尊卑分脈』。
- ^ 頼綱が摂津源氏の嫡流となった理由は明らかでないが、兄たちの度重なる早世・配流が原因となった可能性が指摘される。なお四兄・実国は特に不祥事などなくその生涯を閉じているが、多田庄を継承しなかった。
- ^ 源盛子は盛実との間に少納言藤原顕憲(上杉重房の曾祖父)と左大臣藤原頼長の母となる一女を儲けている。
- ^ 頼綱は美濃守となった父・頼国と共に任国に下向していることが確認されており、摂津源氏の中では三男・国直の系統と養子とも記される弟・国房の系統が美濃へ進出した。
- ^ 頼光の弟頼範の子とする説が提示されたことがある。なお頼範の子の頼綱には範弘なる子息のみがあり、さらにその子・為綱は藤原章家(藤原北家山蔭流)の養子となったとある(『尊卑分脈』)。