藤原顕家 (小野宮流)
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 万寿元年(1024年)[1] |
死没 | 寛治3年12月22日(1090年1月25日) |
別名 | 六条大弐[1] |
官位 | 正三位、参議 |
主君 |
後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 藤原寛子(皇后宮職) |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 |
父:藤原経通 母:源高雅の娘(経平母の妹) |
兄弟 | 源経仲、経季、経平、顕家、藤原範輔室 |
妻 | 源頼国の娘 |
子 | 基実、頼慶 |
藤原 顕家(ふじわら の あきいえ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原経通の四男。官位は正三位・参議。
経歴
[編集]後一条朝末の長元7年(1034年)従五位下に叙爵。後朱雀朝にて、右衛門佐・少納言を歴任し、長暦3年(1039年)従五位上、長久5年(1044年)正五位下と昇進した。
寛徳2年(1045年)後冷泉天皇が践祚すると、顕家は五位蔵人兼右近衛少将に任ぜられ、天皇の身近に仕える。その後も、永承2年(1047年)従四位下、永承5年(1050年)従四位上、永承6年(1051年)左近衛少将と、後冷泉朝前半は近衛少将を務めながら昇進を重ねる。天喜4年(1056年)正四位下・皇后宮権亮に叙任されて、皇后・藤原寛子に仕える。康平元年(1058年)右中弁を兼ねると、康平2年(1059年)蔵人頭、康平5年(1062年)権左中弁と後冷泉朝後半は弁官を務めながら昇進を重ねた。
康平6年(1063年)従三位・参議に叙任されて公卿に列すが、京官の兼官を解かれ讃岐権守のみを兼帯した。後冷泉朝末の治暦3年(1067年)正三位・大宰大弐に叙任されて大宰府に赴任する。後三条朝末の延久3年(1071年)大宰大弐を辞すと、翌延久4年(1072年)11月に全ての官職を辞した。
寛治3年(1090年)12月22日薨去。享年66。最終官位は前参議兼大宰大弐正三位。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 長元7年(1034年) 11月19日:従五位下(上東門院臨時御給)
- 長元8年(1035年) 3月4日:美濃権守
- 長暦元年(1037年) 3月5日:右衛門佐
- 長暦3年(1039年) 正月6日:従五位上
- 長久3年(1042年) 正月29日:少納言
- 長久5年(1044年) 正月6日:正五位下
- 寛徳2年(1045年) 正月16日:五位蔵人。10月23日:右近衛少将[2]
- 寛徳3年(1046年) 2月11日:兼美作権介
- 永承2年(1047年) 正月7日:従四位下(少将労)。正月13日:昇殿
- 永承4年(1049年) 正月7日:東宮昇殿(東宮・尊仁親王)
- 永承5年(1050年) 11月13日:従四位上(朔旦、上東門院御給)
- 永承6年(1051年) 正月12日:左近衛少将。8月16日:服解(父)。11月5日:復任
- 永承7年(1052年) 正月26日:近江介
- 天喜4年(1056年) 2月3日:皇后宮権亮(皇后・藤原寛子)、止少将。2月22日:正四位下(自四条宮遷御一条院日、宮司賞)
- 康平元年(1058年) 11月8日:兼右中弁
- 康平2年(1059年) 2月18日:蔵人頭(頭弁)
- 康平3年(1060年) 2月21日:兼讃岐権守
- 康平5年(1062年) 3月13日:権左中弁。4月22日:兼内蔵頭
- 康平6年(1063年) 2月27日:参議、元蔵人頭権左中弁皇后宮権亮、讃岐権守如元。4月30日:従三位(去年行幸石清水賀茂行事賞)
- 康平7年(1064年) 3月4日:兼讃岐権守
- 治暦3年(1067年) 7月1日:兼大宰大弐。8月22日:正三位(赴任賞、超資綱)
- 延久2年(1070年) 6月15日:遭母喪
- 延久3年(1071年) 3月:辞大弐
- 延久4年(1072年) 11月:辞
- 寛治3年(1089年) 12月14日:出家。12月22日:薨去
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
公職 | ||
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先代 藤原師成 |
大宰大弐 1067 - 1071 |
次代 藤原良基 |