渡辺囚獄佑
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正19年(1591年)[1] |
別名 | 源五郎、囚獄佑[2] |
戒名 | 浄慶[2] |
主君 | 武田信玄、勝頼、徳川家康 |
氏族 | 甲斐渡辺氏 |
父母 | 渡辺縄 |
兄弟 | 囚獄佑、照庵浄光禅定門 |
妻 | 秋山虎康の娘[1] |
子 | 安、長 |
渡辺 囚獄佑(わたなべ ひとやのすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の武将。実名は守(もり[2])[1]。
八代郡精進村(現在の山梨県富士河口湖町本栖)に居住する土豪集団・九一色衆の一員[1]で、甲斐武田氏に仕えて甲駿国境である本栖の守備にあたるとともに、御師としても活動した。武田氏滅亡後は徳川氏に仕え、「天正壬午の乱」では甲斐に進軍した徳川家康の道案内を務めた。子孫は江戸幕府の旗本となるが、関ケ原の合戦後17世紀後半まで本栖関所(本栖口留番所)守備の任務を受け継いだ。
生涯
[編集]本栖の渡辺氏
[編集]『甲斐国志』によれば、本栖の渡辺氏は渡辺綱の曾孫の渡辺至(伝の弟)を祖と称する一族で、駿河国との国境に近い本栖を領し、戦国期には甲斐国守護・武田氏に仕えた[1]。『寛永諸家系図伝』によれば、囚獄佑(守)の祖父に当たる知(とも。源二郎、右京亮)が本栖に住み、北条氏・今川氏が甲斐に侵攻した際に武田信虎[注釈 1]に忠節を尽くしたという[3]。
武田氏に従う
[編集]『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』によれば、天正5年(1577年)に父・渡辺縄(つな。源二、豊後)の遺跡を継ぐ[4][2]。『武田氏家臣団人名辞典』によれば父は出家していたとされ[1](法名は浄金[1])、家督譲渡後まもなく死去したと考えられている[5]。
武田時代の事跡としては「西湖区有文書」年未詳2月1日付け畑昌方書状において、塩の運搬を依頼されていることが知られる[1]。
天正壬午の乱での動向
[編集]天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、三河国の徳川家康に仕える[1]。『寛政譜』によれば、織田家臣河尻秀隆に招かれるが、これを断って浜松城に下ったとされる[2]。
『寛永伝』によれば、同年7月12日に囚獄佑は九一色衆を糾合し、甲斐・信濃国を結ぶ中道往還沿いの本栖城の警護を命じられている[6]。同年6月には本能寺の変により、武田氏滅亡後には甲斐・信濃の武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生するが、天正壬午の乱において家康は中道往還を甲斐へ侵攻し、囚獄佑は家康の道中案内を務めた[6]。家康は囚獄佑に案内され、同年8月9日に甲府・尊躰寺(甲府市城東)に到着すると、翌8月10日には本陣を甲府から新府城(韮崎市中田町中條)へ移した。囚獄佑は家康から本栖城の警護を命じられると本栖へ帰還した[6]。同日、相模国の後北条氏の甲斐都留郡侵攻に伴い、吉田の吉田衆や西湖周辺の西之海衆ら富士北麓の御師・土豪が後北条氏に糾合され、本栖へ侵攻した[6]。囚獄佑は家康から家臣・安部信勝を援軍として派遣され、丸尾(青木ヶ原丸尾)において後北条勢を撃退した[6]。この戦功により旧領を安堵された上、山中の武士20人を同心として付けられて駿州往還の警固役を命じられた。同年10月には徳川・北条同盟が成立し、天正壬午の乱は終結する。
徳川家臣として
[編集]「記録御用所本古文書」によれば、天正13年(1585年)5月30日には家康から甲斐国心経寺(甲府市心経寺町)など172貫文余の知行地を宛行われている[1]。
なお、囚獄佑は富士山北麓の御師(富士御師)としても活動していたが、徳川氏の旗本になった際には檀家を河口御師・三浦外記(猿屋)に譲渡したという[7]。
天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍、7月に徳川氏が関東に転封されると随行し、武蔵国入間郡矢加賀村(埼玉県入間市)を給地とした[1]。天正19年(1591年)の奥州出陣(九戸政実の乱)において、岩手沢(岩出山城、宮城県大崎市)まで出張するが、ここで病にかかって死去した[1]。
系譜
[編集]特記事項がない限り『寛政重修諸家譜』による[8]。
補足
[編集]- 『寛政重修諸家譜』では囚獄佑の兄弟に記載はないが、『武田氏家臣団人名辞典』によれば弟として天正4年(1576年)9月18日に死去した照庵浄光禅定門(法名)が認められる[1]。
- 『寛政重修諸家譜』では、縄の弟(囚獄佑の叔父)として向山盛吉(丹後守)を掲げる(『寛永系図』には記載がなく、『寛政譜』編纂時に向山家の呈譜に基づき改訂された)。盛吉は武田信玄の命により向山氏の名跡を継いだとされる[9]。盛吉の孫にあたる向山正盛が徳川家康に仕え、子孫は旗本として続いている[9]。
- 武田旧臣で家康に従った渡辺定正(武右衛門)の家は、定正から3代にわたって甲府町奉行を務めたが、家伝によれば渡辺囚獄佑と同族という[10]。
その後の渡辺家
[編集]囚獄佑の没後、家督は嫡男・安(やす)が継承したが、幼少だったために同心衆を収められた[2]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、安は甲府城の守衛を命じられるとともに、知行地も旧領の本栖領に移された[2]。しかし安は甲府城において18歳で没した[2][11]。
安の死後、囚獄佑の次男・長(おさ)が家督を継承し[1]、本栖で630石余の知行が認められた[2]。『甲斐国志』によれば、子孫は本栖の番人を務めたとある[1]。『寛政譜』によれば、長・盛(もり)・友(とも)の3代にわたって「本栖の関を守る」「本栖の関所奉行」との記述がある[2][12]。なお、長・盛は「囚獄」の通称を継いで名乗った[2]。友の子の源太郎は天和元年(1681年)に蔵米支給に切り替えられ小普請入りとなり、本栖から切り離された[12]。源太郎はそののち御書院番となり、元禄10年(1697年)には再び知行取となるが、知行地は上総国に与えられた[12]。享保7年(1722年)、源太郎の養子・甚五兵衛[注釈 2]の代で無嗣断絶となる[1][12]。
渡辺長の二男・時(とき)、四男・虞(とら)も旗本として別家を立てている。時の家は無嗣断絶となったが[12]、虞の家は『寛政譜』編纂時に存続している(当主は渡辺左次郎英(さかえ)、200俵)[13]。虞の家の3代目(英の父)である渡辺博(源二郎)[注釈 3]は代官・御広敷番頭を務めている。
備考
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 鈴木・柴(2015)、p.718
- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.515。
- ^ 『寛永諸系図伝 14』(続群書類従完成会、1992年)p.39
- ^ 『寛永諸系図伝 14』(続群書類従完成会、1992年)p.40
- ^ 鈴木(2015)、p.717
- ^ a b c d e 平山(2015)、pp.252 - 253
- ^ 西川(2012)、p.24
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.514-515。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.518。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千三百十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』p.914。
- ^ 『寛永諸系図伝 14』(続群書類従完成会、1992年)p.42
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.516。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.517。
- ^ 「山梨県西八代郡上九一色村 遺跡詳細分布調査報告書」、上九一色村、2021年12月22日閲覧。pp.1,7.
- ^ 「上九一色村の文化財」、上九一色村、2021年12月22日閲覧。p.75.
- ^ “本栖公家行列”. 公益社団法人やまなし観光推進機構. 2021年12月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十一
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/266
- 鈴木将典「渡辺守縄」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
- 鈴木将典・柴裕之「渡辺守」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
- 西川広平「中世 修験の発達と登拝の拡大」『富士山山梨県富士総合学術調査研究報告書』山梨県教育委員会、2012年
- 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年
- (初出)平山優『天正壬午の乱』学習研究社、2011年