水野忠善
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水野忠善 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長17年(1612年) |
死没 | 延宝4年8月29日(1676年10月6日) |
墓所 |
茨城県結城市山川の山川水野家墓所 愛知県東浦町の乾坤院 |
官位 | 従五位下大監物 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
藩 | 下総山川藩主→駿河田中藩主、三河吉田藩主→三河岡崎藩主 |
氏族 | 水野氏(忠守流) |
父母 | 父:水野忠元、母:不詳 |
兄弟 | 忠善、忠久、有馬豊長正室、水野重良正室、佐野政信室 |
妻 | 正室:井上正就の娘 |
子 | 忠春、京極高直正室、松平乗久正室、丹羽氏純正室、水野元知正室、片桐貞房正室、牧野康道正室 |
水野 忠善(みずの ただよし)は、江戸時代前期の大名。水野忠元の長男。下総山川藩(茨城県結城市)の第2代藩主、のちに駿河田中藩(静岡県藤枝市)、三河吉田藩(愛知県豊橋市)主。三河岡崎藩(愛知県岡崎市付近)初代藩主。忠元系水野家2代。官位は従五位下・大監物。
略歴
[編集]元和6年(1620年)、父・忠元の死により家督を相続する。寛永7年(1630年)、従五位下大監物に任官。
寛永12年(1635年)、1万石加増され駿河田中藩4万5000石に転封となる。この時大井川の氾濫に対処するため1000貫(1貫は1文銭1000枚)の巨費を投じて「千貫堤」(藤枝市史跡)を築堤したと伝わる[1][2]。
寛永19年(1642年)に三河吉田藩に、正保2年(1645年)に5000石加増され三河岡崎藩5万石に移される。寛文4年(1664年)、弟の忠久に5000石を分与する。隣接する尾張徳川家を仮想敵国とし、軍備増強に注力した。
延宝4年(1676年)に死去、墓所は愛知県知多郡東浦町の乾坤院境内(「水野家四代の墓所」として東浦町史跡)[3]。跡を長男・忠春が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 井上正就の娘
子女
ギャラリー
[編集]脚注
[編集]- ^ 藤枝市郷土博物館『藤枝の歴史』1987年11月 pp.44-45
- ^ 千貫堤(せんがんづつみ)」って何?!(藤枝市スポーツ・文化局 街道・文化課サイト)
- ^ 知多郡東浦町サイト
参考文献
[編集]- 藤枝市郷土博物館『常設展示解説 藤枝の歴史-原始から現代まで-』(藤枝市郷土博物館発行)1987年11月