松平信礼
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文2年8月11日(1737年9月5日) |
死没 | 明和7年6月16日(1770年7月8日) |
改名 | 音之助→信礼 |
戒名 | 慈雲院殿仁峯宗恕大居士 |
墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
官位 | 従五位下、甲斐守、伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番 |
藩 | 三河吉田藩主 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平信復、母:側室・蘭(岸田氏、国香院) |
兄弟 | 某、信礼、某、信正、本庄道揚、壬次、遠藤胤富、振(池田政香室)、悦(鍋島直益室)、元(大久保教和養女) |
妻 | 芳姫(黒田直純の娘、本多正珍養女) |
子 | 信明、杉浦正直、女、静(秋田倩季室)、五百、禎(加納久堅養女、加納久周室)、鶴年(松浦清室)、品(黒田直英室)、喜鶴(永井直進室) |
松平 信礼(まつだいら のぶうや / のぶいや)は、三河吉田藩第2代藩主。松平伊豆守系大河内松平家6代。
生涯
[編集]元文2年(1737年)8月11日、初代藩主松平信復の次男(実質長男)として江戸で生まれる。寛保元年(1741年)11月1日に信礼と名乗る。信復は正室を持たなかったため、長子である信礼が嫡男とされ、寛延4年(1751年)1月15日に将軍家重に御目見した。以後、父の吉田在城中は名代として公務を勤めた。宝暦元年(1751年)12月18日、従五位下・甲斐守に叙任される。宝暦12年(1762年)6月27日、駿河田中藩主本多正珍の養女・芳姫を娶る。
明和5年(1768年)9月、国元にいた信復の病状悪化の知らせを受け、看病のため初めて吉田へ向かった。この時、父の死を挟んで10日間在城したが、信礼にとってのお国入りはこれが最初で最後であった。11月16日に家督を相続し、翌17日に伊豆守と改めた。
明和6年(1769年)6月15日、藩主として初めての帰国を許されるが、眩暈により旅行が困難であることを理由に3度にわたって延期願を出し、そうこうするうちに10月11日に奏者番に任ぜられたことで帰国の件はなくなった。生来病弱であった信礼は、明和7年(1770年)1月の将軍紅葉山参詣の際に御鏡餅役は務めたものの、5月下旬以降は病床に臥して全く登城できず、6月16日に死去した。享年34。
人物
[編集]学問は父信復と同様に三浦竹渓に師事した。武芸にも励み、特に射撃の腕前がよかったという。古楽についてもまた父と同様に興味を持っており、楽書数十巻を購入した。
系譜
[編集]父母
- 松平信復(父)
- 蘭、岸田氏、国香院(母) - 側室
正室
子女
参考文献
[編集]- 『豊橋市史』第2巻・第6巻