日下部辨二郎
日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月30日(1861年4月9日)[1][2][3] - 1934年(昭和9年)1月22日[1][3][4])は、明治から昭和時代の土木技師、実業家。旧姓は巌谷。
経歴・人物
[編集]書家・巖谷一六の次男として近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町水口)に生まれる[1][2][4]。1882年(明治15年)日下部鳴鶴の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続する[2]。
1868年(明治元年)京都に出て、富岡鉄斎や神山鳳陽に学び、翌年の1869年(明治2年)上京し、育英義塾にて英語を学ぶ[2][4]。1874年(明治7年)開成学校に入り、1880年(明治13年)東京大学理学部を卒業し、理学士の称号を得る[2]。のち1901年(明治34年)工学博士[2]。
卒業後は、内務省土木局に入り、1886年(明治19年)内務五等技師、1891年(明治24年)第5区(広島)土木監督署長、1896年(明治29年)第7区(熊本)土木監督署長を経て、1898年(明治31年)第1区(東京)土木監督署長となる[2][3]。この間、北上川、淀川、吉野川、利根川の各改修および浦戸港、高松港、宇野港の築港などに関与する[3]。ほか、日本橋の設計の合議決定者を務めた[5]。
1900年(明治33年)土木工学の研究のため欧州に渡り、1902年(明治35年)東京市土木局技師長、1905年(明治38年)東京土木出張所長を経て、翌年の1906年(明治39年)東京市土木局長・技師長に就任[1][3][2][4]。1914年(大正3年)退官し、実業界に入り、大正砂利会社取締役、東京鉄筋コンクリート社長を歴任[3][4]。ほか、工学院院長、東京市区改正臨時委員、鉱害調査委員なども務めた[1][3][4]。
1923年(大正12年)の関東大震災により工手学校が全焼した際は、その再興に尽力した[5]。
親族
[編集]- 父:巖谷一六(書家)[2]
- 養父:日下部鳴鶴(書家)[2]
- 兄:巌谷立太郎(鉱山学者)[6]
- 弟:巖谷小波(作家)[2]
- 養子:金三郎(陸軍中佐・白井胤良の三男)[2][7]
- 養妹:幸子(貴族院多額納税者議員・松村脩平の養子となる)[2][8]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。ISBN 4130301357。
- 高橋裕、藤井肇男 共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294。