忠清南道 (日本統治時代)
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位置 | |
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地図 | |
各種表記 | |
ハングル: | 충청남도 |
漢字: | 忠淸南道 |
日本語読み仮名: | ちゅうせいなんどう |
片仮名転写: | チュンチョンナムド |
英語表記: | Chūseinan-dō / Chungcheongnam-do |
統計(1935年) | |
面積: | 8,106.48[1] km2 |
総人口: | 1,526,782[1] 人 |
男子人口: | 782,597[1] 人 |
女子人口: | 744,185[1] 人 |
人口密度: | 188.34[1] 人/km2 |
世帯数: | 280,220[1] 世帯 |
行政 | |
国: | 大日本帝国 |
下位行政区画: | 1府 14郡 |
忠清南道(ちゅうせいなんどう、チュンチョンナムド)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の大韓民国の忠清南道、大田広域市及び世宗特別自治市の一部を合わせた地域にあたる。道庁所在地は大田。
概要
[編集]朝鮮南西部、忠清道地方の西側にあたる。西は黄海に面し、北に京畿道、東に忠清北道、南に全羅北道と接する。
人口
[編集]昭和11年現住戸口調査より
- 総人口 1,482,963人
- 内訳
- 内地人 26,314人
- 朝鮮人 1,454,830人
- その他 1,819人
- 内訳
行政区分
[編集]昭和20年(1945年)当時
府
[編集]郡
[編集]- 大徳郡
- 山内面、東面、懐徳面、北面、九則面、炭洞面、儒城面、鎮岑面、杞城面、柳川面
- 燕岐郡
- 鳥致院邑、東面、西面、南面、錦南面、全義面、全東面
- 公州郡
- 公州邑、利仁面、灘川面、鶏龍面、反浦面、長岐面、儀堂面、正安面、牛城面、寺谷面、新豊面、維鳩面
- 論山郡
- 論山邑、江景邑、城東面、光石面、魯城面、上月面、夫赤面、漣山面、豆磨面、伐谷面、陽村面、可也谷面、九子谷面、恩津面、彩雲面
- 扶余郡
- 扶余面、窺岩面、恩山面、外山面、内山面、九龍面、鴻山面、玉山面、南面、忠化面、良化面、林川面、場岩面、世道面、石城面、草村面
- 舒川郡
- 長項邑、舒川面、馬西面、華陽面、麒山面、韓山面、馬山面、時草面、文山面、東面、鍾川面、庇仁面、西面
- 保寧郡
- 大川面、周浦面、鰲川面、川北面、青所面、青蘿面、藍浦面、熊川面、珠山面、嵋山面
- 青陽郡
- 青陽面、雲谷面、大峙面、定山面、木面、青場面、赤谷面、斜陽面、化城面、飛鳳面
- 洪城郡
- 洪城邑、広川邑、洪北面、金馬面、洪東面、長谷面、銀河面、結城面、西部面、高道面、亀項面
- 礼山郡
- 礼山邑、大述面、新陽面、光時面、大興面、鷹峰面、挿橋面、徳山面、鳳山面、古徳面、新岩面、吾可面
- 瑞山郡
- 瑞山邑、仁旨面、浮石面、八峰面、地谷面、大山面、聖淵面、音岩面、大湖芝面、貞美面、雲山面、海美面、高北面、安眠面、南面、泰安面、近興面、所遠面、遠北面、梨北面
- 唐津郡
- 唐津面、高大面、石門面、沔川面、順城面、合徳面、牛江面、新平面、松嶽面、松山面
- 牙山郡
- 温陽邑、松嶽面、排芳面、湯井面、塩峙面、陰峰面、屯浦面、霊仁面、仁州面、仙掌面、道高面、新昌面
- 天安郡
- 天安邑、歓城面、豊歳面、広徳面、木川面、北面、城南面、修身面、並川面、東面、成歓面、稷山面、聖居面、笠場面
歴代忠清南道知事(道長官を含む)
[編集]1919年8月以前は「忠清南道長官」。
氏名 | 在任期間 | 備考 |
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朴重陽(パク・ジュンヤン) | 1910年10月1日 - 1915年3月31日 | 忠清南道長官 |
小原新三(おはら しんぞう) | 1915年3月31日 - 1916年10月28日 | |
上林敬次郎(かんばやし けいじろう) | 1916年10月28日 - 1918年9月23日 | |
桑原八司(くわはら はちし) | 1918年9月23日 - 1919年9月26日 | 1919年8月より忠清南道知事 |
時実秋穂(ときざね あきほ) | 1919年9月26日 - 1921年2月12日 | |
金寛鉉(キム・グァンヒョン) | 1921年2月12日 - 1924年12月1日 | |
石鎮衡(ソク・ジンヒョン) | 1924年12月1日 - 1926年8月14日 | |
兪星濬(ユ・ソンジュン) | 1926年8月14日 - 1927年5月18日 | |
申錫麟(シン・ソクリン) | 1927年5月18日 - 1929年11月28日 | |
劉鎮淳(ユ・ジンスン) | 1929年11月28日 - 1931年9月23日 | |
岡崎哲郎(おかざき てつろう) | 1931年9月23日 - 1935年4月1日 | |
李範益(イ・ボミク) | 1935年4月1日 - 1937年2月20日 | |
鄭僑源(チョン・ギョウォン) | 1937年2月20日 - 1939年5月17日 | |
李聖根(イ・ソングン) | 1939年5月17日 - 1941年5月31日 | |
松村基弘(まつむら もとひろ) | 1941年5月31日 - 1942年10月23日 | 李基枋(イ・ギバン)で改名 |
山木文憲(やまき ふみのり) | 1942年10月23日 - 1945年6月26日 | 宋文憲(ソン・ムンホン)で改名 |
増永弘(ますなが ひろし) | 1945年6月26日 - | 朴在弘(パク・ジェホン)で改名、日本統治下最後の知事 |
法院(裁判所)
[編集]昭和16年(1941年)当時
- 大田地方法院
- 大田地方法院公州支庁
- 大田地方法院江景支庁
- 大田地方法院洪城支庁
- 大田地方法院瑞山支庁
刑務所
[編集]昭和16年(1941年)当時
- 大田刑務所
- 公州刑務所
警察
[編集]昭和2年(1927年)当時
- 忠清南道警察部
- 大田警察署
- 公州警察署
- 鳥致院警察署
- 江景警察署
- 扶余警察署
- 舒川警察署
- 保寧警察署
- 青陽警察署
- 洪城警察署
- 礼山警察署
- 瑞山警察署
- 唐津警察署
- 温陽警察署
- 天安警察署
憲兵警察制度下における憲兵部隊
[編集]大正4年(1915年)当時
- 公州憲兵隊
- 大田憲兵分隊
- 天安憲兵分隊
- 礼山憲兵分隊
- 扶余憲兵分隊
税務
[編集]昭和16年(1941年)当時
税務署
[編集]- 大田税務署
- 江景税務署
専売局
[編集]昭和16年(1941年)当時
- 全州地方専売局大田出張所
日本軍駐屯地
[編集]昭和11年(1936年)の平時編制
- 歩兵第80連隊第3大隊(大田府)
鉄道
[編集]昭和20年(1945年)の路線
総督府鉄道
[編集]私鉄
[編集]道路
[編集]昭和2年(1927年)当時
一等道路
[編集]- 京城木浦線
- 天安大邱線
二等道路
[編集]- 公州忠州線
- 公州大田線
- 公州洪州線
- 天安忠州線
- 群山瑞山線
港湾
[編集]昭和6年(1931年)当時
地方港
[編集]- 仙掌港
- 安興港
- 鰲川港
- 炭浦港
- 大川港
鉱山
[編集]- 稷山金鉱
神社
[編集]- 扶余神宮
- 大田神社
- 江景神社
- 燕岐神社
- 公州神社
- 天安神社
- 成歓神社
- 舒川神社
- 瑞山神社
企業
[編集]道内に本社を有する資本金50万円以上の企業である(昭和15年・1940年当時)
農林水産業
[編集]- 南鮮興業
- 海外拓殖
- 朝永土地
- 忠南興業
鉱業
[編集]- 朝鮮中央鉱業
- 成歓鉱業
- 合井金山
製造業
[編集]- 忠南製糸
- 鳥致院酒造
運輸業
[編集]- 朝鮮京南鉄道
- 忠南自動車運輸
卸売小売業
[編集]- 朝鮮物産
金融業
[編集]- 朝鮮産業
マスメディア
[編集]ラジオ放送局
[編集]昭和20年(1945年)8月当時
- 朝鮮放送協会大田放送局(呼出符号:JBIK)
- 朝鮮放送協会瑞山補助放送所
日本語新聞
[編集]昭和16年(1941年)当時
出身有名人
[編集]この時代に生まれ育つか、または活躍した者を掲載
関連項目
[編集]脚注
[編集]
前の行政区画 (二十三府制・十三道制を挟んで) 忠清道 |
忠清南道の 歴史的行政区画 1910年 - 1945年 |
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