天理軽便鉄道
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 奈良県山辺郡丹波市町[1] |
設立 | 1914年(大正3年)11月[1] |
業種 | 鉄軌道業 |
代表者 | 社長 稲葉弥吉[1] |
資本金 | 244,500円(払込高)[1] |
特記事項:上記データは1920年(大正9年)現在[1]。 |
天理軽便鉄道(てんりけいべんてつどう)は奈良県生駒郡法隆寺村興留(国鉄法隆寺駅前)から山辺郡丹波市町川原城(天理市)を結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。天理教信者の旅客輸送を目的として建設されたが大阪電気軌道の路線延長に伴い買収され、現在路線の一部は、近畿日本鉄道天理線となっている[2]。
路線データ
[編集]歴史
[編集]1911年(明治44年)の春から天理教ではのちに「大正普請」とよばれた本部神殿や教祖殿などの建築が始まり、信者達はその勤労作業のため天理教本部に向かうようになった。その行程は大阪湊町から奈良駅経由で丹波市駅(天理駅)まで2時間30分前後、運賃は51銭を必要としていた。そのため途中の法隆寺駅で下車して徒歩で天理教本部に向かう人も多かったという[3]。
このような天理教の信者の旅客輸送を見込み、杉本久三郎他9名[注釈 2]の発起による法隆寺駅前から山辺郡丹波市町川原城(天理市)にいたる[注釈 3]軽便鉄道の敷設免許が1912年(明治45年)1月4日に下付された[4]。そして11月27日に創立総会が開かれ、天理軽便鉄道株式会社(資本金25万円)が設立され、社長には戸尾善右衛門、専務には杉本が就任した[5]。工事は1913年(大正2年)12月法隆寺側より始められ、土地の売却に反対する地主に対して土地収用審査会へ申立するなどの遅れはあったが[6]、それも解決した。地形はおおむね平坦で富雄川と佐保川の架橋なども順調に工事が進み、1915年(大正4年)1月13日に竣工し、そして2月7日より運輸営業を開始した[7]。そして同年11月27日に創立総会が開かれ、天理軽便鉄道株式会社(資本金25万円)が設立され、社長には戸尾善右衛門、専務には杉本が就任した[5]。
開業時の成績であるが、1日平均旅客数は4、5月が467人、6月188人と目標[注釈 4]を大きく下回ってしまった。その後旅客数は徐々に増加はしてきたが、小鉄道のため発展の余地は限られており、また、新法隆寺駅の乗車人員と降車人員に大きな差から見られる[注釈 5]ことから、往路は天理軽便鉄道を利用し、復路は丹波市駅[注釈 6]より奈良駅まで行き(奈良市を観光し)、乗り換えて関西本線で大阪湊町に行くか、1914年(大正3年)4月に開通した大阪電気軌道(大軌)[注釈 7]により上本町駅へと行ったようである。1916年(大正5年)に社長の戸尾は退任し、軽便鉄道補助法に基づく政府補助金を受けながら営業を続けていた。
こうしたところ、大軌は西大寺駅(後の大和西大寺駅)から南進して橿原神宮に至る、畝傍線(うねびせん。現・近鉄橿原線)の計画を立てた[8]。その路線は天理軽便鉄道の中間部を横断する形になり、経営に多大な影響を及ぼすことになる。そんなことから大軌に対し認可の条件として、天理軽便鉄道に対する補償または買収が義務づけられていた[9]。こうして両者の間で交渉[注釈 8]が続けられ、1920年(大正9年)10月2日、買収金額132,000円、従業員は大軌が引き継ぐこととして譲渡契約が結ばれた。そして10月29日の臨時株主総会で付議し可決された。譲渡申請は同年12月6日認可され[10]、1921年(大正10年)1月1日より大阪電気軌道天理鉄道線となり、開業後6年に満たず天理軽便鉄道は解散した。
輸送・収支実績
[編集]年度 | 輸送人員(人) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | 政府補助金(円) |
---|---|---|---|---|---|
1915(大正4)年 | 121,194 | 11,995 | 14,315 | ▲2,320 | 5,991 |
1916(大正5)年 | 199,154 | 16,863 | 19,824 | ▲2,961 | 10,919 |
1917(大正6)年 | 260,565 | 23,973 | 20,126 | 3,847 | 7,597 |
1918(大正7)年 | 304,975 | 25,393 | 31,054 | ▲5,695 | 12,101 |
1919(大正8)年 | 306,794 | 29,799 | 31,885 | ▲2,086 | 10,545 |
1920(大正9)年 | 402,563 | 54,021 | 51,837 | 2,184 | 5,670 |
1915年度は鉄道院年報、1916 - 1919年度は鉄道院鉄道統計資料、1920年度は鉄道省鉄道統計資料より
車両
[編集]蒸気機関車3両、客車10両、貨車10両(有蓋車5両、無蓋車5両)
- 蒸気機関車は、1914年独オーレンシュタイン・ウント・コッペル製(製造番号 7156 - 7158)、車軸配置0-4-0(B)形8.7トン級ウェルタンク機関車(1 - 3)。
- 木製ボギー客車-10両(定員42人)
運行状況
[編集]所要時間34分。約1時間おきに一日13往復が運転され、繁忙期には15往復に増便された。 時刻は国鉄法隆寺駅での接続を基準に設定されていたので、開業時には新法隆寺駅発23時台の列車があった。
天理には大阪湊町から法隆寺での乗換を含めても1時間40分ないし2時間で到着できた。
駅一覧
[編集]駅名 | 駅間哩 | 営業哩 | 接続路線 | 所在地 | |
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新法隆寺駅 | - | 0.0 M | 鉄道院:関西本線(法隆寺駅) | 生駒郡 | 富郷村 |
安堵駅 | 1.1 M | 1.1 M | 安堵村 | ||
額田部駅 | 1.4 M | 2.5 M | 平端村 | ||
二階堂駅 | 1.0 M | 3.5 M | 山辺郡 | 二階堂村 | |
前栽駅 | 1.2 M | 4.7 M | |||
天理駅 | 0.9 M | 5.6 M | 鉄道院:桜井線(丹波市駅) | 丹波市町 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 起業目論見書では国有鉄道と同じ1,067 mmだった
- ^ 電気王とよばれた大阪の才賀藤吉の名もみられたが役員にはならなかった
- ^ 奈良へ迂回するより約8哩(約13 km)短かった。
- ^ 起業目論見書では天理教の信者540余万人、参拝者は年間50万人を下らないとして、1日平均旅客数を1,614人と算定し、年間の収入を41,660円、営業費を17,625円、差引24,035円を純益金としていた。
- ^ 新法隆寺駅の大正6年度の乗車人員77,744人、降車人員49,203人
- ^ 丹波市駅と天理駅は100 mほど離れており、天理教本部は丹波市駅の方が近かった。
- ^ この開通により、天理軽便鉄道は大阪からの所要時間や運賃での優位性を失ってしまった。
- ^ 大軌としては天理軽便鉄道との交差地点で新設路線がオーバークロスしなければならないため、その建設費の節約という思惑もあったようである。
出典
[編集]- ^ a b c d e 『日本全国諸会社役員録. 第28回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “天理軽便鉄道” (PDF). 奈良県立図書情報館. 2023年11月24日閲覧。
- ^ 『近鉄線各駅停車 2 京都・橿原線』138 - 139頁
- ^ 『官報 第8563号(明治45年1月9日) 軽便鉄道免許状下付』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 例えば、『官報 第376号(大正2年10月29日) 土地収用公告』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報 第756号(大正4年2月10日) 軽便鉄道運輸開始』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 1917年(大正6年)11月20日出願、1918年(大正7年)11月19日特許
- ^ 「大軌新線附帯条件」1918年(大正7年)12月7日付大阪新報 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ^ 『官報 第2506号(大正9年12月8日) 鉄道譲渡』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『鐵道停車場一覽. 大正6年3月31日現在』、177頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
[編集]- 『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、87、121 - 122頁(担当執筆は三木理史)
- 「天理軽便鉄道」『鉄道史料』No.39
- 「天理軽便鉄道株式会社起業目論見書」が掲載
- 安彦勘吾「奈良盆地内の東西線建設--天理軽便と大和鉄道」『奈良学研究』No.3、2000年
- 武部宏明「70周年を迎えた近鉄天理線 開業当時の天理軽便鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.455 1985年11月号
- 徳永慶太郎『近鉄線各駅停車 2 京都・橿原線』カラーブックス659、保育社、1984年、138 - 139頁
- 松藤貞人『奈良県の軽便鉄道-走りつづけた小さな主役たち-増補版』やまと崑崙企画、2004年、10 - 23頁