勧修寺顕允
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勧修寺顕允 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 安政2年11月9日[1](1855年12月17日) |
死没 | 明治33年(1900年)9月9日[1][2] |
主君 | 明治天皇 |
氏族 | 勧修寺家 |
父母 | 父:勧修寺経理 |
妻 | 小笠原玉子(小笠原長清の長女) |
子 | 経雄、信忍 |
勧修寺 顕允(勸修寺 顯允、かじゅうじ あきまさ[1] / あきこと[2])は、幕末の公家、明治期の陸軍軍人・政治家・華族。最終階級は陸軍歩兵大尉。貴族院伯爵議員。
経歴
[編集]山城国京都で右中弁・勧修寺経理の長男として生まれる[1][3]。明治維新時には正五位下・大夫[3]。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵した[4]。
明治2年(1869年)皇太后宮大進となり、その後、愛知県出仕三等中警部に転じた[2]。1877年(明治10年)西南戦争において新撰旅団に所属し少尉試補に任官[3]。1879年(明治12年)陸軍戸山学校教則を卒業し、同年、陸軍歩兵少尉に任官[2]。以後、広島鎮台歩兵第11連隊第3大隊付、同小隊長、歩兵第5連隊小隊長、歩兵第6連隊小隊長などを歴任[2][3]。陸軍歩兵大尉に昇進して退役した[2]。
1897年(明治30年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され[5][6]、死去するまで在任した[2][7]。
編著
[編集]- 『布知可豆良』山本彦兵衛、1899年。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 勧修寺家初代 1884年 - 1900年 |
次代 勧修寺経雄 |