光格天皇
光格天皇 | |
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光格天皇像 (東京大学史料編纂所蔵・模本) | |
即位礼 | 1780年12月29日(安永9年12月4日) |
大嘗祭 | 1788年1月5日(天明7年11月27日) |
元号 |
安永 天明 寛政 享和 文化 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 |
徳川家治 徳川家斉 |
摂政 | 九条尚実 |
関白 |
九条尚実→鷹司輔平→一条輝良 →鷹司政熙→一条忠良 |
先代 | 後桃園天皇 |
次代 | 仁孝天皇 |
誕生 |
1771年9月23日(明和8年8月15日)卯半刻 閑院宮邸 |
崩御 |
1840年12月11日(天保11年11月18日)子刻 桜町殿 |
大喪儀 | 1841年1月12日(天保11年12月20日) |
陵所 | 後月輪陵 |
漢風諡号 | 光格天皇 |
諱 |
師仁 1779年12月21日(安永8年11月14日)命名 兼仁 1780年1月1日(安永8年11月25日)改名 |
称号 | 祐宮 |
元服 | 1781年1月24日(安永10年1月1日) |
父親 | 閑院宮典仁親王(東山天皇皇孫) |
母親 | 大江磐代 |
中宮 | 欣子内親王 |
子女 |
温仁親王 悦仁親王 恵仁親王(仁孝天皇) 盛仁親王(桂宮第10代) 蓁子内親王 他多数 |
皇居 | 平安宮(土御門東洞院殿) |
親署 |
光格天皇(こうかくてんのう、1771年9月23日〈明和8年8月15日〉 - 1840年12月11日〈天保11年11月18日〉)は、日本の第119代天皇[注釈 1](在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。御称号は祐宮(さちのみや)。諱は師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)[注釈 2]。
父は閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。東山天皇は曽祖父、桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。光格天皇の兄弟には閑院宮美仁親王や真仁法親王がいる。
一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、以降、平成31年(2019年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。
概要
[編集]天皇の男系の子孫(曽孫)ではあるが、東山天皇崩御後60年経ち、皇統は祖父の兄の子孫に5代にわたって受け継がれており、皇位とは無縁に思われた。しかし桃園天皇、そしてその子の後桃園天皇もともに22歳の若さで崩御してしまい、跡継ぎがいなくなった。そこで彼に白羽の矢が立った。
今上天皇・徳仁および現在の男系皇族(后妃以外の皇族)は全員、光格天皇の子孫である。
生涯
[編集]明和8年8月15日(1771年9月23日)、閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)の第6王子として生まれる。誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった。
安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近く、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。
安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。
天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした[注釈 3]。
天明7年(1787年)6月、天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、後桜町上皇はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は江戸幕府は天皇の意向を前向きに受け入れる姿勢を取っており、天皇自身も譲位の直前に将軍・徳川家斉に対して御衣とともに感謝の書状を送る[3] など、在位中は大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとする指摘もある[4]。
寛政6年3月7日(1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。
寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。
寛政12年1月22日(1800年2月15日)、欣子内親王との間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。
文化14年3月22日(1817年5月7日)、恵仁親王に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。なお、202年後の平成31年(2019年)4月30日に退位した第125代天皇明仁は太上天皇ではなく天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく「上皇」の地位でこれが正式な称号であるため、現在でも光格天皇が最後の太上天皇である[注釈 4]。
天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算70。
人物
[編集]光格天皇は博学多才で、学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜み、父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
また、中御門天皇系の傍系・閑院宮の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。その例として、400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や新嘗祭など、朝廷の儀式の復旧に努めた[5]。さらに、平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった(学習院 (幕末維新期)参照)。
寛政9年11月7日(1797年12月24日)には善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られている[6][7]。
系譜
[編集]光格天皇の系譜 |
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系図
[編集]天皇家系図
[編集]113 東山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
閑院宮系図
[編集]東山天皇 | |||||||||||||||||||||||||
直仁親王 1 | |||||||||||||||||||||||||
典仁親王 2 | 鷹司輔平 (鷹司家継承) | 倫子女王 (五十宮、徳川家治室) | |||||||||||||||||||||||
美仁親王 3 | 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||
孝仁親王 4 | 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||
愛仁親王 5 | 孝明天皇 | ||||||||||||||||||||||||
載仁親王 6 (伏見宮邦家親王王子) | 明治天皇 | ||||||||||||||||||||||||
春仁王 7 [皇籍離脱] | 大正天皇 | ||||||||||||||||||||||||
令和元年(2019年)5月1日現在、先帝とは2親等以上離れた続柄かつ傍系の宮家より践祚した最後の天皇でもある。次代・仁孝天皇以後は皇太子(天皇の直系子孫)によって皇位が継承され[注釈 5]、この皇統が現在の皇室に至っている。光格天皇から見て徳仁は仍孫にあたる。
后妃・皇子女
[編集]- 中宮:欣子内親王(新清和院、1779年 - 1846年) - 後桃園天皇皇女
- 典侍:葉室頼子(民部卿典侍、1773年 - 1846年) - 葉室頼熙女
- 第一皇子:礼仁親王(哲宮、1790年 - 1791年)
- 第一皇女:能布宮(1792年 - 1793年)
- 第二皇子:俊宮(1793年 - 1794年)
- 典侍:勧修寺婧子(東京極院、1780年 - 1843年) - 勧修寺経逸女
- 典侍:高野正子(督典侍、1774年 - 1846年) - 高野保香女、園基理養女
- 第六皇子:猗宮(1815年 - 1819年)
- 典侍:姉小路聡子(新典侍、1794年 - 1888年) - 姉小路公聡女
- 第五皇女:永潤女王(倫宮、1820年 - 1830年) - 大聖寺門跡
- 第八皇女:聖清女王(媛宮、1826年 - 1827年)
- 第八皇子:嘉糯宮(1833年 - 1835年)
- 掌侍:東坊城和子(新内侍、1782年 - 1811年) - 東坊城益長女
- 掌侍:富小路明子(右衛門掌侍、? - 1828年) - 富小路貞直女
- 掌侍:某氏(長橋局) - 父不詳
- 皇女:受楽院宮(1792年) - 流産。皇子説あり
- 生母未詳
- 皇女:開示院宮(1789年) - 流産。皇子説あり
在位中の元号
[編集]- 安永 1772年12月10日 - 1781年4月25日
- 天明 1781年4月25日 - 1789年2月19日
- 寛政 1789年2月19日 - 1801年3月19日
- 享和 1801年3月19日 - 1804年3月22日
- 文化 1804年3月22日 - 1818年5月26日
諡号・追号・異名
[編集]天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(ただし、崇徳・安徳・順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(ただし、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代にも諡号が用いられた。
天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。先代までの月輪陵と同じ寺域に所在する。
天保11年11月25日(1840年12月18日)に御槽(おふね)に奉納され、12月4日(12月27日)に入棺、12月20日(1月12日)に奉葬された。倹約のため、御槽には蓋がなかったという。翌年1月19日(2月10日)に石塔が完成し、即日供養が修された。同月27日(2月18日)には陵前において諡号の奉告が行われ、この時の記録に初めて「後月輪山陵」の陵号が見える。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
その他
[編集]18世紀末から19世紀初めにかけての随筆『耳嚢』(平凡社東洋文庫全2巻、岩波文庫全3巻)の記述によると、天明元年(1781年)に、ある大名に飼われていた狆の主人に対する態度が噂となり、それを知った光格天皇がその狆の忠節を認めて六位を賜えたという話が伝えられている。
参考文献
[編集]- 宮内省図書寮 編『光格天皇実録』全5巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4-8433-2038-2
- 藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年) ISBN 4-06-258026-8
- 藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 4-642-03353-X
- 長坂良宏『近世の摂家と朝幕関係』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-03485-2
関連文献
[編集]- 藤田覚『幕末の天皇』 講談社学術文庫、2013年。上記の新版
- 飯倉洋一・盛田帝子編 『文化史のなかの光格天皇 朝儀復興を支えた文芸ネットワーク』 勉誠出版、2018年
- 藤田覚『光格天皇 自身を後にし天下万民を先とし』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2018年
- 所功編著『光格天皇関係絵図集成』 国書刊行会、2020年
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 光格天皇自身は、「神武第百二十代兼仁」「神武百二十世兼仁」「百二十代兼仁」(120代)と自署していた[1]。この差異は、『本朝皇胤紹運録』にて、現在は歴代天皇に数えられていない北朝の天皇を歴代天皇として数えていることから来る[2]。
- ^ 初め師仁と称したが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁に改めた。
- ^ 恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)にそれぞれ移った。後桜町上皇の生母青綺門院の仮御所となった知恩院と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。
- ^ 産経新聞によると、天皇明仁が2010年に宮内庁幹部に譲位の意向を示した際、光格天皇譲位の先例を調べるよう依頼したという。“陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前”. 産経新聞. (2017年1月24日). オリジナルの2017年1月26日時点におけるアーカイブ。
- ^ 長子相続(代々の長男)による践祚は昭和・明仁・徳仁の3天皇のみで、仁孝から大正までの歴代天皇はいずれも父帝たる天皇から見て次男以後の続柄にあたる。
出典
[編集]- ^ 『宸翰栄華』
- ^ 「書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』」
- ^ 『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年3月15日条
- ^ 長坂、2018年、P165-182.
- ^ “200年前の光格上皇が「令和」の2019年に伝えた遺産”. 日経Biz Gate (2019年4月26日). 2019年5月21日閲覧。
- ^ 善光寺本坊大勧進「大勧進の名僧・等順大僧正」
- ^ 宮島潤子『信濃の聖と木食行者』(角川書店、1983年)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]光格天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 後桃園天皇 (英仁) |
皇位 第119代天皇 1780年1月1日 - 1817年5月7日 安永8年11月25日 - 文化14年3月22日 |
次代 仁孝天皇 (恵仁) |