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伊能穎則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊能 穎則(いのう ひでのり、文化2年(1805年10月 - 明治10年(1877年7月11日)は、幕末から明治の商人・国学者。通称は三左衛門[注釈 1]・三造・外記。号は梅宇・蒿村。

経歴

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下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市)の呉服商油屋三左衛門家[注釈 2]の出身で、神山魚貫和歌国学を学ぶ。

嘉永元年(1848年)に家業を閉じて江戸に移住し、小山田与清井上文雄平田銕胤らに学ぶ傍ら、自ら家塾を開いた[1][2][3]

嘉永6年(1853年)に一旦佐原に帰り、香取尚古館学師・香取神宮神職を務める[2]

明治元年(1868年)に新政府に仕官して神祇官に入り、翌年には大学大助教に転じ、『令義解』を明治天皇に進講する[1][2][3]。後に宣教中博士に転じる[1]

明治8年(1875年)に香取神宮少宮司兼権少教正に任じられて再び佐原に戻り、佐原一帯において国学・歌道神道の振興に努めた[1][2][3]。明治10年(1877年)に73歳で死去[1][2][3]。墓は香取市の観福寺にある[1]

門人に小中村清矩木村正辞横山由清榊原芳野がいる[1]。著作に『香取四家集』・『大日本史名称訓』・『香取鹿島二宮祭神説』などがある[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 三右衛門としている文献が多い[1][2][3]が、同じ佐原出身の4つ年下の国学者清宮秀堅の『古学小伝』(巻二)には、「三左衛門」と記されている[4]。また、大正11年(1921年)に刊行された『千葉縣香取郡誌』「伊能穎則」の項目[5]においても「三左衛門」と記されている。
  2. ^ 伊能景良(楫取魚彦)の曾孫の伊能景晴(節軒)が残した資料によれば、佐原で古くから酒造業を行っている油屋四郎兵衞の分家とされる[6]。また、前述の清宮秀堅の『古学小伝』も「伊能四郎兵衛ト云家ノ支家」の出身としている[4]。更に、伊能景晴と同族で清宮秀堅とも縁戚であった伊能忠敬も第一次測量の帰途、陸奥国岩沼で旅行中に客死して現地で葬られた油屋(伊能)四郎兵衛家の当主の墓参に立ち寄ったことが測量日記に記されている[7]。ただし、伊能穎則の油屋三左衛門家と伊能景良・景晴の伊能茂左衛門家や伊能忠敬の伊能三郎右衛門家との関係については本家筋の油屋四郎兵衛家の資料が火災などで失われたことにより不明となっている[7]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 『国史大辞典』
  2. ^ a b c d e f g 『朝日日本歴史人物事典』
  3. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』
  4. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション「古学小伝. 巻2」42/46
  5. ^ 『千葉縣香取郡誌』(復刻版)崙書房、1972年、P755-756.
  6. ^ 「佐原へ移住してきた商人たち」(伊能忠敬翁顕彰会)
  7. ^ a b 『伊能忠敬測量日記』によると、寛政12年10月9日に宮城県岩沼の竹駒明神にお参りした後に「…佐原油屋四郎兵衛墓へ立寄」とあるが、この油屋四郎兵衛とはどのような人物だったのか、忠敬との関係、なぜ岩沼に墓があるのか調査して欲しい。また、墓参した寺はどこにあるのかも教えて欲しい。国立国会図書館「レファレンス協同データベース」(2017年8月23日最終更新、2022年8月28日閲覧)

参考文献

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  • 山本武夫「伊能穎則」『国史大辞典 1』(吉川弘文館 1979年) ISBN 978-4-642-00501-2
  • 白石良夫「伊能穎則」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8
  • 上田正昭ほか監修『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4-06-210800-3 P224.