仙石政固
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仙石政固 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 天保14年12月15日(1844年2月3日) |
死没 | 大正6年(1917年)10月23日 |
改名 | 鋭雄(幼名)、政固 |
墓所 | 東京都文京区白山の大乗寺→多磨霊園に改葬 |
官位 | 従五位下、越前守、従二位、子爵 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 但馬出石藩知藩事 |
氏族 | 土岐氏、仙石氏 |
父母 |
土岐政賢、安子 仙石久利 |
妻 | 木下俊敦の娘峯子 |
子 | 政敬、諏訪忠久 |
仙石政固 せんごく まさかた | |
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生年月日 | 1844年2月3日 |
出生地 |
日本 但馬国出石郡出石 (現兵庫県豊岡市出石町) |
没年月日 | 1917年10月25日(73歳没) |
称号 |
勲三等瑞宝章 勲四等旭日小綬章 従三位 正五位 |
配偶者 | 仙石峯子 |
子女 | 長男・仙石政敬 |
親族 |
孫・仙石久英(貴族院議員) 孫婿・梅溪通虎(貴族院議員) 曽孫・池坊保子(衆議院議員) |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1917年10月25日 |
仙石 政固(せんごく まさかた)は、但馬国出石藩第8代(最後)の藩主(知藩事)。出石藩仙石家11代。
生涯
[編集]天保14年(1843年)12月15日、第5代藩主・仙石久道の六男土岐政賢の長男として出石で生まれる(生母不明)[1]。父の政賢は、異母兄で第6代藩主の仙石政美が嗣子無く死去して仙石騒動が起こったとき、本来なら跡を継ぐ資格を持っていたが、病弱なために異母弟の仙石久利が家督を継いで第7代藩主となった。しかし久利にも嗣子が無かったため、甥の政固が早くから久利の世子として指名されていた。
幕末期には久利と協力して藩政を行ない、仙石騒動後に藩政を牛耳っていた堀新九郎を文久2年(1862年)12月には切腹に追い込んでいる。慶応元年(1865年)5月15日に久利の養嗣子となり、明治元年(1868年)4月には学校権判事に任じられた。明治3年(1870年)1月28日に久利が隠居したため、家督を継いで知藩事となる。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により知藩事を免官された。明治8年(1875年)4月12日、明治天皇の侍従となる。明治12年(1879年)9月13日、侍従を退任。明治17年(1884年)7月8日、子爵となる。後に従二位まで昇り、明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選出され死去するまで在任した[2]。
大正6年(1917年)10月25日に死去した[1]。享年75。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
公職 | ||
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先代 秋月種樹 豊岡随資 |
大学少監 1869年 - 1870年 (豊岡随資と共同) |
次代 豊岡随資 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 (出石)仙石家初代 1884年 - 1917年 |
次代 仙石政敬 |