二村忠臣
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選手情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
競技 | 投擲競技 | |||
種目 | 円盤投・やり投・砲丸投 | |||
大学 | 東京高等師範学校[1] | |||
生年月日 | 1898年??月??日[2][1] | |||
出身地 | 大分県[1] | |||
没年月日 | 1966年??月??日[2] | |||
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二村 忠臣(ふたむら ただおみ[2]、1898年[2] - 1966年[2])は、日本の陸上競技(投擲)選手。
経歴
[編集]1919年(大正8年)の日本陸上競技選手権大会において、円盤投で27m76の記録で優勝[3]。
1920年(大正9年)11月の日本陸上競技選手権大会においては、男子やり投で48m45[4][5]、砲丸投で11m21[6][7]の日本記録を出して優勝、また円盤投で29m84の記録を出して2連覇を遂げた[3]。
1921年(大正10年)の第5回極東選手権競技大会(上海)[1]、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(大阪)[1]に、投擲競技の日本代表選手として出場した[1]。
1923年(大正12年)に、東京高等師範学校(東京高師)体育科を卒業した[1]。
1924年(大正13年)のパリオリンピックには、日本代表団に見学員として同行(所属は東京高師)[8][注釈 1]。
1925年(大正14年)、大日本体育協会(体協)が組織改革を行い、野口源三郎らが主事を更迭された際、これに代わって薬師寺尊正(YMCA)とともに主事に就任した[注釈 2][9]。
1933年(昭和8年)時点では、「国民健康保持増進」を目的とする財団法人「奨健会」に所属し、「一般国民の合理的身体鍛錬の普及」に努める[1]。
主な著書
[編集]- 『スローイング』目黒書店(日本体育叢書 第4篇)、1922年
- 『名選手之面影』一成社、1925年
- 『オリンピツク陸上競技投擲技の研究』更新出版社、1925年
- 『歩行と体育 : 健康増進競歩研究』更新出版社、1925年
- 『アルス運動叢書 第5 投擲』アルス、1928年
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 日本スポーツ協会 1933, p. フの部1.
- ^ a b c d e “二村忠臣 (1898-1966)”. webcatplus. 2023年7月18日閲覧。
- ^ a b “過去の優勝者・成績 男子円盤投”. 日本陸上競技連盟. 2023年7月18日閲覧。
- ^ “日本学生記録の変遷 男子やり投”. 日本学生陸上競技連合. 2023年7月18日閲覧。
- ^ “過去の優勝者・成績 男子やり投”. 日本陸上競技連盟. 2023年7月18日閲覧。
- ^ “日本学生記録の変遷 男子砲丸投”. 日本学生陸上競技連合. 2023年7月18日閲覧。
- ^ “過去の優勝者・成績 男子砲丸投”. 日本陸上競技連盟. 2023年7月18日閲覧。
- ^ 藤瀬武彦 2021, p. 99.
- ^ 森川貞夫 2000, p. 30.
参考文献
[編集]- 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年 。
- 藤瀬武彦「スポーツ文化財としてのオリンピック関連資料の収集について 第三報─1924年第8回パリオリンピックに関する収集品─」『新潟国際情報大学国際学部紀要』第6巻、2021年、97-105頁、2021年8月24日閲覧。
- 森川貞夫「東京高師と日本のスポーツ」『スポーツ社会学研究』第8号、日本スポーツ社会学会、2000年、doi:10.5987/jjsss.8.24、2023年7月18日閲覧。