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二村忠臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二村 忠臣 Portal:陸上競技
選手情報
国籍 日本の旗 日本
競技 投擲競技
種目 円盤投やり投砲丸投
大学 東京高等師範学校[1]
生年月日 1898年????[2][1]
出身地 大分県[1]
没年月日 1966年????[2]
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二村 忠臣(ふたむら ただおみ[2]1898年[2] - 1966年[2])は、日本陸上競技(投擲)選手。

経歴

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大分県出身[1]

1919年(大正8年)の日本陸上競技選手権大会において、円盤投で27m76の記録で優勝[3]

1920年(大正9年)11月の日本陸上競技選手権大会においては、男子やり投で48m45[4][5]砲丸投で11m21[6][7]の日本記録を出して優勝、また円盤投で29m84の記録を出して2連覇を遂げた[3]

1921年(大正10年)の第5回極東選手権競技大会英語版上海[1]、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(大阪)[1]に、投擲競技の日本代表選手として出場した[1]

1923年(大正12年)に、東京高等師範学校(東京高師)体育科を卒業した[1]

1924年(大正13年)のパリオリンピックには、日本代表団に見学員として同行(所属は東京高師)[8][注釈 1]

1925年(大正14年)、大日本体育協会(体協)が組織改革を行い、野口源三郎らが主事を更迭された際、これに代わって薬師寺尊正(YMCA)とともに主事に就任した[注釈 2][9]

1933年(昭和8年)時点では、「国民健康保持増進」を目的とする財団法人「奨健会」に所属し、「一般国民の合理的身体鍛錬の普及」に努める[1]

主な著書

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  • 『スローイング』目黒書店(日本体育叢書 第4篇)、1922年
  • 『名選手之面影』一成社、1925年
  • 『オリンピツク陸上競技投擲技の研究』更新出版社、1925年
  • 『歩行と体育 : 健康増進競歩研究』更新出版社、1925年
  • 『アルス運動叢書 第5 投擲』アルス、1928年

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』では、「第8回国際競技大会(巴里)」に日本代表として出場したとある[1]
  2. ^ 前年の1924年(大正13年)に発生した、学生競技者団体の体協との対立(13校問題)などを背景とする。田代菊之助参照。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 日本スポーツ協会 1933, p. フの部1.
  2. ^ a b c d e 二村忠臣 (1898-1966)”. webcatplus. 2023年7月18日閲覧。
  3. ^ a b 過去の優勝者・成績 男子円盤投”. 日本陸上競技連盟. 2023年7月18日閲覧。
  4. ^ 日本学生記録の変遷 男子やり投”. 日本学生陸上競技連合. 2023年7月18日閲覧。
  5. ^ 過去の優勝者・成績 男子やり投”. 日本陸上競技連盟. 2023年7月18日閲覧。
  6. ^ 日本学生記録の変遷 男子砲丸投”. 日本学生陸上競技連合. 2023年7月18日閲覧。
  7. ^ 過去の優勝者・成績 男子砲丸投”. 日本陸上競技連盟. 2023年7月18日閲覧。
  8. ^ 藤瀬武彦 2021, p. 99.
  9. ^ 森川貞夫 2000, p. 30.

参考文献

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