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不破内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
不破内親王
時代 奈良時代-平安時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 不破(内親王)→(厨真人)厨女→不破(内親王)
父母 父:聖武天皇、母:県犬養広刀自
兄弟 井上内親王孝謙天皇不破内親王基王安積親王
塩焼王(氷上塩焼)
氷上志計志麻呂氷上川継、娘(名不詳)数人
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不破内親王(ふわないしんのう)は、聖武天皇皇女。母は夫人県犬養広刀自光仁天皇皇后井上内親王の同母妹。

略歴

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時期は不明であるが、新田部親王の子で天武天皇の孫にあたる塩焼王結婚している。また、一時、内親王の身位を剥奪されたことがあったというが、具体的な時期や事情はわかっていない。河内祥輔はこれを父の聖武天皇の存命中の出来事[注釈 1]として父娘関係が良好でなかったとし、これが同母姉である井上内親王及びその夫・白壁王との待遇差を生んだとしている[1]

天平宝字8年9月18日(764年)、塩焼王が藤原仲麻呂の乱に参加して殺害されている[2]が、不破内親王と息子・氷上志計志麻呂は連坐を免れている。

神護景雲3年(769年)5月、県犬養姉女、新田部親王の娘である忍坂女王石田女王と共謀して称徳天皇を呪詛し、志計志麻呂を皇位につけようとしたとして、再び内親王の身位を廃され、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と改名させられた上、平城京内の居住を禁じられた。志計志麻呂は土佐国に配流されている[3]。同年7月には、生活の資として、封戸40戸と水田10町を与えられている[4]

宝亀3年(772年)12月、呪詛事件は誣告による冤罪であったとして、内親王に復帰している[5]

延暦元年(782年)閏正月、息子の氷上川継[注釈 2]が謀反を起こそうとしたとして伊豆国に配流されたのに連坐して、娘たちとともに淡路国に配流された[7]。延暦14年(795年)12月、和泉国に移された[8]。以後の消息は不明である。

伝承

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松虫姫公園にある、松虫姫と池に身を投じたという牛のオブジェ

千葉県印西市に所在する松虫寺に、不破内親王にまつわる伝承が残る。

聖武天皇の第三皇女不破内親王がハンセン病に罹り、内裏から追放された[9][10]。内親王が薬師如来に祈ったところ、病が快癒した[9][10]。寺の後ろの墳に松虫姫が祀られているという[9][10]。その後、内親王は都に戻って薨去しその遺骨が安置されたとする伝承[10]や、天皇が薬師仏のために堂宇を建てて松虫寺としたという伝承[11]も残る。

大衆文学研究会編『房総の不思議な話、珍しい話』(崙書房、1983年)によれば[要ページ番号]、次のような内容である。

不破内親王は幼名を松虫姫といったが、不幸にしてを患い、手の施しようがなかったが、夢に、下総国に効験あらたかな薬師如来が鎮座するとの託宣があった。姫がこれを信じて東国に下ったところ、下総国印旛郡の萩原郷にはたして夢に見た薬師堂があり、かの地に庵を結んで一心に平癒を祈り、ついに全快することを得た。聖武天皇はこれを喜び、行基に命じて一寺を建立させ「松虫寺」と称したという。

現在も松虫寺には「松虫姫御廟」と呼ばれる堂がある[12]。また付近の千葉ニュータウン印旛日本医大地区内にある松虫姫公園には、姫と一緒に京から来て、姫が帰るにあたっては、年老いていたためこの地に残されることとなり、姫との別れを悲しんで池に身を投じたという牛を模したオブジェがある。

江戸時代佐倉惣五郎を主人公とする実録本において、不破内親王の伝承が取り入れられ、佐倉惣五郎の先祖を不破内親王と共に下向した武士の末裔とする物語が広まった[13]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『続日本紀』巻第二十九、神護景雲3年5月25日(壬辰)条には、「不破内親王者。先朝有勅。削親王名。」とあるが、孝謙上皇/称徳天皇の手で廃位された淳仁天皇を考慮しないとすれば、聖武天皇の時代の話となる。
  2. ^ 氷上志計志麻呂と氷上川継を同一人物とする林陸朗の説がある[6]

出典

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  1. ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(増訂版)吉川弘文館、2014年(原著1986年)、136-137頁。 
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇、天平宝字8年9月29日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第二十九、称徳天皇、神護景雲3年5月25日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第三十、称徳天皇、神護景雲3年7月10日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第三十二、光仁天皇、宝亀3年12月12日条
  6. ^ 林陸朗, 「桓武朝初世の政治情勢」『國學院大學北海道短期大学部紀要』30号, 國學院大學北海道短期大学部, 2013年,p10, doi:10.24626/kokuteanc.30.0_1_1
  7. ^ 『続日本紀』巻第三十七、桓武天皇 今皇帝 天応2年閏1月11日条、閏1月14日条
  8. ^ 『日本後紀』巻第四、桓武天皇、延暦14年12月22日条(逸文)
  9. ^ a b c 佐倉市教育委員会編『佐倉文庫第二集 佐倉風土記』佐倉市教育委員会、1974年3月、53頁。 
  10. ^ a b c d 赤松宗旦著・柳田国男校訂『利根川図志岩波書店、1938年11月、209頁。 
  11. ^ デジタルミュージアム『日本博覧図』~摩尼珠山松虫寺境内全図”. www.chiba-muse.or.jp. 千葉県立中央博物館. 2022年3月6日閲覧。
  12. ^ 松虫寺 旅行 観光 旅 国内13万件の全国観光情報検索サイト 全国観るなび 全国”. 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会). 2022年3月6日閲覧。
  13. ^ 荻原大地「<場>の虚構・<血縁者>の虚構 -『佐倉花実物語』の創作方法-」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 : 別冊』第26巻第1号、早稲田大学教育学研究科、2018年9月、15-24頁。 

参考文献

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関連項目

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