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マイヨ・ジョーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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マイヨ・ジョーヌ
スポーツ 自転車ロードレース
選考会 ツール・ド・フランス
受賞対象 総合1位
英語名 Yellow Jersey
現地名 Maillot jaune (フランス語)
歴史
初回 1919年
初回受賞  フィルマン・ランボー (ベルギー)
最多受賞

 ジャック・アンクティル (フランス)
 エディ・メルクス (ベルギー)
 ベルナール・イノー (フランス)
 ミゲル・インドゥライン (スペイン)

5回
最新受賞  タデイ・ポガチャル (スロベニア) (2024年)
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2014年ツール・ド・フランスでマルセル・キッテル(当時チーム・ジャイアント=シマノ)が獲得したマイヨジョーヌ

マイヨ・ジョーヌ (フランス語: maillot jaune) は、自転車ロードレースツール・ド・フランスにおいて、個人総合成績1位の選手に与えられる黄色のリーダージャージである。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手がマイヨ・ジョーヌ着用の権利を得る。最終ステージの終了時点でマイヨ・ジョーヌ着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。

概要

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誰がトップなのか一目で分かるようにという理由で1919年に初登場。色の由来はレース主催者であるスポーツ新聞『ロト』(L'Auto)=現在の『レキップ』(L'Equipe)=の紙面が黄色であったためと一般に説明される。このほか、主催者ができるだけ派手な色のジャージを所望したところ、仕立屋の手持ちには黄色い布しかなかったためとする説もある[1]

最初にマイヨ・ジョーヌを着用したのは、1919年大会の第11ステージ終了後のウジェーヌ・クリストフ(フランス)だった。しかしながらクリストフはその後のステージで、車体故障によるタイムロスを余儀なくされて総合優勝を逃した[注 1]

ジャージサプライヤーは、1950年代以降ルコックスポルティフが務めたが、1990年代に入り何回か変更があり、1996年から2011年まではナイキが担当した。2012年からルコックスポルティフがサプライヤーに復帰している。両肩に入っている大文字筆記体の「HD」は、ツールの創始者であるアンリ・デグランジュ (Henri Desgrange) のイニシャルである。

ジャージスポンサーについては、アイスクリーム会社「MIKO」、粉末ココア飲料「Banania英語版」などが務めていたが、1987年からは黄色をイメージカラーとするフランスの銀行「クレディ・リヨネ」(現在はクレディ・アグリコル傘下)がスポンサーとなっており、同行の名が一番大きく、かつ3箇所に書かれている(当初は「CREDIT LYONNAIS」表記だったが現在は「LCL」と略記)。腹と背中の部分には保持者のチーム名をアイロンプリントで入れるので空白にされている。またマスコット(黄色のライオン)のぬいぐるみをジャージ着用者が持っているシーンもたびたび見られる。

マイヨ・ジョーヌ着用選手不在の事例

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1924年
「犬猿の仲」の間柄であったアンリ・デグランジュに反抗姿勢を示すため、前年総合優勝者のアンリ・ペリシエが、第1ステージ開始前にマイヨ・ジョーヌを脱ぎ捨て、自身が所属するチームのジャージを着用した。
1950年
第12ステージ終了後に総合首位に立ったスイスフェルディナント・キュプラーが、イタリア選手全員が第12ステージ途中で棄権となった(第11ステージ時点の総合首位はフィオレンツォ・マーニだった)ことに対する観客からの暴動等を警戒して、自身がスイスの国内チャンピオンでもあったこともあり、スイスナショナルカラーのジャージを着用。
1971年
第14ステージでマイヨ・ジョーヌ着用のまま瀕死の重傷を負ってリタイアしたルイス・オカーニャを気遣い、総合首位のエディ・メルクスが第15ステージでは着用を拒否した。
1980年
オランダヨープ・ズートメルクが、第13ステージでマイヨ・ジョーヌ着用のまま途中棄権したベルナール・イノーを気遣って、総合首位に立ちながらも着用しなかった。
1991年
アメリカグレッグ・レモンは第8ステージで総合首位に立ったが、レース中のクラッシュによって第6ステージ途中にロルフ・ソレンセンがマイヨ・ジョーヌ着用のまま棄権を余儀なくされたことを気遣い、マイヨ・ジョーヌを着用しなかった。
2007年
ミカエル・ラスムッセンが、第16ステージ終了時点で総合首位にいながらも、チームに対して居場所を虚偽報告していたことが判明し、ドーピング検査回避の疑いがもたれたことから、所属チームのラボバンクから解雇され、棄権を余儀なくされた。第17ステージではルール上はラスムッセンに次ぐ順位であったアルベルト・コンタドールの手にマイヨ・ジョーヌが渡ることになったが、コンタドールは着用資格のあるマイヨ・ブランを着用した。
2015年
イギリスクリス・フルームは、第6ステージ中のクラッシュによりマイヨ・ジョーヌ着用のまま翌日不出走となったトニー・マルティンとジャージに敬意を表し、第7ステージでマイヨ・ジョーヌを着用しなかった。

参考画像

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脚注

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注釈

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  1. ^ 詳細はフィルマン・ランボーの項を参照)

出典

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  1. ^ 安家達也『ツール100話 - ツール・ド・フランス100年の歴史』未知谷、2003年7月。ISBN 4-89642-079-9 

関連項目

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外部リンク

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