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ノーフォーク (重巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノーフォーク
基本情報
建造所 スコットランドの旗 スコットランドグラスゴーフェアフィールド造船所英語版
運用者  イギリス海軍
級名 カウンティ級ノーフォーク級重巡洋艦
艦歴
起工 1927年7月8日
進水 1928年12月12日
就役 1930年4月30日
その後 1950年1月3日、スクラップとして売却。
要目
基準排水量 10,035 トン
満載排水量 13,420 トン
全長 633 ftin (193.17 m)
最大幅 66 ft (20 m)
吃水 18 ft (5.5 m)
主缶 アドミラリティ式三胴型水管ボイラー×8基
主機 パーソンズギアード・タービン×4基
出力 80,000馬力 (60,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 31.5ノット (58.3 km/h)
航続距離 12,000海里 (22,000 km)/12 ノット
乗員 平時710名、戦時819名
兵装
装甲
  • 水線部:3.5インチ (89 mm)
  • シタデル:4インチ (100 mm)
  • バーベット:1 in (25 mm)
  • 砲塔:1 in (25 mm)
搭載機 スーパーマリン ウォーラス×2機(第700海軍航空隊英語版運用)
その他 艦載機用カタパルト×1基(後に撤去)
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HMS ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) はイギリス海軍重巡洋艦[1]カウンティ級重巡洋艦だが[2]、本艦と姉妹艦英語版の「ドーセットシャー」 (HMS Dorsetshire, 40) をサブグループとし、ノーフォーク級重巡洋艦に類別することもある[3]。艦名はノーフォークに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

1941年5月23日夜にデンマーク海峡ドイツ海軍戦艦ビスマルク」を発見して追跡[4][注釈 1]27日に共同でビスマルクを撃沈した[注釈 2]。1943年12月26日、北岬沖海戦で僚艦(ベルファストシェフィールド)と共にドイツ戦艦「シャルンホルスト」を撃退し[8]、その後の撃沈に貢献した。

艦歴

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戦間期

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1927年7月にガバン英語版のフェアフィールド造船造機会社において起工され、1928年12月12日進水した。就役は1930年4月30日だった。1931年9月、「ノーフォーク」は後にインヴァーゴードン反乱として知られる反乱の舞台となった。その後1932年まで本国艦隊に所属し、1932年から1934年まではアメリカの西インド諸島方面で任務についた。1935年から東インド方面で行動した[注釈 3]1938年2月中旬、シンガポール海軍基地で「キング・ジョージ6世乾ドック、King George VI Graving Dock」が完成して竣功式が開催されたとき[10]、「ノーフォーク」は東インド艦隊(司令官サー・アレキサンダー・ラムゼイ中将)旗艦として参列した[注釈 4]アメリカ海軍オマハ級軽巡洋艦3隻もシンガポールに入港して開港式典に参加し、これに関連してタウンセンド提督は「ノーフォーク」を訪問してラムゼイ中将と会談した[注釈 4]。その後、本艦は改装のため1939年に帰国した。第二次世界大戦が始まったときはまだ造船所のドック内にあった。

世界大戦緒戦

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1939年9月、第二次世界大戦の勃発にともない「ノーフォーク」は本国艦隊の第18巡洋艦戦隊英語版に配属され、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) の通商破壊艦仮装巡洋艦ポケット戦艦[注釈 5])ばかりでなく、シャルンホルスト級戦艦などの追跡任務についた。そしてそれによって受けた多数の損傷の修理を行ったが、それが主要部分の改装に及ぶことはなかった。ベルファストで行われた最初の修理は、R級戦艦ロイヤル・オーク」を撃沈したドイツ潜水艦「U47[15]の魚雷の至近弾によるものであった。

1940年3月16日、ドイツ空軍第26爆撃航空団ドイツ語版に所属するHe 111がスカパ・フローを空襲し、練習艦(元戦艦)「アイアン・デューク」と「ノーフォーク」などが被害を受けた[16]。本艦には、投下された爆弾3発の内1発が後甲板に命中、1発が至近弾となり、水線下の船体側面に大穴が空き、右に3度傾いた状態で艦尾が着底した[17]

修理はクライド川でなされ、その後、タイン工廠で新兵器 - レーダー・セットの装備が行われた。

1940年12月、「ノーフォーク」は南大西洋において、K部隊の一員としてフリータウンから出発する船団護衛に任ずると共に、ドイツ重巡「アドミラル・シェーア」の[注釈 6]、そして1941年1月には、仮装巡洋艦「コルモラン」の捜索を命じられた。2月には大西洋の兵員輸送船団の護衛任務についたが、5月にアイスランド海域に戻された。

ビスマルク追跡

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ビスマルク沈没までの航跡 (1941年5月)

1941年5月中旬、ドイツ海軍はライン演習作戦を発動し[18]ギュンター・リュッチェンス提督が率いる戦艦「ビスマルク」と重巡「プリンツ・オイゲン」が北大西洋に出撃した[7]。諜報活動によってドイツ側の動向を察知したイギリス海軍では、5月18日に本国艦隊ジョン・トーヴィー提督が重巡2隻(ノーフォーク、サフォーク)をアイスランド周辺海域に配置した[注釈 7]。本艦は第1巡洋艦戦隊英語版司令官フレデリック・ウェイク=ウォーカー英語版少将の旗艦として、デンマーク海峡に出動した[20][注釈 8]

5月20日にスウェーデン海軍の航空巡洋艦「ゴトランド」がカテガット海峡でリュッチェンス戦隊(ビスマルク部隊)を発見して通報し[22][23]5月23日夜に英重巡「サフォーク」がデンマーク海峡でビスマルク部隊を発見した[24][25]。つづいて「ノーフォーク」もビスマルク部隊を発見する[4]。「ノーフォーク」はビスマルク部隊を視認した英海軍2番目の船となったが、霧により「ビスマルク」と至近距離で遭遇し、38センチ砲英語版で砲撃された[26]。「ビスマルク」の5回の主砲斉射を至近弾(夾叉弾)でやりすごしたあと[27]、「ノーフォーク」はビスマルク部隊発見の報告を各方面に通報した[注釈 9]。 なお「ビスマルク」では「ノーフォーク」への主砲発砲で前部レーダーが故障したので[29]、リュッチェンス提督は「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」の配置を入れ替える[30]。「プリンツ・オイゲン」~「ビスマルク」~追尾部隊(ノーフォーク、サフォーク)という航海が始まった[31]。ドイツ戦艦からは、追尾するウォーカー部隊が視認できたという[30]

5月24日朝のデンマーク海峡海戦で、巡洋戦艦「フッド」と戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を指揮していたランスロット・ホランド英語版中将は、ウォーカー部隊(ノーフォーク、サフォーク)にドイツ重巡を、直率の大型艦2隻に「ビスマルク」を狙わせる決意であった[32]。だが無線封止をしていたのでウォーカー戦隊に意図が伝わらず、敵味方双方の航路がずれたこともあり[33]、「フッド」と「ウェールズ」のみでビスマルク部隊を相手にすることになった[34]。ウォーカー部隊を戦闘に加入させ、「ビスマルク」の後部火力(3番砲塔、4番砲塔、38センチ砲合計4門)を分散させる戦術もあったが[35][注釈 10]、その命令を出すまえに「フッド」は轟沈してホランド中将は戦死してしまった[37]。「プリンス・オブ・ウェールズ」も被弾と故障で戦闘継続が困難となり[5]、艦長リーチ大佐はビスマルク部隊を距離をとった[38]

「ノーフォーク」のフィリップス艦長は、かつて「フッド」の砲術長をつとめていた[39]。ウォーカー少将は「フッド轟沈ス」の電報を全世界に発し[39][40]、生存者の捜索を駆逐隊にまかせる[41]。つづいて合流した「プリンス・オブ・ウェールズ」を指揮下に入れ[5]、引き続きビスマルク部隊を追跡した[42][43]。24日午後、海軍本部パウンド海軍大将の介入により[44][45]、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と砲撃戦をおこなったが[6]、敵味方双方とも特筆すべき戦果も被害もなかった[46][注釈 11]。 空母「ヴィクトリアス」所属のソードフィッシュが「ビスマルク」を雷撃したあとも、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と散発的な砲撃をかわした[50][51]。このあとウォーカー戦隊は対潜水艦警戒航行を実施するが、5月25日未明になると「ビスマルク」を見失ってしまった[52][53][注釈 12]

捜索やトーヴィー提督の命令で「サフォーク」と「プリンス・オブ・ウェールズ」が分離したあと[25][55]、「ノーフォーク」(ウォーカー少将)は単独で「ビスマルク」を探しまわり、「ビスマルク」がフランスにむかう想定で独自航路をとった[56]5月26日夜、H部隊の空母「アーク・ロイヤル」が艦上攻撃機で「ビスマルク」の舵を破壊したとき[57]、「フッド」の仇敵を直接攻撃できる位置にいた大型艦は戦艦「ロドニー」、本国艦隊旗艦でもある戦艦「キング・ジョージ5世」、重巡「ドーセットシャー[58]、そして「ノーフォーク」とH部隊であった[59][注釈 13]

5月27日午前8時、「ノーフォーク」は「ビスマルク」に追いつき、「ビスマルク」を友軍のネルソン級戦艦と間違えて発光信号をおくった[61][62]。「ノーフォーク」は敵味方を誤認している事に気づき、「ビスマルク」の射程外に逃げ出してトーヴィー提督直接の戦艦2隻に合流する[63]。そして戦闘中に合流した姉妹艦「ドーセットシャー」(艦長マーティン英語版大佐)と共に[64]、ビスマルクを撃沈したのである[65][注釈 14]

5月27日の戦闘で、「ノーフォーク」は「ビスマルク」に対し8インチ砲弾527発、魚雷8本を発射した[70]

北極海

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北方の船団護送任務に従事してロシアの入り江に入港した「ノーフォーク」と駆逐艦部隊。(軽巡洋艦「シラ」から撮影)

9月からは、ソビエト連邦むけ北極船団の護衛を担当した。 1942年6月下旬、ルイス・ハミルトン英語版少将が率いる英米巡洋艦部隊(英重巡「ロンドン」、英重巡「ノーフォーク」、米重巡「ウィチタ」、米重巡「タスカル―ザ」、米駆逐艦「ウェインライト」、米駆逐艦「ローワン」、英駆逐艦「ソマリ」)として、PQ17船団の掩護部隊となった[71]PQ-17船団戦闘序列)。イギリス海軍本部はドイツ軍が発動したレッセルシュプルング作戦英語版にともなうドイツ戦艦「ティルピッツ」出撃の情報に動揺してPQ17船団を解散させてしまい、本艦を含む護衛部隊や各艦はソ連に向かう船舶を置き去りにして反転した[72]。PQ17船団は大損害を受ける[73]ソ連向け援助船団は、運航停止に追い込まれた[注釈 15]

1943年12月26日、連合軍輸送船団JW55B英語版は、エーリヒ・バイ提督が率いるドイツ戦艦「シャルンホルスト」の攻撃を受ける[8]。本艦はそれを護衛するロバート・バーネット英語版提督指揮下の巡洋艦部隊(ノーフォーク、ベルファストシェフィールド)に所属していた。「ノーフォーク」は「シャルンホルスト」に3発の命中弾を与えた。レーダーを破壊された「シャルンホルスト」は退避し、その後、ブルース・フレーザー提督が率いるイギリス戦艦「デューク・オブ・ヨーク」や大型軽巡「ジャマイカ」などが戦闘に加入する[8]。「シャルンホルスト」は砲撃と雷撃を浴びて撃沈され、バイ提督も戦死した[注釈 16]

北岬沖海戦で勝利したものの、「ノーフォーク」は「シャルンホルスト」の28センチ砲弾英語版を被弾していた。損傷した本艦はタインにおいて修理に入ったため、ノルマンディー上陸作戦には関与できなかった。

出迎えの群衆に「ノーフォーク」艦上から手を振るノルウェー王族(オスロにて)

1945年1月11日から12日にかけての夜、「ノーフォーク」、軽巡洋艦「ベローナ」、駆逐艦「オンスロー」「オーウェル」「オンスロート」はノルウェー沖でドイツの船団を攻撃、3隻中2隻を撃沈したほか護衛の艦艇の内1隻(掃海艇「M273」)も撃沈した。

戦争が終わると、ロンドンに5年間亡命していたノルウェー王室をオスロに運んだ後、プリマスを発って、非常に重要な修理のためにマルタに向かった。その後、東インドで東インド艦隊司令長官の旗艦を務めた。

1949年、帰国した「ノーフォーク」は予備艦となる。1950年1月3日にBISCO英語版に引き渡され、2月19日に解体場所のニューポートのCashmoreに着いた[75]

戦歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ ビスマルク追跡戦における「ノーフォーク」は[5]フレデリック・ウェイク=ウォーカー少将の旗艦であった[6]
  2. ^ ビスマルクは英空母「アークロイヤル」の艦上機によりが故障した[6]、英戦艦2隻(キング・ジョージ5世ロドニー)と英重巡2隻(ノーフォーク、ドーセットシャー)の攻撃で沈没した[7]
  3. ^ (十三日ビナン發)[9] 本月末から二月初めにかけて擧行される大演習参加のため久し振りに馬來を訪れる英國東印度艦隊所属巡洋艦ノーフォーク及エメラルド兩艦並に印度海軍警備艇三隻は來る二十一日及二十三日それぞれ當地に寄港二十五日共にシンガポールに向ふ豫定であるが(以下略)
  4. ^ a b 米艦隊入港[11] 本日の海軍根據地乾ドック竣功式に参加の米國巡洋艦トレントンメンフイスミルウオーキー號は昨日午前柔佛海峡に靜々とその雄姿をあらはし正午海軍根據地の眞前沖に投錨、禮砲交換、軍樂演奏等型の如き艦隊入港ではあつたが、附近水面には大演習の餘塵を洗つた英國艦艇が四十隻もあり、さすがに極東の緊張を物語つてゐた、米國艦隊司令官タウンセンド提督は白髪の老將、禮儀正しい物靜かな態度で左の如く語る(中略)タウンセンド提督は入港と共に東印度艦隊司令長官サー・アレキサンダー・ラムゼイ中将をノーフォーク號に訪問、その他公式訪問の交換で後夜は總督官邸に招かれたが、明日總領事代理マツクエネリー氏の舞踏會がシー・ビューホテルに開かれる外、英米水兵さんの交驩がさかんに行はれる(記事おわり)
  5. ^ ポケット戦艦は通称で、ドイツ側呼称は装甲艦。世界大戦開戦時、ドイッチュラント[12]アドミラル・シェーア[13]アドミラル・グラーフ・シュペー[14]が竣工していた。
  6. ^ ヒトラー総統の命令により、ドイッチュラント級装甲艦は重巡洋艦 (Schwerer Kreuzer) に類別変更されていた。
  7. ^ ノーフォークに対しては、アイスランドを出港して既に哨戒行動中のサフォーク(艦長Robert Meyrick Ellis大佐)を支援するよう命じた[19]
  8. ^ なおサフォークの艦橋は密閉式で暖房がついていたが、ノーフォーク(艦長Alfred Jerome Lucian Phillips大佐)の艦橋は吹きさらしだった[21]
  9. ^ サフォークの敵発見の無電はどこにも傍受されず、ノーフォークの無電が各方面に届いた[28]
  10. ^ ドイツ戦艦側も、視認距離を航行している英重巡2隻から魚雷攻撃されることを警戒し、後方への警戒を怠らなかった[36]
  11. ^ サフォークの艦橋の窓ガラスが割れ、吹きさらしとなった[47]。 この砲撃戦と前後して、プリンツ・オイゲンはビスマルクと分離した[48][49]
  12. ^ ノーフォークでは疲労したウォーカー提督とフィリップス艦長がアンフェタミン覚醒剤)とコーヒーで頑張っていたが、ついに交替で艦橋に立つことにしたという[54]
  13. ^ ジェームズ・サマヴィル提督のH部隊(巡洋戦艦レナウン、軽巡シェフィールド、空母アークロイヤル)[60]
  14. ^ 戦闘不能になったビスマルクは[6]、ドーセットシャーによって雷撃処分された[66][67]。またビスマルク艦内でも自沈処理がおこなわれた[68][69]
  15. ^ ソ連向け援助船団は、9月初旬のPQ18船団から再開された。続いて12月中旬にJW-51A船団が運航されて成功し、12月下旬のJW-51B船団ではバレンツ海海戦が生起した。
  16. ^ 【ニューヨーク)INS二日發】[74] 獨トランス・オツエアシ通信の報道によれば十二月、ソ聯向け聯合軍護送船團襲撃の企圖に失敗せる獨海軍艦隊司令官ベイ少將は戰死を遂げだ、此の放送を記録せる聯邦逓信局は獨側の發表は海戰に撃沈された戰闘艦シャルンホルスト號と運命を共にせる事を容認した(記事おわり)

出典

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  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 86(原本154-155頁)一等巡洋艦ノーフオルク
  2. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 472–473.
  3. ^ 巡洋艦の話 1938, p. 10原本10-11頁
  4. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 167ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇
  5. ^ a b c ミドルブック、戦艦 1979, pp. 75–76.
  6. ^ a b c d 英海空精鋭の重圍に最後迄善戰沈没したビ號の海戰顚末 三度艦影を晦ましてならず 衆寡敵せず北大西洋怨深し”. Hoji Shinbun Digital Collection. Taihoku Nippō. pp. 05 (1941年5月28日). 2023年10月21日閲覧。
  7. ^ a b ビスマルクの最期 1982, pp. 12–13ライン演習作戦、両軍各艦航跡図
  8. ^ a b c オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, pp. 14–15.
  9. ^ 軍艦歡迎に賑ふ彼南”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 03 (1938年1月15日). 2023年10月21日閲覧。
  10. ^ ミドルブック、戦艦 1979, pp. 30–31.
  11. ^ 單なるお客サ タウンセンド提督艦上に語る”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 03 (1938年2月14日). 2023年10月21日閲覧。
  12. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 159原本300-301頁、戰艦ドイチユランド
  13. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 160原本302-303頁 戰艦アドミラル・シエア
  14. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 161原本304-305頁 戰艦アドミラル・グラーフ・シユペー
  15. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 58.
  16. ^ Chronik des Seekrieges 1939–1945, März 1940”. 2023年11月24日閲覧。
  17. ^ British Cruiser Warfare, CHRONOLOGY OF EVENTS FROM SEPTEMBER 1939 TO DECEMBER 1941, 16 March 1940. Air Attack on Scapa Flow.
  18. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 33.
  19. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 61.
  20. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 88–89.
  21. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 88-89.
  22. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 53–54.
  23. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 132–135, 441–442.
  24. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 92–93.
  25. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 18–19(ライン演習作戦、両軍各部隊・各艦航跡図)
  26. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 93–94.
  27. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 168–169.
  28. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 95–96.
  29. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 28.
  30. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 170–174.
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  32. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 121–123.
  33. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 121–122.
  34. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 126–130.
  35. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 142–143.
  36. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 181–183.
  37. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 194アイスランド沖海戦
  38. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 150–156.
  39. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 157.
  40. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 420.
  41. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 159–162.
  42. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 124–125(デンマーク海峡海戦航跡図)
  43. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 176–180.
  44. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 182–188.
  45. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 408–109.
  46. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 220–221.
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  48. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 189–192.
  49. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 218北大西洋におけるビスマルク追撃態勢
  50. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 217.
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  55. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 267ビスマルクを探索するイギリス艦隊。
  56. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 230.
  57. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 36.
  58. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 295ビスマルクが空母アーク・ロイヤルの艦載機から舵に魚雷を受けるまで。
  59. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 322–323.
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  65. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 370ビスマルク最後の戦闘
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参考文献

[編集]
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  • ルードヴィック・ケネディ『戦艦ビスマルクの最期』内藤一郎 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1982年9月。ISBN 4-15-050082-7 
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  • イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 
  • ブルカルト・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク『巨大戦艦ビスマルク 独・英艦隊、最後の大海戦』佐和誠 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2002年7月。ISBN 4-15-050269-2 
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  • Cruisers of World War II
  • M. J. Whitley, Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia, Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
  • Alan Raven, British Cruiser Warfare: The Lessons of the Early War, 1939–1941, Seaforth Publishing, 2019(電子版)

関連項目

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