カンバーランド (重巡洋艦)
カンバーランド | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | イングランド、カンブリア州、バロー=イン=ファーネス、ヴィッカース・アームストロング造船所 |
運用者 | イギリス海軍 |
級名 | カウンティ級(ケント級)重巡洋艦 |
モットー |
Justitias tenax (正義の堅さ)[1] |
艦歴 | |
起工 | 1924年10月18日 |
進水 | 1926年3月16日 |
就役 | 1928年2月23日 |
退役 | 1959年1月14日 |
その後 | 1959年、スクラップとして売却。 |
要目 | |
基準排水量 | 9,750 トン |
満載排水量 | 13,450 トン |
全長 | 630 ft (192.0 m) |
最大幅 | 68 ft 3 in (20.8 m) |
吃水 | 16 ft 3 in (5.0 m) |
主缶 | アドミラリティ式三胴型水管ボイラー×8基 |
主機 | ブラウン・カーティス式ギアード・タービン×4基 |
出力 | 80,000 hp (60,000 kW) |
推進器 | スクリュープロペラ×4軸 |
最大速力 | 31.5ノット (58.3 km/h) |
航続距離 |
3,100海里 (5,700 km)/31.5kn 13,000海里 (24,000 km)/12kn |
乗員 | 679 名(旗艦時719 名) |
兵装 |
|
装甲 |
|
搭載機 | 3機(1942年まで) |
その他 | 艦載機用カタパルト×1基(1942年まで) |
HMS カンバーランド (HMS Cumberland, 57) は、イギリス海軍の重巡洋艦[注釈 2]。 カウンティ級(ケント級)[3]。艦名はイングランド北西部の歴史的カウンティ、カンバーランドに由来し、イギリス海軍において同名の艦としては10代目にあたる[4]。
艦歴
[編集]カンバーランドは1924年10月18日にバロー=イン=ファーネスのヴィッカース・アームストロング社造船所で起工し、1926年3月16日進水、1928年2月23日に就役した。
1928年から1938年まで東南アジアを担当する中国艦隊 (The China Station) の第5巡洋艦戦隊に配属された。その間には、幾度か大日本帝国を訪問している。また香港で日本艦隊を出迎えるなど、親善につとめた[注釈 3]。 1930年6月には九州の鹿児島や長崎港、広島県の宮島に寄港した[6][注釈 4]。 1931年1月末に第一次上海事変が勃発すると、本艦を含めたカウンティ級重巡は中国大陸沿岸に集結して事態の悪化に備えた[注釈 5]。 1932年10月には長崎に来航した[9][注釈 6]。 1933年にも日本各地を訪問した[11][注釈 7]。
1935年に一旦英国に帰投し、水線部装甲の強化など近代化改装を施されている。修理はチャタム工廠で実施された[注釈 8]。
1937年8月中旬に第二次上海事変が勃発し、日中戦争に発展する。8月14日には中華民国空軍が上海市を誤爆し[14]、「カンバーランド」やアメリカ合衆国アジア艦隊旗艦の重巡「オーガスタ」も誤爆されかけた[15][16]。 8月15日、軍艦「出雲」に将旗を掲げる長谷川清提督(第三艦隊司令長官)は、「オーガスタ」(ヤーネル提督)や「カンバーランド」(リトル提督)を訪問して日本側の立場を説明した[注釈 9]。 11月17日、上海派遣軍の松井石根陸軍大将が「カンバーランド」を訪問し、リットル提督と対談した[18]。 世界大戦直前には中国艦隊旗艦を務めており[注釈 10]、ジョン・リーチ大佐が艦長であった[20][注釈 11]。1938年に第2巡洋艦戦隊所属として南大西洋へ派遣される。
第二次世界大戦勃発後の1939年9月7日、リオデジャネイロ水域の南アメリカ戦隊(ハーウッド代将、重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦エイジャックス)増強のため派遣された「カンバーランド」は、プリマスからフリータウンに到着する[21]。翌日、リオデジャネイロへ向かった[22]。その途中の9月11日、「カンバーランド」はドイツ海軍 (Kriegsmarine) のドイッチュラント級装甲艦(通称「ポケット戦艦」)「アドミラル・グラーフ・シュペー」、給油艦「アルトマルク」と遭遇しかけた[23]。
ドイツ船がアセンション島の南西で会合するとの情報を9月24日に得たハーウッドは、「カンバーランド」を当該海域へ派遣した[24]。他に駆逐艦2隻も派遣されたが結局何も発見されず、捜索に従事した艦は10月2日にフリータウンに帰投した[24]。
9月30日、イギリス船「クレメント」が「アドミラル・グラーフ・シュペー」に沈められた[25]。そのことはドイツ艦に対する9つの部隊の編成に繋がり、「カンバーランド」は「エクセター」とともに南米東岸を担当するG部隊となった[26]。
10月3日、「カンバーランド」はリオデジャネイロ水域でハーウッドの部隊に合流するためフリータウンより出航した[27]。10月5日、「アドミラル・グラーフ・シュペー」がイギリス船「ニュートン・ビーチ」を拿捕した[28]。同船の発した信号を不完全ながらイギリス船「マートランド」が受信し、同日出合った「カンバーランド」へそれを伝えた[29]。しかし、「カンバーランド」艦長Fallowfield大佐は、無線封止を続けた[30]。Fallowfieldは他船から艦隊司令長官へ伝わっているものと判断していたが、実際には「マートランド」以外が信号を受信した記録はなく、司令長官にこの件が伝わったのは1940年1月21日のことであった[31]。10月9日、「カンバーランド」は「エクセター」と合流した[32]。
10月27日に「エクセター」は修理のためポート・スタンリーへ向かい、「カンバーランド」は軽巡洋艦「アキリーズ」とともにG部隊としてリオデジャネイロ・サントス間の警備を命じられた[33]。その後2隻はリオデジャネイロ・サントス水域にあったが、G部隊は休養や修理のため喜望峰エリア担当であったH部隊と担当海域を入れ替えられることになり、11月5日に「カンバーランド」はラプラタ川へ向かった[34]。「カンバーランド」と「エクセター」は11月13日にサイモンズタウンへ向けて出航したが、ロレンソ・マルケス沖に敵通商破壊艦が出現したことでG部隊とH部隊の入れ替えは取りやめとなった[35]。
12月8日はフォークランド沖海戦の起きた日であってドイツ側の報復も予想され、また「カンバーランド」は修理が必要となっており、「ハーウッド」は「カンバーランド」に対し、フォークランド諸島周辺を2日間哨戒した後、ポート・スタンリーで修理・休養に入るよう命じた[36]。
フォークランド諸島へ向かう途中の12月5日、「カンバーランド」はドイツ船「ウッスクマ」捜索を命じられた[37]。同船は「エイジャックス」に捕捉されて自沈し、その船員は「エイジャックス」に収容された後「カンバーランド」に移された[38]。
12月13日にラプラタ沖海戦が発生したが[28]、「カンバーランド」はフォークランド諸島のポート・スタンリーで整備中であった為に、この海戦には参加できなかった。傷ついた「アドミラル・グラーフ・シュペー」のモンテビデオ入港を受けて、「カンバーランド」もラプラタ川河口へ向かい、海戦に参加した僚艦に合流して河口の封鎖を行った。
12月17日、「アドミラル・グラーフ・シュペー」は自沈した[39]。「カンバーランド」は引き続き南大西洋においてドイツ艦船捜索や通商保護に従事し、その間の1940年3月に第6巡洋艦戦隊に編入されている。1940年6月2日、「カンバーランド」は英国へ向かう兵員輸送船団US3を護衛しケープタウンを出航、6月16日に英国に到着した船団から離れた。続いて6月25日から中東へ向かうWS1船団の護衛としてグリーノックを出航。7月16日、船団と共にケープタウンに到着し、7月19日に出航、一時ドイツ海軍仮装巡洋艦「トール」捜索に動員された。7月29日に船団はセイロンに到着し、「カンバーランド」は護衛から離れた。
9月16日、弾薬輸送中のヴィシー・フランス籍の商船「ポワチエ(Poitiers)」を撃沈、9月18日にはダカールを出撃したヴィシー・フランス海軍のラ・ガリソニエール級軽巡洋艦「グロワール」「モンカルム」「ジョルジュ・レイグ」の追跡に投入された。9月21日、自由フランス軍によるダカール上陸作戦(メナス作戦、Operation Menace)支援の為にクイーン・エリザベス級戦艦「バーラム」、リヴェンジ級戦艦「レゾリューション」、空母「アーク・ロイヤル」、重巡洋艦「デボンシャー」等に合流した。リシュリュー級戦艦「リシュリュー」を擁するヴィシー・フランスのヴィシー軍は、自由フランス海軍とイギリス海軍を迎え撃つ。9月23日の作戦当日、「カンバーランド」は沿岸砲台から命中弾を受けて中破し、8名の戦死者を出して後退した。
10月からはケープタウンを拠点に大西洋での船団護衛や通商保護に従事し、重巡洋艦「アドミラル・シェーア」捜索に参加した[注釈 12]。また、12月5日に仮装巡洋艦「カーナヴォン・キャッスル」がドイツ仮装巡洋艦「トール」と遭遇、交戦すると、「カンバーランド」と巡洋艦「エンタープライズ」、「ニューカッスル」[42]からなる部隊が向かったが、「トール」捕捉には失敗している[43]。
1941年3月のベルリン作戦でシャルンホルスト級戦艦2隻がフランスのブレストに入港して修理を余儀なくされ、「シェーア」は1941年4月1日にドイツ本国に戻り、5月末にライン演習作戦でドイツ戦艦「ビスマルク」が撃沈され、ドイツ軍艦による大西洋での通商破壊は中止された[44]。 1941年6月30日から9月までチャタム工廠で修理、改装を受けた後、「カンバーランド」の活動の場は北へ移った。10月に本国艦隊隷下の第1巡洋艦戦隊に編入され、1942年から1943年まで、ソビエト連邦にむかう輸送船団の護衛をおこなう。PQ17船団[注釈 13](PQ-17船団戦闘序列)、PQ18船団、JW51船団(バレンツ海海戦)[注釈 14]、JW53船団、ソ連から戻るQP5船団、QP13船団、QP14船団、RA53船団の護衛を行った。また、1942年9月にノルウェー人部隊をスピッツベルゲン諸島へ上陸させるギヤボックス作戦に、1943年5月にはスピッツベルゲン諸島の守備隊を交代させるギヤボックスII作戦に参加した。このほか、1942年11月にはトーチ作戦にも参加している。
1943年8月より、東洋艦隊への配備を前に2番・3番主砲塔上に20mm機銃の増備、レーダー機器の更新などの改装工事を受け、1944年1月に同艦隊の第4巡洋艦戦隊所属としてインド洋へ向かった。以後対日戦に従事し、以下の作戦に参加した。
- クリムズン作戦 - 1944年7月。サバンなどに対する空襲、艦砲射撃。
- ライト作戦 - 1944年9月。スマトラ島シグリ空襲。
- ミレット作戦 - 1944年10月。ニコバル諸島攻撃。
- サンフィッシュ作戦 - 1945年4月。サバン砲撃など。
- ビショップ作戦 - 1945年4月。ポートブレアなどに対する攻撃。
第二次世界大戦終結後、「カンバーランド」はインドネシア独立戦争に伴ってオランダ領東インドへ進駐したイギリス軍の支援にあたり、1945年11月にイギリスへ帰還した。その後は1946年6月まで極東からのイギリス軍部隊輸送に従事し、1949年から1951年にかけてデヴォンポートにおいて試験艦に改装される。以後は様々な兵装の試験台として使用された[46]。1959年1月14日に除籍され、鉄屑として売却後の同年11月3日、解体の為ニューポートへ回航された。
なおその間に、1956年公開のラプラタ沖海戦を描いた映画『戦艦シュペー号の最期』(アメリカ公開時のタイトルを基にした邦題。原題は『ラプラタ河の戦い』)に「カンバーランド」自身として出演している。
栄典
[編集]- 「カンバーランド」は第二次世界大戦における戦功で合計4個の戦闘名誉章 (Battle Honours) を受章した[1]。
ARCTIC 1942-43、NORTH AFRICA 1942、SABANG 1944、BURMA 1945
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1936 - 1940年追加。
- ^ 一等巡洋艦“ケント Kent”[2] 全要目{排水量9,850噸 速力31.5節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲6門 魚雷發射管8門(水上53糎) 起工1924年11月 竣工1928年2月 建造所チヤタム海軍工廠} 同型艦“バーウイツク Berwick”“コーンウオール Cornwall”“カンバーランド Cumberland”“サフオーク Suffolk”
全長192.01米、幅20.82米、平均吃水4.88米、機關軸馬力は80,000馬力である。世界に誇る植民地との通商保護等のために巡洋艦は英國にとつて甚だ重大性を帶びてゐる。從つて速力もやゝ劣つて、その代り航續力と居住性を増してゐると考へられるのである。そして大戰艦隊の偵察戰隊としての不足は高速巡洋艦と無数の二等巡洋艦をもつて補つてゐる。14節にて實に10,400浬の行動半径を有し、航續力にかけては世界の巡洋艦を抜んでゝゐる。前檣も比較的にいへば低いが、航空機を搭載し對空兵装を有する等巡洋艦としての必須装備はすべて備はつてゐる。 - ^ 東洋關係電報 支那訪問の帝國艦隊 歡迎準備中の英國 米國及び支那人より注視さる[5]【上海二十七日】日本一等戰闘艦長門、陸奥、扶桑外三十隻の艦隊が南支沿岸地方巡航後四月四日香港を訪問すると云ふ發表は支那人を始め米國人を驚かし 特に米國海軍當局は 異様の眼を以て是を眺めて居る、と云ふのは去る一月支那沿岸にケント、バーウイク、カムバランド、コーンヲール、サフオルクの一萬噸級一等巡洋艦を派遣すべしと發表せる英國はそれを中止し香港に於ける日本海軍の大歡迎を準備しつゝあるからである。(記事おわり)
- ^ 第四 外國軍艦本邦沿岸出入一覧 昭和五年度[7]〔 國名:英國|艦船名:カンバーランド(中略)カンバーランド|期間:昭和五-六-一 五-六-一六(中略)五-一〇-三 五-一〇-一二|寄港地名:長崎、鹿兒島、宮島(中略)大連 〕
- ^ 英國東洋艦隊 全勢力を上海へ 香港、シンガポールに出動準備を整へ待機[8]【倫敦三十日】一万噸級五隻の巡洋艦を主力とする英國東洋艦隊は上海にサツフォル、コーンウヱル兩號、砲艦四隻を碇泊せしめ駐支艦隊ケリー司令官の搭乗するケント號はバタビヤより上海に向け急行中にして香港にはバーウイツク、カムバーランド兩巡洋艦、驅逐艦五隻、航空母艦、潜水艦十一隻を控え(中略)續々上海に向け兵力集中の模様である(記事おわり)
- ^ 9.外國軍艦本邦沿岸出入一覧 昭和7年度[10]〔 國名:英國|艦船名:航空母艦ハーミス/カンバーランド|期間:7-9-19 9-24 / 9-21 10-23|寄港地名:長崎 / 大連、長崎、基隆 〕
- ^ 9.外國軍艦本邦沿岸出入一覧 昭和8年度[12]〔 國名:英國|艦船名:カンバーランド|期間:9-27 / 11-10|寄港地名:大連、長崎、別府、横濱、神戸、宮島 / 横濱、神戸、宮島 〕
- ^ 英國軍艦に怠業續發 當局事實を認むるも詳報を避く 時節柄成行重視[13](ロンドン十六日同盟)舊臘主力艦ローヤル・オーク號及び潜水艦オベロンで起つた怠業事件は國際政局緊張の折から重大問題として内外關心の的となつてゐたが、最近にいたり元支那艦隊所属、現在チヤタム軍港において修理中の巡洋艦カムバーランド號に怠業事件勃發し當局は事態を甚だ重視してゐる。右に關して海軍當局は十六日午後カムバーランド號事件を確認し左の如く語る。 カムバーランド號怠業事件に關しては事實であつが、目下當局の手で取り調中に属し詳細なる發表をすることは出來ない。(記事おわり)
- ^ 長谷川第三艦隊司令官 我方の立場を説明[17](上海十五日同盟)長谷川第三艦隊司令長官は十五日午前十時米國極東艦隊旗艦オーガスタ號にヤーネル提督を訪問し會談を遂げ、次で英國支那艦隊カンバーランド號にリツツル提督を訪ひダンカン艦長の昨日の申出に對して我方の立場を説明、リツツル提督は完全にこれを諒解、辭去した(記事おわり)
- ^ 英、萬一の場合……極東艦隊召還か 所属艦、ホンコンへ集結始む[19](上海十七日)歐洲の情勢刻々急を告げて戰爭の危機切迫に鑑み、英國は万一の場合極東艦隊に對しても歸還命令を發することに決定した模様であるが、早くも支那沿岸各地にあつた英國軍艦は香港に集結を開始した、即ち過般來威海衞に碇泊中だつたノーブル司令長官座乗の旗艦カンバーランド號(巡洋艦)は既に威海衞を抜錨して南航中であり又唯一の上海碇泊英艦サフオーク號(巡洋艦)も明十八日香港へ向ふ筈であるといはれる、因みに英國極東艦隊の兵力は巡洋艦七、驅逐艦十一、潜水艦十七、其他砲艦、海防艦等である(記事おわり)
- ^ リーチ大佐は海軍本部の砲術課長に転じたあと、最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」初代艦長に任命された[20]。
- ^ ドイツ国内の事情により、ドイッチュラント級装甲艦は重巡洋艦に類別変更されていた[40]。「シェーア」は1940年10月末に大西洋にむけて出撃し、HX84船団を撃破するなど、大西洋やインド洋で活躍した[41]。
- ^ ジョン・トーヴィー大将直率の警戒部隊で、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、新鋭戦艦「ワシントン(アメリカ海軍)」、空母「ヴィクトリアス」[45]、重巡「カンバーランド」、軽巡「ナイジェリア」、駆逐艦部隊。
- ^ ジョン・トーヴィー提督の遠距離護衛部隊(戦艦アンソン、重巡カンバーランド、駆逐艦部隊)。
出典
[編集]- ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 81(原本144-145頁)一等巡洋艦ケント
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 34–35ケント級重巡洋艦 カウンティ級第1群/航洋性・居住性が評価された英条約型重巡の第一陣
- ^ J. J. Colledge; Ben Warlow (2010). Ships of the Royal Navy: The Complete Record of all Fighting Ships of the Royal Navy from the 15th Century to the Present. Newbury, Berkshire: Casemate. p. 97. ISBN 978-1935149071
- ^ 「Shin Sekai 1928.02.29、新世界新聞/tnw_19280229(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021529800 p.1
- ^ #官房第1777号、カムバーランド p.3(カンバーランド行動予定)、pp.7,9
- ^ 海軍省年報、昭和5年 1934, p. 45原本2-3頁
- ^ 「Shin Sekai 1932.02.01、新世界新聞/tnw_19320201(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021808200 p.1
- ^ #S08.09ハーミス来航回答 p.2(カンバーランド、ハーミス予定)、#ケント外4隻本邦来航 p.17(カンバーランド、長崎入港)
- ^ 海軍省年報、昭和7年 1935, p. 22原本20頁
- ^ #S08、官房第3826号 p.5(カンバーランド予定)、長崎入港p.15/長崎発p.19、宮島着p.40/宮島発p.41
- ^ 海軍省年報、昭和8年 1935, p. 20原本18頁
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1936.02.19、新世界朝日新聞/nws_19360219(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022093400 p.1
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1937.08.15、新世界朝日新聞/nws_19370815(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022200800 p.1〔 血迷へる支那空軍 爆彈を滅茶苦茶に振落して繁華の市街忽ち阿鼻叫喚 外人を含め死傷千餘 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippō, 1937.08.19、p.3、2023年7月15日閲覧 (空襲被害状況記事)
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Shanhai, 1938.08.01、p.46、2023年7月15日閲覧
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1937.08.16、新世界朝日新聞/nws_19370816(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022201000 p.1
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1937.11.18、新世界朝日新聞/nws_19371118(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022219800 p.3〔 松井軍司令官 英國旗艦訪問(シャンハイ十七日同盟)シャンハイ軍午後六時發表 松井軍司令官は本日午後十時答禮の意味をもつて英國旗艦カンバーランド號に至りリツトル提督を會見した(記事おわり) 〕
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1938.09.19、新世界朝日新聞/nws_19380919(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022279200 p.1
- ^ a b ミドルブック、戦艦 1979, p. 73.
- ^ 『ラプラタ沖海戦』69-70ページ、Hitler's Ghost Ships, pp. 29-30
- ^ 『ラプラタ沖海戦』70ページ
- ^ 『ラプラタ沖海戦』66-71ページ
- ^ a b 『ラプラタ沖海戦』88ページ、Hitler's Ghost Ships, p. 33
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 44.
- ^ Hitler's Ghost Ship, pp. 38-40. 86
- ^ Hitler's Ghost Ship, pp. 44-45
- ^ a b オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 45.
- ^ 『ラプラタ沖海戦』147ページ
- ^ Hitler's Ghost Ships, p. 45
- ^ 『ラプラタ沖海戦』148ページ、Hitler's Ghost Ships, p. 45
- ^ Hitler's Ghost Ships, p. 46
- ^ 『ラプラタ沖海戦』153-154ページ、Hitler's Ghost Ships, pp. 47-48
- ^ Hitler's Ghost Ship, pp. 50-51. 86, The Royal New Zealand Navy, pp. 36-37
- ^ Hitler's Ghost Ships, p. 52
- ^ Hitler's Ghost Ships, p. 56
- ^ 『ラプラタ沖海戦』180-181ページ、Hitler's Ghost Ships, p. 61
- ^ 『ラプラタ沖海戦』181ページ
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 46.
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 18.
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, pp. 36–37.
- ^ Neil MacCart, Town Class Cruisers, Maritime Books, 2012, ISBN 978-1-904-45952-1, p. 29によれば、「ニューカッスル」は12月10日に「トール」捜索のため出航。
- ^ ロバート・フォーチェック、宮永忠将(訳)『ドイツ仮装巡洋艦vsイギリス巡洋艦 大西洋/太平洋1941』大日本絵画、2011年、ISBN 978-4-499-23046-9、49-51ページ
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 37.
- ^ 戦艦ワシントン 1988, pp. 78–79.
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 35.
参考文献
[編集]- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年1月。ISBN 4-499-22899-9。
- ダドリー・ポープ、内藤一郎(訳)『ラプラタ沖海戦』早川書房、1978年
- M・ミドルブック、P・マーニー『戦艦 ― マレー沖海戦 ―』内藤一郎 訳 、早川書房、1979年6月。
- イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0。
- 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3。
- Patrick Boniface, HMS Cumberland A Classic British Cruiser in War and Peace, Periscope Publishing, 2006, ISBN 1-904381-37-5
- Hitler's Ghost Ships: Graf Spee, Schamhorst and Disguised German Raiders, University of Plymouth Press, 2012, ISBN 978-1-84102-308-3
- S. D. Waters, The Royal New Zealand Navy, Historical Publications Branch, 1956
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『英国軍艦「カムバーランド」等本邦来航方の件』。Ref.C04016606400。
- 『官房第3174号5.10.1英国軍艦「ケント」外4隻本邦来航に関する件』。Ref.C05021076300。
- 『第3338号 8.9.9英国軍艦「カンバーランド」及「ハーミス」本邦来航に関する回答』。Ref.C05022738000。
- 『官房第1777号5.5.26英国軍艦「カムバーランド」等本邦来航方の件』。Ref.C05021075900。
- 『官房第3345号8.9.9英国軍艦「カンバーランド」及艦隊補助船「セントブレック」大連入港』。Ref.C05022738100。
- 『官房第3826号8.8.24英国軍艦本邦寄港に関する件』。Ref.C05022738800。
- 『官房第2218号 昭和4年6月20日 「カンバーランド」外1隻馬山寄港拒否の件』。Ref.C11080480000。
- 『官房第1734号 昭和5年5月20日 カンバーランド長崎等寄港の件』。Ref.C11080524400。
- 『官房第3157号 昭和5年9月23日 支那艦隊巡航計画の件』。Ref.C11080526800。
- 『官房第2744号 昭和6年8月31日 「カンバーランド」及「セントブレック」大連回航の件』。Ref.C11080539200。
- 『於バタビヤ英国軍艦カンバーランド号 1945年9月15日』。Ref.C14060902500。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍中佐早川成治「二、日英米最新巡洋艦」『最新國防叢書 第五輯 巡洋艦の話』科学主義工業社、1938年3月 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月 。
- 海軍大臣官房『昭和五年度 海軍省年報』海軍大臣官房、1934年3月 。
- 海軍大臣官房『昭和七年 海軍省年報 第五十八回 昭和十年三月刊行』海軍大臣官房、1935年3月 。
- 海軍大臣官房『昭和八年 海軍省年報 第五十九回 昭和十年六月刊行』海軍大臣官房、1935年6月 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- HMS Cumberland (57)本艦の記事。(英語)