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ジャマイカ (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
HMS ジャマイカ(1943年9月18日撮影)
艦歴
発注 1938年
起工 1939年4月28日
進水 1940年11月16日
就役 1942年6月29日
退役 1957年11月20日
その後 1960年11月14日売却
除籍
性能諸元
排水量 基準 8,770トン
満載 11,194トン
全長 169.3 m (555.5 ft)
全幅 18.9 m (62 ft)
吃水 5.0 m (16.5 ft)
機関 アドミラリティ式三胴型重油専焼水管缶 4基、パーソンズ式ギアード・タービン 4基、4軸推進、(80,000 shp)
最大速力 32,25ノット
航続距離 15ノットで6,250海里
乗員 士官、兵員907名
兵装 50口径6インチ3連装砲 4基
45口径4インチ連装砲 4基
20mm連装対空機関砲 6基
2ポンド4連装ポムポム砲 2基
21インチ3連装魚雷発射管 2基
搭載機
(後に撤去)
スーパーマリン ウォーラス2機

ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) はイギリス海軍軽巡洋艦クラウン・コロニー級軽巡洋艦(フィジー級軽巡)。 艦名は当時イギリス領だったジャマイカ島に由来する。

艦歴

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1939年4月28日、ヴィッカース・アームストロング社バーロー造船所にて起工。 1940年11月16日、進水。

1942年6月29日、竣工。本国艦隊に所属し、第二次世界大戦に参加。11月にトーチ作戦を支援。

12月、軽巡洋艦「シェフィールド」とR部隊を形成してバレンツ海海戦に参加した。ロバート・L・バーネット少将は「シェフィールド」で指揮を執り、JW51B船団(護衛部隊指揮官ロバート・シャーブルック少将)の間接護衛を担当した。するとクメッツ提督が率いるドイツ艦隊が、虹作戦を発動して連合国輸送船団を攻撃してきた[1]。連合軍側は最小限の被害と引き換えに[注釈 1]重巡アドミラル・ヒッパー」と重巡リュッツォウ」など撃退して勝利した[2]。英軽巡2隻は「ヒッパー」に機関室浸水被害を発生させて撤退に追い込み、味方と誤認して近づいてきたドイツ駆逐艦2隻を至近距離から砲撃して「フリードリヒ・エッコルト」を撃沈した[1]

1943年7から9月にはポーツマスで改装を行う。同年12月には北岬沖海戦参加し、本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将が指揮するフォース2に所属した。フォース2は、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、軽巡「ジャマイカ」、駆逐艦4隻で編成されていた。オストフロント作戦により出撃してきたドイツ戦艦シャルンホルスト」は、すでに巡洋艦部隊(バーネット提督:シェフィールド、ベルファストノーフォーク)と交戦してレーダーに損傷を受けていた[3]。戦場に到着したフォース2は、「シャルンホルスト」を圧倒して撃沈した[3][注釈 2]

1944年2から3月にはJW57・JW58・RA58船団の護衛に参加。更にドイツ戦艦ティルピッツ」を攻撃する空母数隻を支援した。1945年4月に近代化改装を受け、この時X(3番)砲塔は撤去されて対空兵装増強、レーダーの新式化が行われた。同年9月には第5巡洋艦戦隊に参加し、インド洋方面へ展開。大戦終結後の1948年8月には第8巡洋艦戦隊に参加し、北アメリカ・西インド諸島方面へ展開した。

1950年7月には朝鮮戦争に参加し、支援砲撃や魚雷艇・ヤク戦闘機と交戦。1952年、本国に帰還し予備役に置かれる。 1953~54年地中海艦隊に転属。1957年11月20日に除籍。保管船となる。 1960年12月20日に解体開始され、1963年8月15日に解体が完了した。

画像

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登場作品

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戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』
重巡洋艦「エクセター (HMS Exeter, 68) 」役を務めた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 駆逐艦「アケイティーズ」沈没、掃海艇「ブランブル」沈没、駆逐艦1隻大破。
  2. ^ 北海の怒濤上英艦隊と激戰 獨乙の至寶戰艦沈没 ― 二万六千噸シャーンハスト[4]【倫敦廿六日公報聯合通信】獨乙艦隊の至寶シャーンハスト號は開戰以來北海の聯合國對露レンド・リース航路遮斷の爲め幾多の苦戰を重ね、常に無事であつたが、一昨クリスマスの日、有力なる英國近海防備艦隊と遭遇、敢然交戰の結果、遂に北海の氷山を枕とし深海に沈降した旨公表された/ 此海戰は、英國側の 勝利であり、飛行機が此戰爭に参加したかどうか等、其他乗組員の死傷等に關する詳報は未だ不明であるが、此獨戰闘艦二万六千噸を失へば、殘る戰闘艦は僅かに二隻、チルピッツ號(四万一千噸)、並にグニーセノウ號(二万六千噸)のみである(記事おわり)

出典

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  1. ^ a b オスプレイ、ドイツ重巡 2006, pp. 18–20.
  2. ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 21.
  3. ^ a b オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, pp. 14–15.
  4. ^ Yuta Nippō, 1943.12.27”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 03. 2023年9月16日閲覧。

参考文献

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  • ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド1 German Battleships 1939-45 ドイツ海軍の戦艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2005年11月。ISBN 4-499-22898-0 
  • ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年1月。ISBN 4-499-22899-9 
  • ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド4 German Heavy Cruisers 1939-45 ドイツ海軍の重巡洋艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年5月。ISBN 4-499-22909-X 
  • 「艦船名鑑WARSHIPS FILE1939~45」光栄 1997年3月24日初版
  • 世界の艦船』、1986年1月増刊号「近代巡洋艦史」、海人社

外部リンク

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