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ノート:禅宗

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「禅」の字体について

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Isn't the character incorrect?

  • Are you asking about the character "禅" ? It is the right word at least in the modern Japanese.
"禪" is the chinese writing and (maybe) the old writing in Japanese. But if you write "禪", most of Japanse may recognise as "禅".
--Setu 01:39 2003年3月28日 (UTC)

内容について

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この記事は問題が多すぎ。禅の目的は「悟り」ではない。

諾。あお。 2006年2月1日 (水) 16:52 (UTC)[返信]

大幅削除について

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しるふぃ様のアドバイスにより、。Authority様より移動しました--Kstigarbha 2004年12月3日 (金) 17:35 (UTC)[返信]

>【】について 削除ではなく、訂正もしくは語句の置き換えのつもりです。全体の語句数は増えていると思います。

    • 迦葉の梵語ネームのMahaのhaは伸ばせとうちの梵語の教授が口を酸っぱく述べておりますが、如何でしょう?
    • 楞伽宗を消されたのは何故でしょうか。二祖、三祖、四祖の頃には楞伽宗と呼ばれていたと田中良昭敦煌菩薩と椎名宏雄老師が仰っていますけれども。
Authorityさんはおそらくこの編集でKstigarbhaさんの投稿が途中で切れてしまっているのを削除したと早とちりしたのでしょう。(Revertしました。)最後の文字が化けていたので意図せざる投稿であることは自明と判断しました。Tietew [Talk] 2004年12月3日 (金) 18:08 (UTC)[返信]
マハーについて
私もそう思いますが、すでにマハカーシャパの記事があったため、変更を控えました。マハー等延ばす音をマハと表記するのは、外来語の扱いに多く見られますので、意図があるのかもしれません。とりあえずは、赤リンクをなるべく少なくなるようにしておき、あとから漸次直しを入れたら如何でしょうか?
楞伽宗について
消したのは私ではありません。多分初めからなかったでしょう。典拠資料があれば、どんどん追記していけばよろしいと思います。私は間接的な見聞の場合は、必ず依拠する資料を確認するようにしています。だから、それが見つからない事項には手をつけないようにしています。Authority 2004年1月4日 (土) 01:07 (UTC)[返信]
↑判明しました。Kstigarbhaさんが楞伽宗を追記した際、ミスが消えてしまい、TietewさんがRevertした楞伽宗追記前の状態に戻ったためです。Authority 2004年12月4日 (土) 01:20 (UTC)[返信]
了解しました。--Kstigarbha 2004年12月4日 (土) 11:51 (UTC)[返信]

「録」字について

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  • 景徳傳燈録の"録"の旧字は、このままですと機種依存文字ですので、余所様のパソコンでは反映されないと思われます。UTF-8(unicode)で打つ必要があります。合掌--Kstigarbha 2004年12月8日 (水) 09:08 (UTC)[返信]

坐禅と瞑想について

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坐禅と、瞑想は、おなじものなのですか。220.208.231.160 2005年9月20日 (火) 07:25 (UTC)[返信]

違います。それと、ここは質問コーナーではありませんので、質問はヘルプデスクの方でお願い致します。「百聞は一見に如かず」と申しますので、実際にご自分で坐禅をされることをお勧めします。--Kstigarbha 2005年10月12日 (水) 03:38 (UTC)(加筆)[返信]

削除依頼関連

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削除依頼が出ていたので考えてみました。要点はWikipedia:削除依頼/禅に書いたのですが、著作権法的にどうなのかということを少し考えたので記しておきます。

この件の特徴を考えてみましたが、実際に文献にあたられたOxhopさんが述べられているように「表現」上は類似性が認められないけれども、Kstigarbhaさんが述べられているように要旨やとりあげている事柄の取捨選択や配列が共通しているということなのだろうと思いました。

そのような共通性は、「内面的表現形式」の共通性という風に、日本の著作権法ではとらえるのだと僕は理解しています。この内面的表現形式は、著作権の保護対象で、無断で利用した場合には著作権侵害になることがありうるものだと思います。(典型的には、内面的表現形式はそのままに具体的な表現を変えたものは、翻案作品とみなされて、無断で翻案することは翻案権の侵害になると思います。)今回の件について考えてみて、共通性が「依拠」に由来するものであって、かつ「創作性」があるものであれば、著作権侵害の可能性を考えるべきではないかと思います。「依拠」の問題については、例えば偶然似てしまった場合には、依拠にはあたりませんから問題がないと考えてよいようです。ただし、偶然であるかどうかは、例えば出典ではないかと考えられる書物(伊吹敦著『禅の歴史』)がその分野なり主題なりを扱うものとして著名であるかどうかとか、依拠をしたのではないかと言われる人がその書物にアクセスしたことがあったかどうかなどを考慮して裁判所が決めるものになるようですし、文章をどのように作成したのかなどについて情報提供を求められることもあるようですし、ウィキペディアとしてはどういう基準で「これは偶然」と判断するべきなのか基準を明確にするのは難しいと感じます。仮に投稿者が偶然だと主張し、ウィキペディア上でも削除されないことになった文章が後になって実は偶然ではないと裁判所に判断されてしまった場合にはどうしたらいいのか、どういう問題が発生しうるのか、というのは詳細にはいろいろわからないことはあるのですが、ウィキペディアは広くコンテンツを利用してもらうためのプロジェクトであるために、結構厄介なことにもなりかねないかなという感じがします。(賠償などの法的な責任を関与したウィキペディアンが負うのかどうかという問題を別にして考えても。)それから、既に著作権保護期間が過ぎている第3の著作物などがあって、ウィキペディアへの投稿も、上掲の書物も記述を転用しているために両者が似ているという可能性もありますが、その場合もやはり問題ないように思います。これはその第3の著作物を特定して、それが投稿された文章と伊吹敦著『禅の歴史』との共通点を備えていること、既に著作権保護期間が過ぎていること、などを検証するという、偶然かどうかの判断に比べればやや確実な判断がしやすい問題かも知れません。なお、この主題(禅、特に臨済宗の海外への波及)について述べる場合には必然的にこのような表現にならざるを得ない、というような事情があればその場合には依拠があっても著作権侵害にはならない可能性が出てくると思うのですが、それはこの件にはどうやらあてはまらなさそうな気がしました。

次に、「創作性」については、Kstigarbhaさんが指摘されている諸点に書き手の思想などが何らかの形で反映されているかどうかが問題なのかなと思いました。関係がありそうな判例を改めて見回してみて、どう整理したらいいのか困るぐらい複雑な様相を呈しているという印象を持ったのですが、おおよそ次のように考えました。(1)要約は本案件の侵害であるとする判例があり、新聞記事など事実の記述を主とするものについてもそのような侵害が認められています。その際の考え方の一つの鍵は、事実の取捨選択や配列がそれ自体として創作性を持つことがありうるということです。(2)また、事実の取捨選択や配列に創作性を認める判決は、「編集著作物」と呼ばれるような著作物に関する判例に多く見られます(例えば職業別電話帳を扱ったものなど)。そのような判決で示された考え方の中には、「編集著作物における独創性とは、学問的な完全無欠さを要求するものではなく、素材の選択又は配列に、何らかの形で人間の精神的活動の成果が顕れていることをもって足りる」というようなものもあります。編集著作物とそれ以外の著作物は別種の著作物なので、それらの判例で示された考え方は今回のような要約の問題には適用できないのではないか、という可能性も考えたのですが、専門書などを見ると、編集著作物は別種の著作物というわけではなくて普通の文章などでも編集著作物としての側面を持っているというような意見があります。(例えば田村善之『著作権法概説』)(3)翻案というのは原作の主要な部分を借用していなければだめで、今回のように書籍のごく一部、それも主旨とは関係が薄い部分を借用しただけではそもそも翻案にはあたらないのではないかということも考えてみました。ですが、例えば書籍のプロローグ部分とドキュメンタリーの類似を扱った訴訟などを見てもその類似が書籍の主旨とは関係が薄いから問題にならないといった類の議論はなく、一般にそうした考え方を採用してよいという根拠が不十分であり、逆に創作性がある部分であれば作品全体の主旨と関連があろうとなかろうと問題になりうると考えることもできそうなのでとりあえずはあきらめました。(4)最後に、著作権の裁判で問題になる創作性の基準というのは「独創性」ではないということは広く言われますが、そればかりではなく、一般にかなり低く、特に創作性豊かと感じられるような文章などでなくても思想や感情が表現されていれば足りるなどとされることがあり、事実の取捨選択や配列の創作性に関してもそのような考え方を示した例があります。(ノート:ピックルスコーポレーション/削除の下の方にそれらを抜粋してあります。)そこで、この件についても、そのような基準が適用される可能性を考えて対処するのが適切ではないかと思いました。

具体的に、この文でとりあげている人物の取捨選択、主な出来事の取捨選択、それらの配列などについて考えてみると、もしかすると配列については時系列順で創作性は特にないのかなという気がしましたが、取捨選択についてはいろいろな考え方に基づいていろいろな選択ができる部分でしょうし、それは書き手の意見を強く反映しやすい部分のように思うので、依拠があったのなら、日本の著作権法上は創作性が認められることもありうるものとして削除するのがいいのかな、という風に思いました。ただ、この部分については、禅の海外への波及についての知識を持ちあわせていないので判断がとても難しいという感触もあります。

以上から、明らかに侵害だと考える理由はないように思いますが、明らかに侵害でないと言い切ることも難しそうな気がしました。そこで、あえてどちらかと言えば、念のために削除するのが適当な案件なのかなと思いました。

Tomos 2006年3月30日 (木) 05:58 (UTC)[返信]


読みにくいし内容がない!

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この記事はヒドいですね。 僕は専門家じゃないので内容の整合性どうこうというのではなくて、読みにくいし内容がない! こんな長い文読んでも結局「禅とか何なのか」がサッパリ分かりませんでした。 こんな内容のものが愛用するウィキペディアで採用されているのが悲しくなりました。 英語の記事をそのまま日本語訳した方がいいんじゃないでしょうか。 こっちは長いけどはるかに分かりやすいです。

貴方がウィキペディアをご愛用しておられるのなら、申すまでもなく、不十分と思われる記事は、誰でも編集できます。英語版が良いと判断されるのならば、英語版から翻訳されても、全く問題ございません。ただ、サインせず(名乗ることもなく)、「読みにくい」「内容がない!」「ヒドい」「サッパリ分かりません」「悲しくなる」等の表現だけを羅列されて、書きっ放しという態度の方が、ご愛用のウィキペディアの趣旨を全く理解されない行動に見受けられます。この「読みにくいし内容がない!」のコメント自体が、内容がないことになってしまいます。不足を感じたら、こんな所に無記名で文句を書くよりも、修正して下さい。 Nakadati 2006年9月14日 (木) 02:34 (UTC)[返信]

日本中心にならないようにする

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2009年9月11日に編集をさせていただいた211.18.72.174です。

 2009年9月11日の更新履歴でPunipicoさんにご指摘頂いた内容について、こちらのノートページにてお話をさせていただきたいと思います。

 本項の日中の禅宗比較の項目にもあるとおり、昔ながらの禅宗を受け継ぎ現在まで存続させているのは日本だけであり、現代の中国・インドにおいてもはやその原型をとどめておらぬ昔の禅宗の姿を、あたかもこれが現在の世界の禅宗のスタンダードであるというように記述することは、事実に反することになります。日本中心にならないようにする趣旨は、日本人による日本語記事への傾倒偏見の排除と外国の方がお読みになった場合の分かりやすさが目的でありますが、今は亡き古の中国の禅宗をいきなりトップにもってくることもこれまた外国の人に誤解を与える元となりましょう。また日本の禅宗も昔の中国の禅宗から正統の師資相承を受けておるのであり、これを先頭に記述するをためらうのいかなる理由も思い当たらないところです。したがって古代中国の禅宗の姿はそれはそれとして歴史的な資料として掲示すべきであり、歴史的資料であれば後段でかまわないと判断いたした次第です。

問題となりうる文章例 ・世界的にみられる事象をそのことに触れず局地の事象のみを描写している場合:インドから伝わり中国で発祥したこと、また中国の禅の姿がどのようであったかも併記されております。

・発祥の地はそのことに触れ、できる限り具体的に微に入り細に入り描写することが望ましい:これについても中国での発祥の様子の記事は排除せずに残してあります。ただ後段に置くべき理由が上記であります。

それから、禅宗が無神教という記述についてご質問させていただきたいのですが、これはどなたの論評でしょうか。

禅宗は大乗教であり、大乗教でいう仏性が西欧の人々がいうところの神に相当するものであるとするならば、禅宗では神(仏性)は自分自身の中にすでに存在しているのだということを教えております。自分自身の中に神が存在するのに、なぜ無神教なのでしょうか。--61.202.83.182 2009年9月13日 (日) 10:50 (UTC)[返信]

要約欄で「日本語のWikipediaにおいては日本の禅宗を記載すべき」旨仰っていましたので、その点にだけ違和感がありましたので当方の要約欄であのように意見させていただきました。上記で仰っている通りということであれば問題ないかと思います。節の並び自体は教義の説明がトップに来る 61.202.83.182 さんの編集の方が読者にとって理解しやすいと思いますので、節の並び自体には全く手を加えておりません。ただ、日本の禅の教義についての説明であることは明確にした方が良いかと思いましたので、教義の節の頭の一行だけ戻しました。加えて、語の定義は項目先頭にあるのがわかりやすいので、概念の節の中身を先頭に移動いたしました。
無神教云々については2008年11月27日の編集で加筆された後2008年12月17日の編集以来コメントアウトされたままになっておりましたので、特に異論は無いものと見て併せて削除させていただきました。 --punipico 2009年9月14日 (月) 07:12 (UTC)[返信]
よくわかりました。ご回答くださいましてありがとうございます。--61.202.83.182 2009年9月14日 (月) 09:12 (UTC)[返信]

8 日中の禅宗比較 の表現について

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問題の箇所は2010年3月1日の編集中の日中の禅宗比較の文章

「シナ人の思惟方法が非論理的かつ苛酷残忍であることを反映するかたちで、中国の禅宗も隠遁的・独善的であるのに対し、日本人の思惟方法が寛容と愛情を強調することを反映するかたちで、日本の禅宗も宥和的・慈悲的なものへと変化している」

この文章の日中の禅宗を比較した対比表現のうち、

「シナ人の思惟方法が非論理的かつ苛酷残忍であることを反映するかたちで」

という表現が差別用語であるため表現を改めるべきだという提案がなされ、現在は提案者本人によりこの箇所が削除されています。

要点は、これが中村元という仏教学者の唱えた一つの学説であり(表現そのものは被引用著作物からそのまま引用されている)、彼は日中の禅宗がかくも別物になっているのは何故かという解答の核心を、民族性からくる根本的な思惟方法の違いに置くことによって説明している点です。 それゆえに、ここで「シナ人の思惟方法が非論理的かつ苛酷残忍であることを反映するかたちで」という核心部分を削除すれば、いったい何に基づいて日中の禅宗がかくも異なっているのかさっぱりわからない、ということになります。

そこで、

  • この表現はいわゆる差別用語に該当するのかどうか。
  • この表現が差別用語を含むのであればどのように表現を改めるべきであるか。
  • もし被引用文として記述するならば同一性保持権保護の観点からWikipedia:引用のガイドラインに忠実に即した表現に改めるべきではないか。
  • あるいは全面的に書き直すならばどのような形がありうるか

という4点において、皆様のご意見を頂きたいと存じます。61.202.92.52 2010年3月8日 (月) 21:30 (UTC)[返信]

このような疑義を提起されるならば、この項目が中村元という人物だけの意見の開陳であることを踏まえて、敢えて記載せずに全部削除しても良いと思います。異なっているのは日中という地理的な面の比較では明らかに不足で、同じ中国でも唐代と宋代で大きく違うのですから、この中村元の主張は不徹底なものと言わざるを得ません。4点でなく削除も入れて5点にすべきです。それから、疑義を提起するのであればログインしてから書くのがマナーではないでしょうか? 2010年3月15日 (月) 16:16 (UTC)[返信]
61.202.92.52です。ご返答ありがとうございます。最終的には管理者ふくめ編者のみなさまのご意見に従うことになるとおもいますが、ひとまずご回答申し上げます。
まずこの項目の情報源が中村元一人だけのものであるから全て削除すべきだとのご指摘でありますが、wikipediaは個人の思想信条を述べる場ではなく、必ずこのような著作情報を元に検証可能性を満たす必要があります。したがって情報源の多少に関わらず、それが削除すべき正当な理由とはなりえないのであります。一人がご不足であれば、どうぞ他の著作からも二人三人と、このような違った見解もあると示していただくことこそ、wikipediaと記事の質の向上に繋がろうかと存じます。
次に日中という地理的な面の比較では不足と申されますが、これは地理的な比較ではなく文化的な比較であります。それは禅が地図上にあるのではなく人々の心の中にあることからも明白であります。また同じ中国内での唐代と宋代といった時代ごとのご比較でしたら、どうぞ「2中国の禅の歴史」の節がありますのでそちらへご記述くださいますようお願い申し上げます。
ご指摘の通りログイン致しました。TA 2010年3月21日 (日) 21:42 (UTC)[返信]

文化的な比較ということであれば、これこそ一つの説の提示ですから、Wikipediaの記事には相応くなく、単に中村元がこのような説をとなえたということの記録であれば、『日中の比較』という項目名にそぐわないと思量します。故に私としては削除を提案する次第です。違った見解をあることを示すのは、削除を提起している私の仕事ではないことはお分かりいただけますよね。 2010年3月22日 (月) 11:11 (UTC)[返信]

日中の禅宗を比較をしている学者がもし世の中に一人しか居なければ、その段階でその説は通説でありまして、誰が読んでも出版された本にそのように書かれている以上、それはwikipediaに記載するに相応しいということになります。
おそらく麓さんは中国について一見悪く書かれたようにお感じで、中国の国益その他のためにこの文章を削除したいということであるかもしれませんが、wikipediaはそのような編集者の個人的な思想信条を述べる場所ではないのです。
wikipediaに記載すべきは「真実であるかどうか」ではなく、その書かれた内容の情報源を誰でも「検証可能かどうか」ということであります。もしこの日中比較の記述に情報源が無く、私の個人的な思想によって書かれたものならば削除すべきです。が、この内容には高名な仏教学者の確かなる出典がありますので、削除すべきだというご指摘はまったく的外れである、と申し上げている次第です。TA 2010年3月24日 (水) 08:52 (UTC)[返信]
4月21日に麓さんの編集履歴があるにもかかわらず、一月以上ご返答がありませんでしたので、この問題はご理解いただいたものとみなし、引用元著作物に忠実な表現に改めさせていただきます。なお、今後この箇所について編集なさりたい場合は、編集合戦を避けるためあらかじめこちらへ問題を提起してくださいますよう、お願い申し上げます。TA 2010年4月28日 (水) 13:33 (UTC)[返信]

:::TAは明らかに悪意のあるキチガイネトウヨなので差別表現は削除しておきます。

編集者が「キチガイネヨウヨ」であるという証明不可能な理由で削除が行われており、またたとえ編集者が「キチガイネトウヨ」であったとしても文献を提示した上で検証可能性が担保されているため、「日中の禅宗比較」の章は削除される前の文章に差し戻します。--182.164.125.214 2014年6月17日 (火) 17:38 (UTC)[返信]

「鑑みる」という言葉

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記事中に「鑑みる」という表現が使用されていますが、その使用時に助詞の補足、あるいは言葉の言い換えが必要な気がします。--kichizo

明らかな誤用です。「~に自分を鑑みる」となってなければなりません。『~』を鑑として自分を観るということです。そもそもこの『注』は特定の宗派の教義なので、記述全体の見直しか、または削除が必要でしょう。 2010年6月26日 (土) 02:30 (UTC)[返信]

「概要」について

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「概要」の項目で「【その2】」など、文の流れを無視した構成になってますが、どういう修正が可能でしょうか?--59.190.111.135 2011年4月19日 (火) 16:16 (UTC)[返信]

記事名のつけ方に反するのでは

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Wikipedia:記事名の付け方には信頼できる情報源で最も著名な記事名をつけることとなっているが、禅宗を禅と呼ぶことはあると思うが、一般に禅宗と呼ばれているかと思います。--タバコはマーダー会話2017年7月12日 (水) 06:17 (UTC)[返信]

分割提案

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上でも述べられている通り、禅定禅宗がごっちゃになっていると思います。ボーディダルマを開祖とする宗派については、禅宗に分割したいと考えますが、いかがでしょうか。--Yuasan会話2022年8月23日 (火) 10:04 (UTC)[返信]

チェック 内容を禅宗に転記してしまうと、跡地には曖昧さ回避しか残らないようですので、履歴継承のため以下の移動を行いたく思いますが、いかがでしょうか。--Yuasan会話2022年8月30日 (火) 15:59 (UTC)[返信]
コメント こんな話(曹洞宗と臨済宗「個別に記載を」 教科書会社に要請)があるようなので、調査が必要かと。--Kurz会話2022年9月3日 (土) 10:56 (UTC)[返信]
改名するにしても、しないにしても、禅宗にリンクしている記事については個別の調査が必要ということですね。--Yuasan会話2022年9月4日 (日) 15:43 (UTC)[返信]
それもあるんですが、先に示したURLとこの項目群の現状と合わせて推測するに、「禅」の記事に各宗の記事が載せられるのはOKでも、「禅宗」の記事に各宗の記事が載せられるのはNGな可能性があるんじゃないでしょうか。つまり一般には禅宗というくくりを使っていますが、各宗自身は禅というくくりで呼んでほしいと思っている、という。--Kurz会話2022年9月5日 (月) 22:16 (UTC)[返信]
先に示したURLからは、そういった話が読み取れないですが・・。核心は”宗派は宗祖と宗派名が記載されているのに、臨済宗と曹洞宗だけが「禅宗」と表記されている”という指摘ですから、「これら禅宗の宗祖は達磨僧」とひとくくりにせず、ちゃんと道元大師のことを教科書に記載してほしい、という話ではないでしょうか。--Yuasan会話2022年9月8日 (木) 06:20 (UTC)[返信]

ほか一週間ほど反応がなければ、依頼に移りたいと思います。--Yuasan会話2022年9月14日 (水) 10:33 (UTC)[返信]

分割作業については既に 2022年8月30日 の時点で終了しています。残ったのは改名提案のみになります。--Yuasan会話2022年9月28日 (水) 10:20 (UTC)[返信]
返信 分割提案では「の一部を禅宗に分割」とありましたが、履歴を確認すると禅_(曖昧さ回避)に転記していますね。そして今は禅宗に、禅_(曖昧さ回避)に改名しようとしているわけですね。私はこの主題については詳しくないので賛否は言いませんが、分割が終わったのであれば分割提案テンプレートの除去や、Wikipedia:分割提案のページに分割済の報告をするなどの後処理もきちんとお願いします。今回はこちらで代理でやっておきます。--ねこざめ会話2022年9月28日 (水) 18:26 (UTC)[返信]
はい、そうなります。ご対応ありがとうございました。--Yuasan会話2022年9月30日 (金) 12:09 (UTC)[返信]

チェック 改名されました。--Yuasan会話2022年10月9日 (日) 06:54 (UTC)[返信]