サーリフ・ハーッジー
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サーリフ・ハーッジー الصالح صلاح زين الدين حاجي | |
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マムルーク朝第28代・30代スルターン | |
1382年のハーッジー2世の治世に鋳造された銅貨 | |
在位 |
1381年 - 1382年 1389年 - 1390年 |
家名 | カラーウーン家 |
王朝 | バフリー・マムルーク朝 |
父親 | アシュラフ・シャーバーン |
アッ=サーリフ・ハーッジー(アラビア語:الصالح صلاح زين الدين حاجي, 転写:as-Ṣāliḥ Ṣalāḥ Zein ad-Dīn Ḥajjī II、ハーッジー2世)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1381年 - 1382年、1389年 - 1390年)。第26代スルターン・アシュラフ・シャーバーンの子[1][2]。第27代スルターン・マンスール・アリーの弟にあたる。
生涯
[編集]1381年にマンスール・アリーが没した後、有力者である将軍バルクークが登位する噂が広まるが、他の将軍たちはブルジー・マムルーク(チェルケス系出身のマムルーク)であるバルクークの即位に反対していた[3]。バルクークはバフリー・マムルーク(アイユーブ朝のスルターン・サーリフが創始したバフリーヤ軍団の出身者)の勢力が衰えるまで即位を延期するべきだと考え、マンスール・アリーの弟であるハーッジー2世を擁立した[4]。ハーッジー2世の即位後、摂政となったバルクークが政務と軍事の全権を掌握した[5]。
バフリー・マムルークの有力者たちが相次いで没した後にバルクークは即位を決意し、1382年11月にハーッジー2世は廃位される[6]。
1389年にバルクークが反乱によって失脚した後、バルクークの政敵によってハーッジー2世が擁立され、一時的に復位する。1390年のダマスカス近郊の戦闘でハーッジー2世はバルクーク軍の捕虜となり、バルクークによって再び廃位された[7]。 バルクークの復位により、カラーウーン家によるスルターン位の世襲は終わりを迎え、新たにブルジー・マムルーク朝が成立した[8]。
ハーッジー2世は廃位後もカイロに住み続けることを許されたが、後に毒殺された[9]。
脚注
[編集]- ^ 三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史 1 アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、付録93頁
- ^ Williams, p.16-17 [1]
- ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、78頁
- ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、78,80頁
- ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、81頁
- ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、78,81頁
- ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、87頁
- ^ 三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史 1 アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、323頁
- ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、88頁
参考文献
[編集]- 大原与一郎 『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
- Caroline Williams, Richard Bordeaux Parker, Robin Sabin, Jaroslaw Dobrowolski, Ola Sei, Islamic Monuments in Cairo: The Practical Guide American Univ in Cairo Press, 2002