カール=ハインツ・リードレ
| ||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() | ||||||||||||||
名前 | ||||||||||||||
愛称 | エア・リードレ (Air Riedle[1]) | |||||||||||||
ラテン文字 | Karl-Heinz Riedle | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 |
![]() | |||||||||||||
生年月日 | 1965年9月16日(59歳) | |||||||||||||
出身地 | ヴァイラー・イム・アルゴイ | |||||||||||||
身長 | 179cm[2] | |||||||||||||
体重 | 75kg[2] | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | FW | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
1974-1981 |
![]() | |||||||||||||
1981-1982 |
![]() | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1983-1986 |
![]() | 80 | (31) | |||||||||||
1986-1987 |
![]() | 34 | (10) | |||||||||||
1987-1990 |
![]() | 86 | (38) | |||||||||||
1990-1993 |
![]() | 84 | (30) | |||||||||||
1993-1997 |
![]() | 87 | (24) | |||||||||||
1997-1999 |
![]() | 60 | (11) | |||||||||||
1999-2001 |
![]() | 34 | (6) | |||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1986-1987 |
![]() | 4 | (1) | |||||||||||
1988 |
![]() | 1 | (0) | |||||||||||
1988-1994[3] |
![]() ![]() | 42 | (16) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
2000 |
![]() | |||||||||||||
| ||||||||||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
カール=ハインツ・リードレ(Karl-Heinz Riedle, 1965年9月16日 -)は空中戦が非常に強く、空の王者というニックネーム。またはメッサーシュミット、ドイツの有名な戦闘機メッサーシュミットという物騒なニックネームで呼ばれていた。実は足でのシュートも得意で決定力があった。1992年ヨーロッパ選手権では足のリードレ、空のクリンスマンであった。ドイツ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード。身長179cmと大柄ではないが、滞空時間の長い跳躍力を生かしたヘディングシュートを得意とし「エア・リードレ」の愛称で呼ばれた[1][4]。息子のアレッサンドロ・リードレもサッカー選手であり父と同様にストライカーを務めている[5]。
クラブ経歴
[編集]リードレは1974年にTSVエルホーフェンでサッカーを始め[6]、SVヴァイラーを経て1983年にバイエルンリーガ所属のFCアウクスブルクに入団した[6]。1985-86シーズンのバイエルンリーガで22得点を記録すると[4]、1986年にブラウ=ヴァイス 90 ベルリンへ移籍した[4]。ブラウ=ヴァイスでは1シーズンのみの所属となり10得点を記録するに留まったが[6]好調なプレーを維持し[4]、1987年にオットー・レーハーゲルが監督を務めるヴェルダー・ブレーメンへ移籍した[4]。この移籍について後にリードレは「ブレーメンは若手選手の育成に定評があるセンセーショナルなクラブだった。レーハーゲルのおかげで私は選手として成長し、多くのことを学んだ」と評している[4]。加入初年度の1987-88シーズンにはリーグ戦33試合に出場し18得点を記録し、ブンデスリーガ優勝に貢献した[4]。またクラブの歴史上において最高の試合の一つと考えられているUEFAカップ1989-903回戦のSSCナポリ戦でも2試合合計で3得点をあげるなど顕著な働きを見せた[4]。
1990年に1300万ドイツマルクという当時のヨーロッパでは最高額の移籍金[7]でイタリアのSSラツィオに移籍[4]。1991-92シーズンにはリーグ戦29試合に出場し13得点を決める活躍を見せ[8]、1992-93シーズンにはクラブにとって1970年代以来最高の成績となるリーグ5位に押し上げる原動力となったが[4]、4人の外国人が在籍する中、やや出場機会を減らしていた[9]。
1993年夏、ドイツに帰国しボルシア・ドルトムントへ移籍した[10]。契約期間は3年で移籍金は950万マルク(6億3000万円)[11]とも、850万マルクとも推定される[12]。ドルトムントでは1994-95シーズンと1995-96シーズンのブンデスリーガ連覇、UEFAチャンピオンズリーグ 1996-97では決勝戦のユヴェントスFC戦で2得点を決める活躍を見せ初優勝に貢献した[10][13]。
1997年、イタリアのペルージャ・カルチョも獲得に動いたがアストン・ヴィラFCへ移籍したスタン・コリーモアの後釜としてイングランドのリヴァプールFCへ移籍した[7]。リヴァプールではマイケル・オーウェンやロビー・ファウラーといった攻撃陣とのポジション争いとなったが[7]、1999年9月に出場機会を得るためにフットボールリーグのフラムFCへ移籍[7]。1999-00シーズンにはポール・ブレイスウェルの後任として選手兼任の暫定監督を務め[10]、2000-01シーズンには正式な監督としてジャン・ティガナが就任したため選手に復帰し、プレミアリーグ昇格に貢献したが同シーズン限りで現役を引退した[10]。その後、2002年1月にリヒテンシュタインのFCファドゥーツの練習に参加し現役復帰を試みたが[14]、契約はならなかった[15]。
代表経歴
[編集]1988年にユルゲン・クリンスマンやトーマス・ヘスラーらと共に西ドイツ五輪代表に選出され、韓国で開催されたソウルオリンピックに出場し銅メダルを獲得した[16]。
ドイツ代表としては1988年8月31日に行われた1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のフィンランド戦で代表デビューをした[3]。1990年にイタリアで開催された本大会ではクリンスマンやルディ・フェラーに次ぐ3番手のフォワードと見做されていたが[4]、準決勝のイングランド戦を含む4試合に出場し優勝に貢献[3]。イタリア大会以降にフェラーに代わってレギュラーに定着し、1992年にスウェーデンで開催されたUEFA欧州選手権1992では準決勝のスウェーデン戦で2得点を決めるなど合計3得点をあげヘンリク・ラルセン、デニス・ベルカンプ、トーマス・ブロリンと並び得点王となった[17]。その後、1994年にアメリカ合衆国で開催された1994 FIFAワールドカップに出場、グループリーグの韓国戦で1得点を挙げた[18]。国際Aマッチ通算42試合に出場し16得点を記録した[3]。
引退後
[編集]2004年11月からはスイスのグラスホッパー・クラブ・チューリッヒのスポーツディレクターを務めていたが、2007年4月に2006-07シーズン限りでの辞任を表明した[19]。その後はドイツ南部のアルゴイ地方でサッカースクールや4つ星ホテルを経営している[20]。
2014年11月、古巣のボルシア・ドルトムントの国際親善大使に就任した[21]。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]- 西ドイツ/ドイツ代表
- 1990 FIFAワールドカップ(優勝)
- UEFA EURO '92 3得点(準優勝)
- 1994 FIFAワールドカップ 1得点(ベスト8)
試合数
[編集]
ドイツ代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1988 | 1 | 1 |
1989 | 3 | 1 |
1990 | 9 | 1 |
1991 | 5 | 3 |
1992 | 10 | 4 |
1993 | 8 | 5 |
1994 | 6 | 1 |
通算 | 42 | 16 |
得点
[編集]- 出典[3]
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1988年8月31日 | フィンランド、ヘルシンキ | ![]() |
4-0 | 1990 FIFAワールドカップ・予選 |
2 | 1989年4月29日 | オランダ、ロッテルダム | ![]() |
1-1 | 1990 FIFAワールドカップ・予選 |
3 | 1990年12月19日 | ドイツ、シュトゥットガルト | ![]() |
4-0 | 親善試合 |
4 | 1991年9月11日 | イングランド、ロンドン | ![]() |
1-0 | 親善試合 |
5 | 1991年10月16日 | ドイツ、ニュルンベルク | ![]() |
4-1 | UEFA EURO '92予選 |
6 | 1991年12月18日 | ドイツ、レーヴァークーゼン | ![]() |
1-1 | UEFA EURO '92予選 |
7 | 1992年6月15日 | スウェーデン、ノーショーピング | ![]() |
2-0 | UEFA EURO '92 |
8 | 1992年6月21日 | スウェーデン、ストックホルム | ![]() |
3-2 | UEFA EURO '92 |
9 | |||||
10 | 1992年9月9日 | デンマーク、コペンハーゲン | ![]() |
2-1 | 親善試合 |
11 | 1993年3月24日 | スコットランド、グラスゴー | ![]() |
1-0 | 親善試合 |
12 | 1993年6月13日 | アメリカ合衆国、シカゴ | ![]() |
1-1 | USカップ1993 |
13 | |||||
14 | |||||
15 | 1993年10月13日 | ドイツ、カールスルーエ | ![]() |
5-0 | 親善試合 |
16 | 1994年6月27日 | アメリカ合衆国、ダラス | ![]() |
3-2 | 1994 FIFAワールドカップ |
脚注
[編集]- ^ a b “Karl-Heinz Riedle, Deutschlands letzter EM-Torschützenkönig”. 11 Freunde. 2014年9月20日閲覧。
- ^ a b “Karl-Heinz Riedle”. DFB - Deutscher Fußball-Bund e.V.. 2021年1月9日閲覧。
- ^ a b c d e f “Karl-Heinz Riedle - Goals in International Matches”. rsssf.com. 2014年9月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “Karl-Heinz Riedle: „Up in the Air“ und ab nach Italien”. goal.com (2010年3月24日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Spieler”. Viktoria Köln 1904 e.V.. 2014年9月20日閲覧。
- ^ a b c “Riedle, Karl-Heinz - Borussia Dortmund - 1. Bundesliga: alle Spielerstatistiken, News und alle persönlichen Informationen”. kicker.de. 2014年9月20日閲覧。
- ^ a b c d “KarlHeinz Riedle”. Liverpool FC. 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Karl-Heinz Riedle – Matches and Goals in Bundesliga”. rsssf.com. 2017年6月18日閲覧。
- ^ 「ヨーロッパ移籍情報 フリット、プラットの協力コンビ結成! バルセロナはロマーリオを獲得」『ストライカー』 1993年5月5日号、学研、112頁。
- ^ a b c d “Karl-Heinz Riedle”. UEFA.com (2014年8月1日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ 「ストライカーワールドスコープ 世界サッカー情報」『ストライカー』 1993年5月5日号、学研、88頁。
- ^ “Riedle wechselt nach Liverpool”. Rhein-Zeitung (1997年7月31日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ “Karl-Heinz Riedle, der Finalheld von 1997”. 11 Freunde (2013年5月24日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Karl-Heinz Riedle trainiert mit dem FC Vaduz”. fussball.ch (2002年1月9日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Karlheinz Riedle geht nicht zum FC Vaduz”. fussball.ch (2002年2月6日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Löhr über Olympia 1988: "Wir wollten nicht ohne Medaille nach Hause"”. DFB - Deutscher Fußball-Bund e.V.. 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Karl-Heinz Riedle, Deutschlands letzter EM-Torschützenkönig”. 11 Freunde (2012年6月17日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ “WORLD CUP '94; Germany Holds Off South Korea” (英語). THE NEW YORK TIMES. 2023年11月7日閲覧。
- ^ “Riedle tritt in Zürich zurück”. kicker.de (2007年4月19日). 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Berufe der '90er-Weltmeister”. taz.de. 2014年9月20日閲覧。
- ^ “Borussia Dortmund holt Riedle zurück”. kicker (2014年11月22日). 2017年6月24日閲覧。
- ^ カール=ハインツ・リードレ - National-Football-Teams.com
外部リンク
[編集]- 公式サイト
- カール=ハインツ・リードレ - Olympedia
- カール=ハインツ・リードレ - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- カール=ハインツ・リードレ - National-Football-Teams.com
- カール=ハインツ・リードレ - Soccerbase.comによる選手データ
- カール=ハインツ・リードレ - Soccerbase.comによる監督データ
- カール=ハインツ・リードレ - FootballDatabase.eu
- カール=ハインツ・リードレ - WorldFootball.net
- カール=ハインツ・リードレ - Transfermarkt.comによる選手データ
- カール=ハインツ・リードレ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- カール=ハインツ・リードレ - FIFA主催大会成績
- Career stats at fussballdaten.de
- Profile at LFCHistory.net
- ドイツのサッカー選手
- サッカードイツ代表選手
- FCアウクスブルクの選手
- ヴェルダー・ブレーメンの選手
- SSラツィオの選手
- ボルシア・ドルトムントの選手
- リヴァプールFCの選手
- フラムFCの選手
- FIFAワールドカップドイツ代表選手
- 1990 FIFAワールドカップ出場選手
- 1994 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAワールドカップ優勝選手
- UEFA欧州選手権ドイツ代表選手
- UEFA EURO 1992出場選手
- オリンピックサッカードイツ代表選手
- 1988年ソウルオリンピックサッカー出場選手
- サッカーのオリンピックメダリスト
- ドイツのオリンピック銅メダリスト
- ドイツのサッカー指導者
- ジルバーネス・ロールベアブラット受賞者
- バイエルン州出身の人物
- 1965年生
- 存命人物