Wikipedia:井戸端
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韓国起源説の一覧
[編集]こんにちは。他の人にもこの記事を見てもらい、感想を共有してもらいたい。私の投稿はこちら:ノート:韓国起源説の一覧#UNDUE. 私は日本語が話せないので、自分で記事を編集するのは気が引ける。現在の記事には大きな問題があると思います。--seefooddiet(会話) 2024年11月8日 (金) 07:54 (UTC) seefooddiet(会話) 2024年11月8日 (金) 07:55 (UTC)
- コメントこの記事は私にも非常に奇妙に見えるのですが、「「著名人が主張した説」または「メディアが報道した説」以上を対象とする。」「韓国国内外における、説の認知度・浸透度は問題としない。」という条件で、(おそらく特定の意図をもって)情報を集めた、キュレーションサイトのような記事というのはありなのでしょうか?「認知度・浸透度」が低い情報は掲載するべきではないと思いますし、これがありだと、いろいろと意図をもってキュレーション記事を作れそうですが、具体的にどのルールにどう引っかかっているのかわからず、出典の韓国語記事も読めないので、対応も思いつかず、記事を読んで困惑しています。参考までに、他の方のご意見を聞ければと思います。--呉野(会話) 2024年11月11日 (月) 13:11 (UTC)
- 誰かが「……の起源は韓国だ」と主張したことと、誰かが「……の起源は韓国だという起源論がある」と主張したことは区別すべきだと思います。起源論を論じるさい、前者は一次資料に当たります。出典の韓国語記事は、多くの場合そちらなのではないでしょうか。この件に限らず、ウィキペディアでは二次資料を中心に記事を構成する必要があります。--2001:240:2475:E98D:FC08:C601:8AEC:C824 2024年11月14日 (木) 09:47 (UTC)
- コメント 私もこの記事はキュレーションサイトレベルの記事であり、独立記事として維持できるのかが非常に疑わしいと思います。--さえぼー(会話) 2024年11月16日 (土) 11:21 (UTC)
- ご意見いただきありがとうございます。やはり問題がありますよね・・・。記事の問題点を整理できれば、必要な対処を行いたいと思います。この記事の親記事に当たる韓国起源説の方も相当問題含みで頭が痛いですが、こういった民族系のテーマについては、出典を学術書や論文、主要新聞に限るなどのルールがあればと思います。「英語版では即削除だ」というご意見を偶に聞きますが、どのように対応されているんでしょうね。--呉野(会話) 2024年11月16日 (土) 13:10 (UTC)
- この記事の韓国人に対する明らかな怒りと、かなりの量の独自研究は深刻な問題である。このような問題は、論議を呼ぶようなテーマでは特に容認できない。記事全体が削除されなかったとしても、このような質の低い文章はすぐにほとんどが削除されただろう。英語版ウィキペディアであれば、この記事の問題点は、作成から数日以内に、多くの人が修正に取り組み、ほとんど対処されていただろうと言っても過言ではない。私は英語版ウィキペディアで約10万件の編集を行ってきたが、これほど物議を醸すトピックで、これほどソースが稚拙で有害な記事はまだ見たことがない。
- 親記事にも重大な問題がある。明確に反韓的なソースが多数使われている。例えば、マンガ嫌韓流をソースとして何度も引用しようとしている。英語版ウィキペディアでは、このようなソースはすぐに破棄され、第三者の中立的なソースが優先される。関連記事在日認定にも同様の問題があります。--seefooddiet(会話) 2024年11月16日 (土) 20:45 (UTC)
- 報告Wikipedia:削除依頼/韓国起源説の一覧を提出しました。--呉野(会話) 2024年11月24日 (日) 12:17 (UTC)
- @呉野さん、私は最近、韓国起源説(言い換えれば、リストの親記事)に相当するenwikiで、過去に削除に成功した提案を見つけました。以下にその内容を日本語で要約します。私の要約が正確かどうか確認したい場合は、自分で投稿を機械翻訳することをお勧めします。
- 推薦者と削除に投票した人は同じような主張をしています。論拠は以下の通りです:
- ソースが十分に厳密でない。WP:SYNTHESIS/WP:ORの例が多数ある。
- 記事タイトルと記事の範囲から、すべての韓国人がこれらの説を信じていると思われるが、多くの説はフリンジであるため、記事の範囲は不適切である。
- 百科事典的と思えるほど注目すべき項目はほとんどない。多くの場合、より大きなパターンの一部として提示されている逸話の詰め合わせである。
- トピックは著しく論争的であり、質が低いため、民族主義的な不満が放映されているように感じられる。
- 世界中のほとんどの国が同じような対立を抱えているにもかかわらず、他の国の起源説に関する同様の記事はenwikiにはない。
- 2人が記事の存続を主張した。ある人は、記事には真実があると指摘した。私もこれに同意する。韓国には誤った情報を流すナショナリストや、ある物事の起源について誤解を持っている人々がいる。これは、もし大きな報道があれば、もしかしたらウィキペディアの記事に値するかもしれない。しかし、彼らは記事のほとんどがあまりにも明らかにPOVであり、受け入れられるものではないと認めている。彼らは日本語版と中国語版の記事を翻訳することを提案したが、別のユーザーはこの提案に反対した。私も反対だ。日本語版も中国語版もかなり問題がある。
- 削除案は私の気持ちとほぼ一致している。親記事を削除するかどうかは100%単純ではないし、WP:Nを冷静に調査する必要がある。しかし、削除には妥当な議論があると思う。しかし、私はこの記事がナショナリストの不満を大々的に宣伝しており、積極的に有害であることをほぼ100%確信している。
- もし私が日本語を話せたら(そしてjawikiでの評判がもっと良かったら)、低品質で有害な可能性のある書き込みのほとんどすべてを迅速に削除していただろう。私はときどきenwikiでも同じような行動を取るが、反発を受けたことはほとんどない。jawiki上でさえ、これらの記事の文章の多くは明らかに質が低いので、その多くを削除することは容易に擁護できると思う。--seefooddiet(会話) 2024年11月25日 (月) 02:51 (UTC)
- おっと。リンクするのを忘れていた。en:Wikipedia:Articles for deletion/Korea origin theory--seefooddiet(会話) 2024年11月25日 (月) 02:55 (UTC)
- 対応することになれば参考にさせていただきますね。憤りはわかりますが、英語版と日本語版では規模が大きく異なり、文化も違うので、なかなか英語版と同様にはならないものです。だから何でもいいということにはなりませんが・・・。--呉野(会話) 2024年11月26日 (火) 10:15 (UTC)
- 返信ありがとうございます。ぶっきらぼうで申し訳ない。西洋の基準から見ても、私はぶっきらぼうです。私は、日本語版ウィキペディアが英語版ウィキペディアとどのように違うのか、そしてその違いが人々にどのような害を与えるのかを思い起こさせることは、日本語版ウィキペディアにとって有益だと思うからです。
--seefooddiet(会話) 2024年11月28日 (木) 04:55 (UTC)seefooddiet(会話) 2024年11月29日 (金) 01:46 (UTC)
- 返信ありがとうございます。ぶっきらぼうで申し訳ない。西洋の基準から見ても、私はぶっきらぼうです。私は、日本語版ウィキペディアが英語版ウィキペディアとどのように違うのか、そしてその違いが人々にどのような害を与えるのかを思い起こさせることは、日本語版ウィキペディアにとって有益だと思うからです。
- 対応することになれば参考にさせていただきますね。憤りはわかりますが、英語版と日本語版では規模が大きく異なり、文化も違うので、なかなか英語版と同様にはならないものです。だから何でもいいということにはなりませんが・・・。--呉野(会話) 2024年11月26日 (火) 10:15 (UTC)
- おっと。リンクするのを忘れていた。en:Wikipedia:Articles for deletion/Korea origin theory--seefooddiet(会話) 2024年11月25日 (月) 02:55 (UTC)
- ご意見いただきありがとうございます。やはり問題がありますよね・・・。記事の問題点を整理できれば、必要な対処を行いたいと思います。この記事の親記事に当たる韓国起源説の方も相当問題含みで頭が痛いですが、こういった民族系のテーマについては、出典を学術書や論文、主要新聞に限るなどのルールがあればと思います。「英語版では即削除だ」というご意見を偶に聞きますが、どのように対応されているんでしょうね。--呉野(会話) 2024年11月16日 (土) 13:10 (UTC)
出典元サイトの内容をコピーしてTemplate:Cite Webのtitle値に入力した場合著作権侵害となるか?
[編集]特別:差分/102619807で追加された出典のタイトル部分が、出典元ページの題名ではなく内容のコピーになっています。現在は修正済みなのですが、これはWP:DP#B1に該当するのでしょうか?--AE23001(会話) 2024年11月18日 (月) 05:31 (UTC)
- ケースB1におそらく該当すると思うので版指定削除申請を行ったほうがいいかと思います。--星野ルナ(会話) 2024年11月19日 (火) 02:07 (UTC)
- ありがとうございます。すでに削除依頼が提出されていましたので賛成票を投じました。--AE23001(会話) 2024年11月21日 (木) 03:07 (UTC)
一般的にそうだとされている職業肩書きについての記述を、当該記事の対象の当人がその肩書きを望んでいないという理由で削除していいのか?
[編集]『魂(ソウル)のゆくえ』『200CD+2 BLACK MUSIC』『ピーター・バラカン音楽日記』『ピーター・バラカンのわが青春のサウンドトラック: Once Upon A Time In England... 』『テイキング・ストック ぼくがどうしても手放せない21世紀の愛聴盤』のようにソウルやロックの名盤紹介やバイヤーズガイドの著作が多数あるピーター・バラカンについて、彼を「音楽評論家」であるとWikipediaの記述しているところ
「ピーターバラカン本人が音楽評論家と呼ばれたくない」としていることをもって音楽評論家という記述を削除しようとする人がいます。(ピーター氏自身は自分はあくまで愛好家にすぎないという意識から音楽評論家という肩書きを好んでいないようです)
しかし、こういう著作を職業的にものす人物を、誰にもわかるように、ごく常識的にその職業を言い表すなら「音楽評論家」でしょう。ピーターバラカンを音楽評論家とするのは、次のような媒体もそうしています。 GQ[1]沖縄タイムズ[2]プレジデント[3]。
この場合に記事の記述対象の当人の「本人が望んでいない」という記述対象当人の自意識やこだわりを理由として、客観的には常識的にそうされるだろう、そして実際に複数媒体でそうされている「音楽評論家」という記述を削除するのは適当でしょうか?--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 03:56 (UTC)
- 当該記事のノートに書きましたが、ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまうことが問題なのですから、掲載し続けることはウィキペディアが論争に加わることになる中立性にかける行為なので、削除することは適当です。ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかという議論があることと、間違ってそのように称されることがあることは事実で、これ以上間違って広まらないように知ってもらうことは意味のあることだと考え直して、削除さずに編集しなおしました。--Kylin(会話) 2024年11月20日 (水) 04:25 (UTC)
- 「ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまう」上述のGQ、沖縄タイムズ、プレジデントはWikipediaをみて音楽評論家としたのですか?あなたの思い込みに過ぎないのではないですか?上述の著作がある人物を通常の日本語で客観的に表現するのに「音楽評論家」とするのはまったく自然ではないしょうか。各媒体もピーターバラカンの活動の実態をみて自然に「音楽評論家」と表記していると取る方がずっと素直ではないでしょうか--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 05:49 (UTC)
- こちらの議論を拝見し、「ピーター・バラカン」も拝見しました。「氏の肩書きを『ブロードキャスター』とするか『音楽評論家』とするか、または両方書くか」というよりも、「肩書きを『ブロードキャスター』とする資料もあるし、『音楽評論家』としている資料もある。しかし本人は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」ということをそのまま書いてしまえばよいと思うのですが、いかがでしょうか?
肩書きを「音楽評論家」としている資料の例は既にTravis sttokoさんが挙げているので、肩書きを「ブロードキャスター」としている例も挙げてみます。そして「本人が『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」という資料の例はこちらでしょうか。WP:TWITTERでは「一次資料を出典とすることについては慎重になった方がよいが、記事の主題の本人が発信した本人に関する内容であれば使用できる(要約)」とあります。氏のTwitter(X)での発言をもとに「ピーター・バラカン氏は音楽評論家ではない」と書くのは誤りかもしれませんが、「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」を記述するのは可能ですし、Wikipediaのガイドラインから外れていないように思います。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 06:12 (UTC) 表記ゆれを修正。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 06:16 (UTC)- 追記 下にて、Triglavさんが「2005年12月11日以前の資料があれば〜」と発言されたので少し調べてみました。
- 2005年1月17日のインタビューとされる記事で「ブロードキャスター」と明記。
- 2005年2月発売の雑誌にて「ブロードキャスター」と明記。
- 2003年12月放送の番組情報として「ブロードキャスター」と明記。
- 2004年6月の記事で「音楽評論家」と書かれていますが、ここでの書き方だと「音楽評論家」は1人目の高橋氏にのみ掛かっているとも取れそうなので微妙なところです。
- 2004年5月の記事(3ページ目)で「音楽評論家」と明記。
- おおむね雪舟さんのご意見に賛同するのですが、一点だけ「肩書」という言葉について、私も当該記事に書いてしまったことを反省しているのですが、曖昧な表現で不正確に感じるところがあり、使用を避けたほうがよろしいと考えます。--Kylin(会話) 2024年11月20日 (水) 08:40 (UTC)
- 返信 (Kylinさん宛) 確かに当方の例示した資料を見てみても、あくまでも「ピーター・バラカン(○○)」や「○○のピーター・バラカン」という表現で氏を説明しているものばかりであり、「肩書き/肩書」という語句は使われていないようですね。ご指摘いただきましてありがとうございます。下でTriglavさんが書いているような「〜とされる」程度の表現を使う方が、正確かと存じます。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 08:58 (UTC)
- 少し整理してみたらもうひとつ気になりました。「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」なんですが、ピーター。バラカンさんは音楽評論家と呼ばれることを望んでらっしゃらないし、好んでいないことはわかります。ただ、ここでそう書くべきでない理由は、本人が好んでないからではなく、ご本人がご自分を音楽評論家ではないと考えていることです。好きなことを勝手に書いているだけで、それは評論活動ではない、と考えてらっしゃるからです。「好んでいない」は誤解をうむで避けるべき表現で、ウィキペディアに掲載して広めるべき事実は、適切な表現とは思えないので考慮が必要ですが「音楽評論家と誤解されることが多い」という趣旨であると考えます。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 02:36 (UTC)
- 「好んでいない」という表現を使わないのはありだと思いますが自身がそうだと思っていないとしても第三者的にはそのように評価されている事実が複数で上がっているので「音楽評論家。ただし、(ピーター氏の思う理由を含んでもいいかもしれないにより)自身は音楽評論家ではない(誤解されている)としている。」のような記述が一番穏当な気がします。ピーター氏は「音楽評論家」という言葉の定義についての専門家ではないと思われます。(そもそも評論家の定義自体が曖昧なところもあるようですが。)なので、誤解というのもまた語弊を招くことになってしまうのでは?と考えました。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 03:11 (UTC)
- ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかは議論が残るので、誤解と断定して否定するのは適切ではない、ということわかりました。しかし「『音楽評論家』という言葉の定義についての専門家ではない」という概念を持ち込むのは、不適切だと思います。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 04:44 (UTC)
- 一番伝えたかった点は伝わったかなと思うのでその点は良かったと思います。別件、私の理解が足りずに申し訳ないのですが後学のためどのような点で不適切なのか教えていただけると助かります。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 05:17 (UTC)
- 私が申し上げたかったのは、ここで音楽評論家の定義についての議論が始まってしまったら、議論が広がりすぎて結論が遠のくのではないかという懸念がありました。「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという印象を与え結論を遠ざけると感じて、不適切と表現してしまいました。一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる音楽評論家の定義をもとに議論すれば充分だと考えています。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 04:27 (UTC)
- 回答ありがとうございます。私としても「一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる」範囲でのものでも十分と考えます。私があのコメントで言いたかったのは『「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという』ということではなく、ピーター氏本人が「音楽評論家」という言葉の定義を正しく理解しているかは分からないということでした。このあたりはWP:信頼できる情報源の「偽の権威に注意」節にあるようなスタンスでコメントしました…がどちらにしても私の伝え方の問題はあったようでその点はご迷惑をおかけしました。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 05:08 (UTC)
- こちらこそご意見いただけて私の拙い物言いを訂正でき、重ねて「音楽評論家という言葉の定義」への考察を深めるきっかけをいただき、心より感謝しております。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 05:31 (UTC)
- また安易に「言葉の定義への考察を深める」などと書いてしまいましたが、国語辞典やウィキペディアを引いただけで混乱が強まっております。
- 手元にあった大辞林第三版で「評論家」を調べたところ「①評論を職業とする人。②自らは手を下さず、意見や批評を述べるだけの人を皮肉めかして言う語。」とありました。①は問題ないイメージできる語釈ですが、②の語釈には貶める印象があることがわかりました。このような二面性がある言葉なので、使用する際には慎重になる必要があるという思いを深めました。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:01 (UTC)
- こちらこそご意見いただけて私の拙い物言いを訂正でき、重ねて「音楽評論家という言葉の定義」への考察を深めるきっかけをいただき、心より感謝しております。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 05:31 (UTC)
- 回答ありがとうございます。私としても「一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる」範囲でのものでも十分と考えます。私があのコメントで言いたかったのは『「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという』ということではなく、ピーター氏本人が「音楽評論家」という言葉の定義を正しく理解しているかは分からないということでした。このあたりはWP:信頼できる情報源の「偽の権威に注意」節にあるようなスタンスでコメントしました…がどちらにしても私の伝え方の問題はあったようでその点はご迷惑をおかけしました。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 05:08 (UTC)
- 私が申し上げたかったのは、ここで音楽評論家の定義についての議論が始まってしまったら、議論が広がりすぎて結論が遠のくのではないかという懸念がありました。「言葉の定義についての専門家」が参加しなければ結論を出せないという印象を与え結論を遠ざけると感じて、不適切と表現してしまいました。一般的な国語辞典で評論家を引いて類推できる音楽評論家の定義をもとに議論すれば充分だと考えています。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 04:27 (UTC)
- 一番伝えたかった点は伝わったかなと思うのでその点は良かったと思います。別件、私の理解が足りずに申し訳ないのですが後学のためどのような点で不適切なのか教えていただけると助かります。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 05:17 (UTC)
- ピーター・バラカンさんが音楽評論家であるかどうかは議論が残るので、誤解と断定して否定するのは適切ではない、ということわかりました。しかし「『音楽評論家』という言葉の定義についての専門家ではない」という概念を持ち込むのは、不適切だと思います。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 04:44 (UTC)
- 「好んでいない」という表現を使わないのはありだと思いますが自身がそうだと思っていないとしても第三者的にはそのように評価されている事実が複数で上がっているので「音楽評論家。ただし、(ピーター氏の思う理由を含んでもいいかもしれないにより)自身は音楽評論家ではない(誤解されている)としている。」のような記述が一番穏当な気がします。ピーター氏は「音楽評論家」という言葉の定義についての専門家ではないと思われます。(そもそも評論家の定義自体が曖昧なところもあるようですが。)なので、誤解というのもまた語弊を招くことになってしまうのでは?と考えました。--ぷにを(会話) 2024年11月21日 (木) 03:11 (UTC)
- 少し整理してみたらもうひとつ気になりました。「ピーター・バラカン氏は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」なんですが、ピーター。バラカンさんは音楽評論家と呼ばれることを望んでらっしゃらないし、好んでいないことはわかります。ただ、ここでそう書くべきでない理由は、本人が好んでないからではなく、ご本人がご自分を音楽評論家ではないと考えていることです。好きなことを勝手に書いているだけで、それは評論活動ではない、と考えてらっしゃるからです。「好んでいない」は誤解をうむで避けるべき表現で、ウィキペディアに掲載して広めるべき事実は、適切な表現とは思えないので考慮が必要ですが「音楽評論家と誤解されることが多い」という趣旨であると考えます。--Kylin(会話) 2024年11月21日 (木) 02:36 (UTC)
- 返信 (Kylinさん宛) 確かに当方の例示した資料を見てみても、あくまでも「ピーター・バラカン(○○)」や「○○のピーター・バラカン」という表現で氏を説明しているものばかりであり、「肩書き/肩書」という語句は使われていないようですね。ご指摘いただきましてありがとうございます。下でTriglavさんが書いているような「〜とされる」程度の表現を使う方が、正確かと存じます。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 08:58 (UTC)
- 追記 下にて、Triglavさんが「2005年12月11日以前の資料があれば〜」と発言されたので少し調べてみました。
- こちらの議論を拝見し、「ピーター・バラカン」も拝見しました。「氏の肩書きを『ブロードキャスター』とするか『音楽評論家』とするか、または両方書くか」というよりも、「肩書きを『ブロードキャスター』とする資料もあるし、『音楽評論家』としている資料もある。しかし本人は『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない」ということをそのまま書いてしまえばよいと思うのですが、いかがでしょうか?
- 「ウィキペディアに掲載されているからが理由で、一般にもその肩書が使われてしまう」上述のGQ、沖縄タイムズ、プレジデントはWikipediaをみて音楽評論家としたのですか?あなたの思い込みに過ぎないのではないですか?上述の著作がある人物を通常の日本語で客観的に表現するのに「音楽評論家」とするのはまったく自然ではないしょうか。各媒体もピーターバラカンの活動の実態をみて自然に「音楽評論家」と表記していると取る方がずっと素直ではないでしょうか--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 05:49 (UTC)
- タイミングが被りましたが通りすがりのコメントを残します。ピーター・バラカン氏がWikipediaのせいでそれらが広まっていると考えていることは分かりましたがプレジデントの出典は2011年の記事ですしインタビューなりなんなりした本人の言葉として記事にされているのであれば事前に
構成校閲なりで目を通したりリリース後であっても「音楽評論家」ではないと訂正なりされていればまだ…とも思います。既に複数で「音楽評論家」とされているので「音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとしている。」みたいな書き方でもいいのでは?感じました。--ぷにを(会話) 2024年11月20日 (水) 06:13 (UTC) 誤字を修正。--ぷにを(会話) 2024年11月20日 (水) 08:48 (UTC)
- タイミングが被りましたが通りすがりのコメントを残します。ピーター・バラカン氏がWikipediaのせいでそれらが広まっていると考えていることは分かりましたがプレジデントの出典は2011年の記事ですしインタビューなりなんなりした本人の言葉として記事にされているのであれば事前に
- 無出典で書き加えられた第2版(2005-12-11T03:27:03)より以前の資料を見つけることができれば文句なし。そうでなくても2024年沖縄タイムスを提示すれば(ウィキペディア的には)問題なし。Xを本人と認めてよいのであれば「~はラジオパーソナリティ。音楽評論家とされることもあるが本人は強く否定している。」あたりか? --Triglav(会話) 2024年11月20日 (水) 07:01 (UTC)
- ついでに「ブロードキャスター」ですが、ja版ではその職業で分類されていないようです(記事もありません)。曖昧さ回避ページが示すとおり、番組司会者、ニュースキャスター、ラジオパーソナリティあたりに絞るとよいでしょう(ブロードキャスターのリンク先はチェックされましたか?)。『自身の肩書に「ブロードキャスター」を用いる』としたほうがよいです。--Triglav(会話) 2024年11月20日 (水) 09:05 (UTC)
- ご意見いただいている、雪舟さん「『音楽評論家』という肩書きを使用されることを望んでいない(好んでいない)」を記述」、ぷにおさん「音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとしている。」みたいな書き方」と同意見です。ピーターバラカンの冒頭で述べたような著述家としての肩書きを、ごく素直に、自然に、一般的な日本語の使用法で表現すると「音楽評論家」です。故に実際に前述のいろいろな媒体がピーターバラカンを「音楽評論家」だとしているのでしょう。ピーター氏の自己イメージや自己プレゼンテーションが違うとかいうことは、ピーター氏の自己紹介ページではないWikipediaの記事の客観的な記述とは関係がないはずです。またピーター氏の業績の概略をあらわすときに著述家としての側面をオミットするということもありえません。したがって本人が好む表現でないからという理由で「音楽評論家」の文言じたいを削除するのもナンセンスと考えます。ただピーター氏が、そう呼ばれることを好ましく思わない事実があるなら、そのことをその通りに注記すればいい話だと思います。
- また、Triglavさんの言われる「ブロードキャスター」という表現についてもですが、ピーター氏は、「音楽評論家」の肩書きを好まないのと同じように、かなりこだわりを持って「ブロードキャスター」の呼称を使いたいようですが(その理由は「英語だとそう言うのが普通だから」ということだと思います)、この語は日本語としては全く一般的ではなく、ぱっとその単語を言われてすっと飲み込める人多くないでしょう。ピーター氏の活動実態を、日本で普通に伝わる常識的な表現にするなら「ラジオDJ・テレビパーソナリティー」でしょう。私はここも辞典の記述としては書き換えた方がいいと思います。--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 09:30 (UTC)
- どの肩書を採用すべきかという点およびその書き方について、「餅月ひまり」のような例があることを思い出したので挙げてみます。記事の冒頭で「YouTuberという表現を使用していること(バーチャルYouTuberという表現を使用していないこと)」に関する注釈が添えられています。これに倣うべきというものではなく、こういう書き方をしている記事もあるという一例としてご覧いただければ幸いです。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 09:48 (UTC)
- また、Triglavさんの言われる「ブロードキャスター」という表現についてもですが、ピーター氏は、「音楽評論家」の肩書きを好まないのと同じように、かなりこだわりを持って「ブロードキャスター」の呼称を使いたいようですが(その理由は「英語だとそう言うのが普通だから」ということだと思います)、この語は日本語としては全く一般的ではなく、ぱっとその単語を言われてすっと飲み込める人多くないでしょう。ピーター氏の活動実態を、日本で普通に伝わる常識的な表現にするなら「ラジオDJ・テレビパーソナリティー」でしょう。私はここも辞典の記述としては書き換えた方がいいと思います。--Travis sttoko(会話) 2024年11月20日 (水) 09:30 (UTC)
昨日から色々と意見などを書いてみて、ふと、以前にノート:10億円で行った議論のことを思い出しました。そちらでは「ネタ作成者」に関して「ボケ担当のメンバーの個人名」を記載するか「両者」と記載するかで意見が対立し、最終的には「単語で言い切ろうとすることで意見がまとまらないなら、文章で記述すればよいのではないか」という方向で落ち着きました。今回の件についても、取り敢えず記事冒頭に概要として記載するものは、Triglavさんが提案されている「番組司会者、ニュースキャスター、ラジオパーソナリティあたり」に絞り、「ブロードキャスター」および「音楽評論家」については記事の中で補足を交えて記述するのが良いのではないでしょうか? 「ピーター・バラカン」の特別:固定リンク/102651247の版をもとに簡単なサンプルを作成してみました。
ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身のラジオDJ、テレビ司会者[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。
(中略)
1951年、ロンドンでユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人とミャンマー人を両親に持つ母の間に生まれる。なお弟のマイケルは、後にロック・ギタリストになった。#家族の節で解説。
ロンドン大学日本語学科を卒業した後、1974年に来日。現在はフリーとして活動。日本国内のラジオ番組や、NHKワールドTVの番組『Japanology Plus』へのプレゼンター役としての出演などを続けている。
自身の活動や職業について、ピーター本人は「ブロードキャスター」という表現を用いる(ブロードキャスター (曖昧さ回避)#一般名詞も参照)。長年出演するNHKの番組情報などでも、同様の表記がされている。
また、『魂(ソウル)のゆくえ』『200CD+2 BLACK MUSIC』など、ソウルやロックの名盤紹介をする著作を多数上梓しているため、メディアによっては「音楽評論家」と紹介されることもある。しかしピーター本人は、自身のSNSにて「自分は音楽評論家ではない」と言及している。
(後略)
また、これは少々個人的な意見も入りますが、ピーター氏がWikipediaに「音楽評論家」と書かれたくないという気持ちは分からなくもないのです。何故ならピーター氏に限らず、Googleで人名などを検索すると、検索結果の右上に、画像検索の結果と共にWikipediaの冒頭文を抜粋した情報が出てくることが多いからです。Wikipediaを閲覧するつもりがなくとも、ただ検索をしただけでWikipediaで記述されていることがトップに来てしまうのなら「やめてほしいなぁ」と思う気持ちは分かります。しかし「音楽評論家」として言及・紹介しているメディアが複数あるのであれば、それを「誤解」として扱ってしまうのも何か違う気がします。それならば、記事の冒頭には日本国内で伝わりやすい名称を数個記述し、丁寧な議論や言及が必要なものについては記事の中で記述するのがよいのではないでしょうか。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 03:38 (UTC) 誤字修正。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 03:40 (UTC)
追記 念のため補足します。昨日の議論の中で、Kylinさんから「『肩書き』という表現を使わない方がよいかもしれない」という意見があり、当方も賛同しておりましたが、上記のサンプルではどうにも上手い言い回しが思い付かず「(肩書きについては〜」という表現を1か所使用しております。ご意見を無視してしまったようにも捉えられかねないと思ったため、こちらで弁明いたします。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 04:12 (UTC)
- 一行目の「ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身のラジオDJ、テレビ司会者[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。」この行に音楽評論家(注記して本人はその呼び方を好んでいない)といれた方がいいと思います。入れないとむしろおかしいです。ピーターバラカンはラジオDJが余技で音楽評論をやっていると言う訳ではなく、音楽関係の著述が彼の業績の大きな柱ですから。(元々新潮文庫ででて新装版がでている「ソウルのゆくえ」という著作は、日本人のブラックミュージック受容に重大な役割を果たしたといっていいものです。また彼がdjのラジオののBARAKAN BEATやウィークエンドサンシャインは、そもそも信頼できる音楽評論家バラカンの選曲が聴きたいというニーズで成り立ってるはずです)前に述べましたが、「音楽評論家」と言う肩書きを避けたいばっかりに、記述からオミットするのは辞典の作成上本末転倒です。きちんと「本人が望んでいない」と注記する訳ですから記述を避ける理由はないはずです。--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 08:11 (UTC)
- 返信 (Travis sttokoさん宛) おそらくそのご意見については、Travis sttokoさんと当方とで意見がかち合ってしまうように思います。当方としては「『音楽評論家』という表現を使うメディアが多数あるのは事実であり、それを記述しないのは良くないと思う。しかし、記事内できちんと触れているのであれば、冒頭で触れる必要はないと思う」という考えです。そのため、「(『ブロードキャスター』も含めた)「その他の肩書き」は後述する」とサンプルの中で示しました。『「音楽評論家」と言う肩書きを避けたいばっかりに』とおっしゃっていますが、当方としては、記事の中で触れているのであれば「避けてはいない」と思っております。但し当方は音楽関係に明るくないのは事実であり、浅学ながらこの議論を見るまでピーター氏のことを存じ上げていなかったのも事実です。そして門外漢ながら、氏を「音楽評論家である」と言い切らずとも、「音楽評論に関する書籍などを多数上梓している。そのため『音楽評論家』と紹介されることもある」と表現すれば、氏の活動や功績を偽りなく伝えられることは可能であると考えます。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 08:38 (UTC)
- 辞書の記述としてどうあるのがいいのか?何に重みづけがされるべきか内容をきちんと考慮して記載しないと本末転倒になると考えています。ピーターバラカンとは何者か?ということに直截に答えるならば(本人が好まずとも)音楽評論の著述が第一なはずです。直截に書かれるべきことが一行目にあらわれていないのは変です。ラジオDJが余技で音楽評論をやっているのではなく、音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはずです。ピーターバラカンが音楽評論家なのは本人がその呼称を好まなくとも、実際に30年読み継がれる音楽評論の名著(ソウルのゆくえ)を書いている以上客観的には動かしようがない話のはずです。--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 09:18 (UTC)
- 返信 (Travis sttokoさん宛) うーん、Travis sttokoさんが「冒頭で記載すべき」と考えていることはよく分かりましたが、当方としてはやはり「記事内で触れていれば無理に冒頭で記載せずとも足りる」という考えに今は揺らぎはありません。Wikipediaは百科事典なので、辞書のように見出し語に対する説明は短文にまとめなきゃいけない訳でもないですし。これについては他の方の意見も聞いて判断したいです。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 09:52 (UTC)
- 辞書の記述としてどうあるのがいいのか?何に重みづけがされるべきか内容をきちんと考慮して記載しないと本末転倒になると考えています。ピーターバラカンとは何者か?ということに直截に答えるならば(本人が好まずとも)音楽評論の著述が第一なはずです。直截に書かれるべきことが一行目にあらわれていないのは変です。ラジオDJが余技で音楽評論をやっているのではなく、音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはずです。ピーターバラカンが音楽評論家なのは本人がその呼称を好まなくとも、実際に30年読み継がれる音楽評論の名著(ソウルのゆくえ)を書いている以上客観的には動かしようがない話のはずです。--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 09:18 (UTC)
返信 (雪舟さん宛) 私の言葉たらずからでしょうがうまく伝わっていないようなので例えを使って説明しなおします。Wikipediaの村上春樹の記事をみてみるとの冒頭一行の紹介は「村上春樹は日本の小説家・翻訳家。」ですが、これが仮に「村上春樹は日本の翻訳家・エッセイスト。」と書き直されたとして、記事の下の方の文章で小説家としての著作が挙げられていることから「記事内で触れていれば無理に冒頭で記載せずとも足りる」で通るでしょうか?通らないはずです。そう言うレベルで根本的に重みづけがおかしいのです。「音楽評論家」の肩書が外れて「テレビ司会者」が載っているのは率直に言って滅茶苦茶なのです。
下の「人物」も重みづけもやはり変です。『Japanology Plus』のようなマイナーな事柄の固有名が挙げられて、音楽関係の長寿番組のラジオ放送の名前が挙げられておられず、本丸のはずの評論活動もオマケみたいに記載してあるのは重みがおかしいです。ピーターバラカンとはそもそも何者か?は第一義的には「書籍やラジオDJを通じた良質なな音楽の紹介者」です。私案(試案)ですがこうされるべきです。
ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951年8月20日 - )は、イギリス出身の音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)、ラジオDJ[注釈 1](肩書きについては#人物も参照)。
1951年、ロンドンでユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人とミャンマー人を両親に持つ母の間に生まれる。ロンドン大学日本語学科を卒業した後、1974年に来日して音楽出版社や音楽マネジメント会社の社員として働いた後、独立した。
ゴスペルやブルースから80年代まで(新装版ではネオ・ソウルまで)のアメリカのブラックミュージックの通史を示して時代・ジャンルごとの代表盤を紹介した『魂(ソウル)のゆくえ』の著者。ブラックミュージック、ロック、ジャズ、ワールドミュージックのレコード・CDを紹介する著作を多数執筆している。(このことから「音楽評論家」とされることが多い。しかし本人は、自身のSNSにて「自分は音楽評論家ではない」と言及している。)
1980年代に洋楽のミュージックビデオを放映するテレビ番組「ポッパーズMTV」の司会者として一般に名前を知られるようになった。「BARAKAN BEAT 」、「ウィークエンドサンシャイン」など、自ら選曲した楽曲を放送するラジオ番組のDJとして知られる。CBSドキュメントの司会のように音楽関係以外の放送の仕事もある。
自身の職業について、ピーター本人は「ブロードキャスター」という表現を用いる(ブロードキャスター (曖昧さ回避)#一般名詞も参照)。長年出演するNHKの番組情報などでも、同様の表記がされている。
(後略)
--Travis sttoko(会話) 2024年11月21日 (木) 20:00 (UTC)
- 注釈用Template追加。--雪舟(会話) 2024年11月21日 (木) 21:37 (UTC)
- 返信 (Travis sttokoさん宛) 丁寧にご説明いただきありがとうございます。村上春樹氏の例を挙げていただいたことで、Travis sttokoさんの考えがより理解できたように思います。また、当方が提示したサンプルの「人物」節の内容についても、ご指摘ありがとうございます。当方のサンプルについては、ピーター氏や音楽分野に明るくない人間が、既存の記事や皆さんの意見を切り貼りしてそれとなく形にしたものなので、色々と正確でない点もあるだろうなとも思っておりましたが、やはりおかしなところがあったのですね。しかし一部の表現など当方のサンプルを活かしていただいた箇所も見受けられ、その点についてもお礼申し上げます。
ただ、ひとつ前のコメントにて「他の方の意見も聞いて判断したい」と申し上げた通り、Travis sttokoさん以外の方の意見も聞いてから判断したいというのが当方の気持ちです。と言うのも、この人物や分野に明るくないからこそ、Travis sttokoさんがおっしゃっている「音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはず」という発言が、「はず」という語句を使われていることもあり、Travis sttokoさん以外の方もそう思われるようなものなのか判別が付かないからです。せっかく丁寧なサンプルを再提示していただいたこともあり、最初にTravis sttokoさんと議論されていたKylinさんも含め、他の方の意見も待ちたいです。--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 00:09 (UTC)- ピーター・バラカンさんのウィキペディアの記事をお読みいただいて、過去の出演番組の時期と著書の出版年月をご確認いただければ、「音楽評論家の仕事の幅が広がってDJをやっているというのが実際なはず」と考えるのは無理があることは御理解いただけるかと思います。雪舟さんの案をもとに議論を続けることを支持します。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 03:06 (UTC)
- 一つ強調させてください。ピーターバラカンが音楽評論家であることについては、改めてですが、GQは、紹介文として「1951年、イギリス生まれの音楽評論家、ラジオDJ。…』とはじめています。沖縄タイムスは記事のタイトルに「音楽評論家ピーター・バラカンさん 80年代から現在までの音楽シーン解説 10月3・4日 沖縄市・プラザハウス創業70周年企画」としています。プレジデントのネット記事も「ブロードキャスター・音楽評論家 ピーター・バラカンさん」というタイトルです。これらの媒体がピーター・バラカンを一言であらわすなら「音楽評論家」だとしているのは間違いありません。
- ピータバラカンについてちょっと検索すれば、ピーターバラカンを「音楽評論家」としているページは次々と出てきます。(これらは個人ブログではありません。ご確認ください。)
- 「親子の日」の公式サイト
- https://oyako.org/project/talk-live-vol13/
- 尚美学園大学
- https://www.shobi-u.ac.jp/cms/wp-content/uploads/2014/07/21962be75fd5f8bd329c589d062f619e.pdf
- タワーレコード(CDジャーナル転載)
- https://tower.jp/artist/821039?srsltid=AfmBOorqYBCNJNsDudzrOt3APDnPoGiqqlro-erSsU4y9TkLIBpOldqh
- 山口情報芸術センター
- https://www.ycam.jp/archive/profile/peter-barakan/
- CDジャーナル
- https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
- シンタックスジャパン
- https://synthax.jp/tl_files/newsletter/140718/
- Wikipediaのピーターバラカンの記事ノートでも「「ブロードキャスター」なる自称の肩書きについて」でおむねぬ氏は「バラカン氏が音楽評論活動を行っていることは明白であり」音楽評論家の肩書を使うべきだと主張されています。
- ピーターバラカンが紹介される時に通常「音楽評論家」とされることは全く間違いなく、そうされないとおかしいレベルの話です。私が一人で意固地に独自説を唱えていると受け取られているとしたら大変に不本意なので、そうではないことを強調しておきます。--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 06:11 (UTC)
- 一つ強調させてください。ピーターバラカンが音楽評論家であることについては、改めてですが、GQは、紹介文として「1951年、イギリス生まれの音楽評論家、ラジオDJ。…』とはじめています。沖縄タイムスは記事のタイトルに「音楽評論家ピーター・バラカンさん 80年代から現在までの音楽シーン解説 10月3・4日 沖縄市・プラザハウス創業70周年企画」としています。プレジデントのネット記事も「ブロードキャスター・音楽評論家 ピーター・バラカンさん」というタイトルです。これらの媒体がピーター・バラカンを一言であらわすなら「音楽評論家」だとしているのは間違いありません。
- あとWikipediaの記事を見て時系列で…とかいう(申し訳ないですが)あまりにおかしな論証はやめませんか?ピーターバラカンは1980年代のころから他の評論家に混じってミュージックマガジンのクロスレビューを執筆しています。
- http://musicmagazine.jp/published/mmex-201010cr.html
- 単著にならない音楽評論の執筆業なんていくらでもあるわけです。(一般にならない場合のほうが多いでしょう)--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 06:26 (UTC)
- こちらの人物紹介をみるに執筆活動もラジオ出演も同時期に開始したことになっているのでどっちが早いと話しても建設的な議論にならないのかなと思うので改めてどうあるべきかを熱を入れずに調整する方がいいのかなと思いました。個人的な意見では「パーソナリティ、音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとし、ブロードキャスターであるとしている。」(それぞれに適宜出典付。)くらいに記述されていれば大体わかるのかなと思っています。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:17 (UTC)
- こちらの投稿を拝見する前に行き違いに下の投稿を返信して失礼しました。私も時期にこだわることは建設的ではないと思っています。ただ私は雪舟さんの案を支持していて、「音楽評論家。」と書くことは避けるべきだと考えていることは申し添えておきます。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:22 (UTC)
- 何度も申し上げているつもりなのですが、ピーター・バラカンさんを音楽評論家を書いている事例を紹介されていても、それはピーター・バラカンさんが音楽評論家であると断定する理由にはならず、紹介されているという事実をあらわしているにすぎません。ピーターさんの発言を引用すると「ぼく音楽評論家ではありません。限られた音楽を趣味で聞いているだけです。そして紹介するのは勝手な好き嫌いだけが尺度です。それを評論と呼んではいけないと思います[4]とあります。もちろんこの発言があるからピーター・バラカンさんは音楽評論家ではないと断定することはできませんが、この発言に対して反論して納得できる議論を踏まえずに音楽評論家と決めつけることは、個人的見解であり、公平性が保たれた事実とは言えないです。
- もういちど書きます。ピーター・バラカンさんが音楽評論家と紹介されていることを理由に音楽評論家であると断定するのは Travis sttoko さんの個人的見解です。ピーター・バラカンさんが音楽を評論する仕事をしていることを客観的にご説明ください。
- Travis sttokoさんが独自説を唱えてるとは受け止めておりませんのでご安心ください。(申し訳ないですが)言葉を選ばずに申し上げますと、広く流布された俗説を事実だと断定して意固地に主張されていると受け止めております。ウィキペディが俗説を事実として広めることは不適切なので、ピーター・バラカンさんを音楽評論家だと断定的に書くことに反対します。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 07:34 (UTC)
- 音楽評論家として複数であげられているのは検証可能ですし、個人の見解とするのは流石に暴論ではないかと…。本人が否定していることも検証可能です。並べて書いておけばそのように扱われるが本人が否定しているという点が十分伝わると思うのですよね。WP:検証可能性でいうところの『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』を考えれば本人が否定していても出典を用いて客観的に書かれていることになるのではないでしょうか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:55 (UTC)
- 「自分は音楽評論家ではなくて、音楽を評論していない人」のことを、音楽評論家と呼びたいのならば、せめて音楽を評論している事実を提示してください、というのが暴論なんですか? 「音楽評論家」の言葉の定義が曖昧であれば、使用することに慎重になるべきで、使用例が多いから事実であると断定するほうが暴力的であると感じます。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:14 (UTC)
- 逆にどれだけ音楽を評論している事実が連なっても「音楽評論家」とどこにも書かれていなければ検証可能性を満たせず記載することができないと考えます。我々がするべきことはこれだけ音楽評論しているのだから音楽評論家だと判断することではなく出典でにそう書かれているから音楽評論家だと記載することです。そういう意味で出典に書かれていることを記載することを個人の見解としてしまったら何をもって検証可能であるとすればいいのかとなってしまいませんか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 08:21 (UTC)
- もうしわけございませんが、私は「これだけ音楽評論しているのだから」が事実とは言えないと考えているので議論が噛み合いません。音楽評論だと言って書いてるものではないものを音楽評論であると主張するには客観的な理由が必要ですよね? と最初から申し上げているつもりなのですが、私の拙い言葉でご理解を妨げて申し訳ございません。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:26 (UTC)
- まだるっこしい表現になってて誤解を招きそうなので、改善を試みます。
- 本人が音楽評論ではないと言っている文章を、「音楽評論である」と主張されるのであれば、客観的理由が必要ですよね?
- 付け加えるならば、「そうだと言ってる人が多い」「みんながそう言っている」は「そうである」客観的理由にはならないですよね。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:43 (UTC)
- うーん。本人がそうだと主張しているだけの内容を本人の主張のみを元に「〇〇である」とするのは逆にダメなんじゃないかなと考えています。あくまで「出典」でどのように扱われているかで判断するべきです。「みんながそう言っている」ではなく「出典A、B、Cでそう言われている」からそのように書くだけなんですよ。逆に本人の否定だけで記事に記載できるかどうかが変わってしまうなら主題に対するマイナスな内容が書ける記事を探す方が難しいのではないでしょうか?(国会議員の先生方には疑惑がついて回りますが、疑惑を持たれている、本人は否定しているなんて記述はよくありますよね?)規模や内容は違いますけど本人が否定している内容の記載という点だけで言えば同じようなものではないかと…。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 10:11 (UTC)
- 本人がそうだと主張しているから私がそう主張していると思われている事が、私からしたら勘違いなんです。雪舟さんへのコメントとして私の主張をいったんまとめたんですが、この件を追記したのでそこだけここにも投稿します。
- 本人が書いて欲しくないという理由でウィキペディアから削除できない、というのは重々承知しております。しかし、本人が書いて欲しくないことを書くには相当の理由が必要であると私は考えています。紹介事例が多数あることからは、それが事実だと(本人の意志に反して)書く理由とはならず、「紹介事例が多数ある、本人は否定している」という事実を記載すれば充分だと思います。
- その他に理由があるなら教えて下さいという趣旨で音楽評論家の定義にまつわる話を持ち出したせいで、議論が進まないのでしょうか?--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 11:09 (UTC)
- うーん。本人がそうだと主張しているだけの内容を本人の主張のみを元に「〇〇である」とするのは逆にダメなんじゃないかなと考えています。あくまで「出典」でどのように扱われているかで判断するべきです。「みんながそう言っている」ではなく「出典A、B、Cでそう言われている」からそのように書くだけなんですよ。逆に本人の否定だけで記事に記載できるかどうかが変わってしまうなら主題に対するマイナスな内容が書ける記事を探す方が難しいのではないでしょうか?(国会議員の先生方には疑惑がついて回りますが、疑惑を持たれている、本人は否定しているなんて記述はよくありますよね?)規模や内容は違いますけど本人が否定している内容の記載という点だけで言えば同じようなものではないかと…。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 10:11 (UTC)
- もうしわけございませんが、私は「これだけ音楽評論しているのだから」が事実とは言えないと考えているので議論が噛み合いません。音楽評論だと言って書いてるものではないものを音楽評論であると主張するには客観的な理由が必要ですよね? と最初から申し上げているつもりなのですが、私の拙い言葉でご理解を妨げて申し訳ございません。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:26 (UTC)
- 逆にどれだけ音楽を評論している事実が連なっても「音楽評論家」とどこにも書かれていなければ検証可能性を満たせず記載することができないと考えます。我々がするべきことはこれだけ音楽評論しているのだから音楽評論家だと判断することではなく出典でにそう書かれているから音楽評論家だと記載することです。そういう意味で出典に書かれていることを記載することを個人の見解としてしまったら何をもって検証可能であるとすればいいのかとなってしまいませんか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 08:21 (UTC)
- 「自分は音楽評論家ではなくて、音楽を評論していない人」のことを、音楽評論家と呼びたいのならば、せめて音楽を評論している事実を提示してください、というのが暴論なんですか? 「音楽評論家」の言葉の定義が曖昧であれば、使用することに慎重になるべきで、使用例が多いから事実であると断定するほうが暴力的であると感じます。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 08:14 (UTC)
- 音楽評論家として複数であげられているのは検証可能ですし、個人の見解とするのは流石に暴論ではないかと…。本人が否定していることも検証可能です。並べて書いておけばそのように扱われるが本人が否定しているという点が十分伝わると思うのですよね。WP:検証可能性でいうところの『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』を考えれば本人が否定していても出典を用いて客観的に書かれていることになるのではないでしょうか?--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:55 (UTC)
- こちらの人物紹介をみるに執筆活動もラジオ出演も同時期に開始したことになっているのでどっちが早いと話しても建設的な議論にならないのかなと思うので改めてどうあるべきかを熱を入れずに調整する方がいいのかなと思いました。個人的な意見では「パーソナリティ、音楽評論家。ただし、本人は音楽評論家ではないとし、ブロードキャスターであるとしている。」(それぞれに適宜出典付。)くらいに記述されていれば大体わかるのかなと思っています。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 07:17 (UTC)
- 私は、ピーター・バラカンを音楽評論家だとする事例が、これだけあればピーター・バラカンが音楽評論家であると一般に社会的に(すなわち客観的に)されている。したがって音楽評論家であるとはっきりと確実に断定できると思いますよ。
- https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
- これを典拠に私は音楽評論家としるすつもりですが、Wikipediaの「検証可能性」を十二分にクリアすると考えます。
- そういう形式的なことだけでなく、ピーターバラカンがやっている仕事の中身実質を見ても、他の者がやっていれば何の疑いもなく明白に音楽評論家とされるものです。
- そしてピーターバラカン本人が自分は音楽評論家ではないといっていることは、「ピーターバラカンはそう主張している」だけであって、音楽評論家でないという根拠には特にならない(社会的コンセンサスに反対する者が一名みつかっただけ)という見解は上のほうでぷにをさんが言っておられたことを支持します。
- 何をもって「ピータバラカンが音楽評論家でないかもしれない」とお疑いになっているのか率直に全くわかりません。
- また、生身の人間について記事にするわけですから、そのことに配慮はひつようですが、「社会的には評論家とされているが、本人は好んでいない」ことも明確に記すわけですから、何も問題は生じないと思います--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 08:25 (UTC)
- ( すみませんちょっと無粋な指摘なのですが……「ぷにを」さんの名前をずっと間違えて打っているようなのでいかがなものかなと……。ぷにをさんの会話ページを見るに同様の間違いをされている事例は何度かあったようなので、Travis sttokoさんに限ったことではないのでしょうけれど、気になったもので……)--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 08:32 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。ぷにをさま。大変失礼しました。--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 08:39 (UTC)
- 「他の方の意見も待ちたい」と言った手前、皆さんがたくさん議論を交わしているのを受けて現状の自分の意見を書いてみます。正直なところ、未だに「音楽評論家である」と記載せずとも「音楽評論家と説明されることもある」と書けば足りるのではないかという気持ちにあまり揺らぎはありませんが、Travis sttokoさんやぷにをさんのおっしゃる意見も否定できないと感じています。
その上で更に申し上げると、当方はやはりどうしても「Wikipediaを見るつもりが無くとも、Google検索をすればWikipediaの冒頭文が出てくる」という点が気になっております。これに関して「Wikipedia外のことまで気を回してたらキリがない」という指摘もあって然るべきだとも思っているので、当方の意見が議論の邪魔になるようであれば無視していただいて構いません。
そして無視されてもよいという前提で述べるならば、仮にTravis sttokoさんのサンプルを採用するとして、「音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)」を脚注を付ける場合に、ではなく、
とすることは可能なのでしょうか? と言うのも、他の人名などで検索して調べてみたところ、どうやらGoogle検索で出てくる冒頭文には「脚注が付いていること」が反映されず(ワードを拾うシステムの仕様でしょうか)、「音楽評論家」と「(ただし本人は〜」の間に脚注が挟まると、補足情報が正しく拾われない可能性が高いと感じたからです。
しかし改めて申し上げますが、このような危惧は議論に不要だと思われても仕方ないと思っておりますので、「そこまで考慮する必要はない」というご意見がありましたらそれに従うつもりです。一意見としてお目通しいただけたら幸いです。--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 09:03 (UTC) - Travis sttokoさん、お気になさらず。だいぶ間違われることにも慣れてきたのと、間違われやすい名前なんだなということをWikipediaで発見した楽しさを味わっています。--ぷにを(会話) 2024年11月22日 (金) 10:16 (UTC)
- 「他の方の意見も待ちたい」と言った手前、皆さんがたくさん議論を交わしているのを受けて現状の自分の意見を書いてみます。正直なところ、未だに「音楽評論家である」と記載せずとも「音楽評論家と説明されることもある」と書けば足りるのではないかという気持ちにあまり揺らぎはありませんが、Travis sttokoさんやぷにをさんのおっしゃる意見も否定できないと感じています。
- 議論が逆戻りしていて当惑しています。「好まない」はワガママで好き嫌い言ってるような印象になるから違うと考えます。もとの断定しない表現で何がいけなかったのでしょう?--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 09:56 (UTC)
- 返信 (Kylinさん宛) もしも「当惑」の理由が当方のコメントでしたら申し訳ありません。ひとつ上のコメントで当方が例示した中で「好まない」という表現を使用しているのは、あくまでもTravis sttokoさんのサンプルから引用してきたためであり、脚注位置についての考えを示したいというのが本意です(そしてこの「引用してきたため」という発言について、Travis sttokoさんのサンプルを悪く言うような意図はないことを弁明しておきます)。当方としては「書く/書かない」の二極論ではなくどうにか中間辺りで落としどころを見付けられないかと色々と書いてみてるつもりなのですが、Kylinさんを含めなんだか皆さんを困らせてしまっているようで申し訳ない限りです。--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 10:37 (UTC) 誤字修正。--雪舟(会話) 2024年11月23日 (土) 14:07 (UTC)
- 雪舟さん、私の勘違いだったことがわかって一安心しました。自分の頭を冷やすために主張をまとめてみました。長文になってしまいましたがご一読いただけたら幸いです。
- 私は「ピータ・バラカンさんは音楽評論家ではない」と考えております。その理由は本人が繰り返しそう主張していることと、「音楽評論家としての業績が提示されていない」からです。
- 世に「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」という意見もあることと、音楽評論家と紹介されている事例が多数あることは承知しております。
- ですが、音楽評論家として紹介されていたとしても、音楽評論をしている実績ではないので、音楽評論家であると断定する理由にはなりませんし、本人は機会があれば抗議しています。
- 音楽を紹介したり、音楽にまつわる著書を多数あっても、本人が評論ではないといってるものを評論と断じるにも理由が必要です。
- ご本人が「音楽評論家」と紹介されることに困っていて、その理由にウィキペディアにそう書いてるからとされています。ウィキペディアにピーター・バラカンは音楽評論家であると書き続けることは、ピーター・バラカンは音楽評論家であるか否かという議論に加担することになり、それはウィキペディアの求められる中立性に欠けることになります。ウィキペディアに書かれていなくても「音楽評論家」として紹介し続けられるから問題はない、と考えたとしても、「ピーター・バラカンは音楽評論家であるか否かという議論に加担した中立性に欠く行為であることには変わりはないので、避けるべき問題行動です。
- 本人が書いて欲しくないという理由でウィキペディアから削除できない、というのは重々承知しております。しかし、本人が書いて欲しくないことを書くには相当の理由が必要であると私は考えています。紹介事例が多数あることからは、それが事実だと(本人の意志に反して)書く理由とはならず、「紹介事例が多数ある、本人は否定している」という事実を記載すれば充分だと思います。
- その他に理由があるなら教えて下さいという趣旨で音楽評論家の定義にまつわる話を持ち出したせいで、議論が進まないのでしょうか?
- 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」と断定せず、紹介例が多数あるが本人は音楽評論家ではないとしているという趣旨の説明にすべきだと考えます。
- 念の為に申し添えますが、「私がピーター・バラカンさんは音楽評論家ではないと認識しているのでウィキペディアにこう書くべき」とは全く考えておりません。議論の余地があって、断じて書くことに危険性があることを、安易に断じるかたちで書かないでくれ、議論しましょうということであります。--Kylin(会話) 2024年11月22日 (金) 11:19 (UTC)
- 独自研究は載せないを見返してきました。
- 「つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」とあります。
- 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」と判断されている方は、「ピーター・バラカン 音楽評論家」のように紹介されている記事を出典とすることで、それを証明できるとお考えになっています。私には、その記事は「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているとは思えません。ですので「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」という意見を事実としてウィキペディアに掲載することは不適切と主張します。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 10:27 (UTC)
- 少し噛み砕いて書いてみます。
- 「音楽評論家のピーター・バラカンさんと紹介されている」事例は、「紹介されている事実」しか確認できません。「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にした言論を出典として確認できたことはありません。「ピーター・バラカンは音楽評論家である」とウィキペディアに書きたい方は、検証可能な形でご提示ください。
- このことを例えとしてあえて言うならば「ピーター・バラカンは音楽家であるというのは俗説である」「みんなが言ってるから正しいと同じではないか」という趣旨の発言をしました。ですので、俗説ではない、みんなが言ってる程度の話ではないとおっしゃられても「検証可能な出典がないですよね?」という疑問に答えていただけなければ、反論になっていません。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 11:40 (UTC)
- 検証可能性と中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。
- 「ピーター・バラカンは音楽評論家である」ということを事実であることを確認できるかどうか、一例としてGoogle検索で「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を検索してみました。10頁まで検索結果を眺めてリンク先までは確認していませんが、タイトルとサムネイルで「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を主題とし説明しているリンク先は見つけられませんでした。逆に一番目の検索結果に『|なぜピーター・バラカンは自らを「評論家ではない」と語るのか?』[[1]]があったので、ジャーナリストでもないと主張していることを知ることができました。ちなみに冒頭の強調スニペットにはウィキペディアの記事からの定義が紹介されています。
- もちろん、検索結果には音楽評論家のピーター・バラカンさんのように紹介されているに紹介されている記事などもありますが、重ねて申し上げますがそれらは「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているわけではありませんので、これをして「ピーター・バラカンは音楽評論家である」という事実を示す根拠にはなりません。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 11:07 (UTC)
- 中立的な観点#中立的な観点とは
- ここに「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」とあります。
- その下の方にある「意見を事実として記さない」から少し長いですが引用します。
- 『通常、記事はその記述対象について表された重要な意見を情報として含みます。しかし、その意見をウィキペディアの見解として述べてはいけません。それよりはむしろ、その意見が特定の情報源に帰することを文中に記すか、あるいは十分な根拠を示せる場合には、広く認められている意見として記述されるべきです。たとえば、記事中で「大量虐殺は悪行である」と記述してはいけませんが、「某氏は、大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と記述することはできます。』
- このことからピーター・バラカンさんを「音楽評論家」と断じて記述するべきではなく、メディアで紹介されている、本人は否定している、という趣旨で記述する方がよいと考えます。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 11:27 (UTC)
- 自分自身の記事
- 「あなたが個人的に関わっていることがらについて記事を書くときには、あなたは、いつも以上に注意を払い、あるいはそれを控えなければなりません。」
- と書いてあります。「本人発言を採用するべきではない」というルールがあるようには見受けられせん。
- 「ピーター・バラカンさんは自分は音楽評論家ではない」と繰り返し発言されているので、検証可能な出典があります。本人の発言ですので取り扱いに慎重になるのはもっともですが、「ピーター・バラカンの職業は音楽評論家であるか否か」という事実であり、本人が考えてるだけではない、仕事をするときの肩書として使用していないことは検証可能な事実ですので、退ける理由はありません。
- ひるがえって「音楽評論家のピーター・バラカンさん」と紹介されている例も検証可能な出典があります。ですが、「ピーター・バラカンさんはこのような理由で音楽評論家である」と説明している例は、(今のところ)ありません。
- 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家ではある」と断言するのは、検証可能な出典のない独自研究ですので、記事の主題である本人の意志とは関係なく、掲載すべきではありません。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 12:40 (UTC)
- 返信 (Kylinさん宛) もしも「当惑」の理由が当方のコメントでしたら申し訳ありません。ひとつ上のコメントで当方が例示した中で「好まない」という表現を使用しているのは、あくまでもTravis sttokoさんのサンプルから引用してきたためであり、脚注位置についての考えを示したいというのが本意です(そしてこの「引用してきたため」という発言について、Travis sttokoさんのサンプルを悪く言うような意図はないことを弁明しておきます)。当方としては「書く/書かない」の二極論ではなくどうにか中間辺りで落としどころを見付けられないかと色々と書いてみてるつもりなのですが、Kylinさんを含めなんだか皆さんを困らせてしまっているようで申し訳ない限りです。--雪舟(会話) 2024年11月22日 (金) 10:37 (UTC) 誤字修正。--雪舟(会話) 2024年11月23日 (土) 14:07 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。ぷにをさま。大変失礼しました。--Travis sttoko(会話) 2024年11月22日 (金) 08:39 (UTC)
- 返信 ( Kylinさん宛) ロジックがおかしいというか、話が色々と逆なのではないでしょうか?
- > 紹介事例が多数あることからは、それが事実だと(本人の意志に反して)書く理由とはならず、「紹介事例が多数ある、本人は否定している」という事実を記載すれば充分だと思います。
- とおっしゃいますが、出典が多数あるということは「ピーターバラカンは音楽評論家である」が、検証可能性のある事実である、ということを裏付けており、Wikipediaの考え方では、「事実として書く理由とはならず」ではなく「事実として書く理由となる」です。話が逆です。「書く理由とはならず」というのは、Kylinさん独自のお考えにすぎず、他の執筆者が従うべきものではないと考えます。
- また、Kylinさんは「紹介事例が多数ある」ことを、少し前のご発言でも「広く流布された俗説」などともおっしゃっていましたが、Wikipediaの編集上、あなたはどういうお立場や権能で、出典を「俗説」と判断して切り捨てることができるのでしょうか?
- 出典に基づいて「ピーターバラカンは音楽評論家である」と検証可能な事実をストレートに書こうとするところ、そうではなく「紹介例が多数あるが」と書くべきだとおっしゃいますが、「そう書くべきだ」とおっしゃることは要するに、Kylinさんの独断で、「これらは俗説であり出典たりない、事実を裏付けない、と自分が判断したので、その通りに取り扱うべきだ」とおっしゃいることに他なりません。到底受け入れ難いご意見です。
- これはKylinさんが「ピーターバラカンは音楽評論家でない」という自身の持論・特定の観点に肩入れして、その目的に沿うように恣意的に出典を選別排除していることであり、論争に加わることではないでしょうか?
- 逆に、私は「ピーターバラカンは音楽評論家である」という検証可能な事実に対して「ピーターバラカンは音楽評論家でないと本人が主張している」という別の事実も公平にはっきりとわかる形で書こうとみずから主張しています。Kylinさんが私を論争に加わっている、中立性に反しているなどと難じられるなら非常に心外です。話が逆です。論争に加わって中立性にに反しているのはKylinさんです。
- Wikipediaの方針に沿って議論を整理するとこうなります。なお、お願いがあるのですが「(検証可能な)事実」とか「中立性」とか「論争に加わる」ということはWikipediaの用語であり、用語の概念や意味はWikipediaのガイドラインが定めているので、今後はそうした用語を使って議論する場合、ガイドラインに則ってお使いいただけないでしょうか?そうしないと議論が無駄に混乱します。--Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 06:11 (UTC)
- 申し訳ございませんが、何をおっしゃってるのか総意がつかめません。これから読み深めさせていただきたいと思うのでお時間をいただきたいところですが、目についた疑問をひとつ質問させていただきます。
- 「論争に加わって中立性にに反しているのはKylinさんです。」は、何を行っているのでしょうか? 私は「ウィキペディアが論争に参加してはいけない」にもとづいて意見を言ったことはありますが、誰かがこの議論に参加することが間違っていると思ったことはないので、何をおっしゃってるのかわかりません。
- そしてもうひとつ「議論が無駄に混乱」することを避けるために、私からも Travis sttoko さんにお願いしたいことがあります。「はずです」とお考えになったり発言することを控えていただけませんでしょうか? 現在のこのページを検索してみたら「はずです」とお書きになっているのは Travis sttoko さんだけで、他には 「Travis sttokoさん以外の方もそう思われるようなものなのか判別が付かない」ことの説明のための引用と、私がその意見を否定するために引用しているだけです。「はず」と書かれると、事実であるよりも個人的見解と受け止められますし、思い違いがないか検証する必要が生じ、議論が無駄に混乱します。よろしくお願いいたします。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 08:53 (UTC)
- Wikipediaの方針に沿って議論を整理するとこうなります。なお、お願いがあるのですが「(検証可能な)事実」とか「中立性」とか「論争に加わる」ということはWikipediaの用語であり、用語の概念や意味はWikipediaのガイドラインが定めているので、今後はそうした用語を使って議論する場合、ガイドラインに則ってお使いいただけないでしょうか?そうしないと議論が無駄に混乱します。--Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 06:11 (UTC)
- 「ウィキペディアが論争に参加してはいけない」「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」ということの意味は、Wikipedia編集者であるあなたが、出典に対して「この出典は俗説だから採用できない」などとジャッジしてはいけないということです。あなたがジャッジするなら、それがすなわち「ウィキペディアが論争に参加する」ことです。ですので、それはやめてくださいと申し上げています。ご理解ください
- なお「はず」は言葉のあやで別になくても文意は一切変わらないため編集して外しました。--Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 09:32 (UTC)
- 読み解いてる途中ですが、明らかな誤解と思われる箇所があったので説明させていただきます。
- 「Kylinさんが私を論争に加わっている、中立性に反しているなどと難じられるなら非常に心外です。」とのことですが、そのように難じていることはありませんのでご安心ください。ウィキペディア"""が"""論争に加わることがないようにするにはどうすればいいか、についての話で、このノート上の議論に誰かが加わってはいけないなどという話はしておりません。中立性に関しても、意見が中立性に欠けているという話はあっても、Travis sttokoさんが人として中立性に反しているかどうかなど考えたこともないし書いたつもりもありません。ご安心ください。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 13:05 (UTC)
- 返信 ( Kylinさん宛)
- 私もそんな話は全くしておりません。Wikipediaの中立的な観点の方針について、それに反しているのは私ではなくあなただという話をしております。以下にKylinさんの投稿に返答差し上げる形でそのことを記していますので、「③ 中立的な観点、論争に加わること」をご覧ください。--Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 21:11 (UTC)
- 「Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 06:11 (UTC)[返信]」へのご返答と判断しご発言の記載場所をここに転載したご了承ください。転載されたご意見に直下でこのご意見に返答いたしします。--Travis sttoko(会話) 2024年11月24日 (日) 00:03 (UTC)
- 独自研究は載せないを見返してきました。
- 「つまり、ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。」とあります。
- 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」と判断されている方は、「ピーター・バラカン 音楽評論家」のように紹介されている記事を出典とすることで、それを証明できるとお考えになっています。私には、その記事は「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているとは思えません。ですので「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」という意見を事実としてウィキペディアに掲載することは不適切と主張します。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 10:27 (UTC)
- 少し噛み砕いて書いてみます。
- 「音楽評論家のピーター・バラカンさんと紹介されている」事例は、「紹介されている事実」しか確認できません。「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にした言論を出典として確認できたことはありません。「ピーター・バラカンは音楽評論家である」とウィキペディアに書きたい方は、検証可能な形でご提示ください。
- このことを例えとしてあえて言うならば「ピーター・バラカンは音楽家であるというのは俗説である」「みんなが言ってるから正しいと同じではないか」という趣旨の発言をしました。ですので、俗説ではない、みんなが言ってる程度の話ではないとおっしゃられても「検証可能な出典がないですよね?」という疑問に答えていただけなければ、反論になっていません。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 11:40 (UTC)
- 検証可能性と中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。
- 「ピーター・バラカンは音楽評論家である」ということを事実であることを確認できるかどうか、一例としてGoogle検索で「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を検索してみました。10頁まで検索結果を眺めてリンク先までは確認していませんが、タイトルとサムネイルで「ピーター・バラカンは音楽評論家である」を主題とし説明しているリンク先は見つけられませんでした。逆に一番目の検索結果に『|なぜピーター・バラカンは自らを「評論家ではない」と語るのか?』[[2]]があったので、ジャーナリストでもないと主張していることを知ることができました。ちなみに冒頭の強調スニペットにはウィキペディアの記事からの定義が紹介されています。
- もちろん、検索結果には音楽評論家のピーター・バラカンさんのように紹介されているに紹介されている記事などもありますが、重ねて申し上げますがそれらは「ピーター・バラカンさんは音楽評論家である」ことを主題にしているわけではありませんので、これをして「ピーター・バラカンは音楽評論家である」という事実を示す根拠にはなりません。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 11:07 (UTC)
- 中立的な観点#中立的な観点とは
- ここに「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」とあります。
- その下の方にある「意見を事実として記さない」から少し長いですが引用します。
- 『通常、記事はその記述対象について表された重要な意見を情報として含みます。しかし、その意見をウィキペディアの見解として述べてはいけません。それよりはむしろ、その意見が特定の情報源に帰することを文中に記すか、あるいは十分な根拠を示せる場合には、広く認められている意見として記述されるべきです。たとえば、記事中で「大量虐殺は悪行である」と記述してはいけませんが、「某氏は、大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と記述することはできます。』
- このことからピーター・バラカンさんを「音楽評論家」と断じて記述するべきではなく、メディアで紹介されている、本人は否定している、という趣旨で記述する方がよいと考えます。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 11:27 (UTC)
- 自分自身の記事
- 「あなたが個人的に関わっていることがらについて記事を書くときには、あなたは、いつも以上に注意を払い、あるいはそれを控えなければなりません。」
- と書いてあります。「本人発言を採用するべきではない」というルールがあるようには見受けられせん。
- 「ピーター・バラカンさんは自分は音楽評論家ではない」と繰り返し発言されているので、検証可能な出典があります。本人の発言ですので取り扱いに慎重になるのはもっともですが、「ピーター・バラカンの職業は音楽評論家であるか否か」という事実であり、本人が考えてるだけではない、仕事をするときの肩書として使用していないことは検証可能な事実ですので、退ける理由はありません。
- ひるがえって「音楽評論家のピーター・バラカンさん」と紹介されている例も検証可能な出典があります。ですが、「ピーター・バラカンさんはこのような理由で音楽評論家である」と説明している例は、(今のところ)ありません。
- 「ピーター・バラカンさんは音楽評論家ではある」と断言するのは、検証可能な出典のない独自研究ですので、記事の主題である本人の意志とは関係なく、掲載すべきではありません。--Kylin(会話) 2024年11月23日 (土) 12:40 (UTC)
o|会話]]) 2024年11月24日 (日) 11:43 (UTC)
- 返信 ( Kylinさん宛)
- CDジャーナルのピーターバラカンのプロフィールです。すでに申し上げた通り、これを出典にしようと考えています。
- https://artist.cdjournal.com/a/peter-barakan/870338
- 1951年8月20日、ユダヤ系ポーランド人の父とイギリス人とミャンマー人のハーフである母との間に生まれる。イギリス・ロンドン出身の音楽評論家/ラジオDJ。(以下略)
- ①独自研究について
- 「信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」ということについてですが、ピーターバラカンの記事を書くときの「その記事の主題」は、当然に、ピーター・バラカンです。ピーター・バラカンのプロフィールは、当然に、ピータバラカンに関連して発表されています。
- ② 検証可能性
- 上述のCDジャーナルのピーターバラカンのプロフィールは、誰でも閲覧できるものであり誰でも検証可能な出典です。
- ③ 中立的な観点、論争に加わること
- 「ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。」ということについてですが、私は、「ピーターバラカンが音楽評論家であるかどうか」ということについて、出典に記載されている全くその通りにストレートに「ピーターバラカンは音楽評論家である。」とします、また再三申し上げたとおり、反対の観点としてピーター・バラカンの「自分は音楽評論家ではない」との考えもストレートに記述します。2つの観点を両方記述するだけで他に何も付しません。私はどちらの観点が正しいとも間違いだともいいません。2つの観点があるということを記述するだけです。すなわち論争に加わっておりません。
- 一方、Kylinさんは「この出典にはそう書いてあるが、ピーターバラカンが音楽評論家であることは間違いである」とお書きになりたいようですが、それは、「ピーターバラカンが音楽評論家であるかどうか」 についての正否の見解の1つが間違いであるとのあなたの見解を記事執筆に反映させるということです。それが論争に加わっているということです。論争を記述しているのは私です。論争に加わっているのはあなたです。
- ④自分自身の記事
- この論点に関しては私は何もあなたに反対意見は申し上げておりません。ピーター・バラカンの「自分は音楽評論家ではない」との考えはきちんと記述すると繰り返し申し上げています--Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 21:29 (UTC)
- 返信 ( Kylinさん宛)
- あと苦言を呈させてください。「検証可能性と中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。」とのことですが、(検証可能な)事実や中立的な観点の論点を持ち出してきたのはKylinさんです。論点のWikipediaの方針は議論を始める前に熟読されているべきです。何で泥縄式にこれから熟読するのでしょうか?非常に不誠実です。率直に申し上げて真面目に議論している私は大変不快に感じました。
- 上で簡潔にあなたのご意見に返答しておりますが、あなたのご意見を読んで、率直に申せば、あなたがガイドラインを全然理解していないと言わざるをえません。「「検証可能性と中立的な観点は熟読できていません」ならそうなるのも当然かもしれませんが、あなたの不誠実な議論姿勢ご態度を知った上で、私はこの後も時間をさいてあなたとお話し合いをする必要が本当にあるのかも、率直に疑問を抱かざるをえません。
- Triglavさん、雪舟さん、ぷにをさんからは、正否の両論併記の上で音楽評論家と記述することに、支持ないし、許容の旨を頂いているようですが、あなたとまだお話し合いを続ける必要がるのでしょうか?--Travis sttoko(会話) 2024年11月23日 (土) 21:47 (UTC)
- Kylinさん宛ですが…。「検証可能性と中立的な観点は熟読できていませんが目を通してきました。」は流石にいただけません。よく読んで理解してください。そのうえでそれらの方針に反しない範囲で記述についての調整であれば話し合いにもなりますがルールを理解していないけど変更したいでは議論のしようもありません。ちゃんと理解するまで読み込んだうえで再提案していただけますか?--ぷにを(会話) 2024年11月24日 (日) 03:12 (UTC)
- Travis sttokoさんへの直接の返信を避けて、私の意見を書き並べたところは、Travis sttokoさんの発言の趣旨を理解が難しいので、整理する意味で書いたもので、誰か個人への反論ではありませんし、他の方の意見をふまえたものも含まれています。返答と判断されたのは Travis sttoko さんの勘違いであることをご了承ください。
- > 私もそんな話は全くしておりません。
- こちらの返信いただいた私の投稿は、Travis sttoko さんのお言葉に答える形で書いているので、「そんな話」が何のことを指すのかわからなくて混乱するのですが、わからないということを記すだけにとどめます。
- > Wikipediaの中立的な観点の方針について、それに反しているのは私ではなくあなただという話をしております。
- 私が申し上げているのは「ウィキペディアに記述しようとする内容が中立性に欠けていないか?」という話で、Travis sttokoさんの人格や意見が中立性に欠けているという話をしているつもりはありません。意見から導かれる記述しようとする内容が中立性に欠けているという議論はあったかと思いますが、それを意見を言う態度のことを言ってるわけではありません。よって、私が中立性に欠けているとおっしゃられても、Travis sttokoさんのお言葉を借りれば「私もそんな話は全くしておりません。」と言い得るかと思います。お互いにそんな話をしているつもりがないことに反論しあっても意味がありませんし、「誰が中立性に欠けているかという話」は議論に必要なことではありませんのでここまでにして、ウィキペディの「ピーター・バラカン」に編集しようとする記述の内容自体の中立性について議論していただけませんでしょうか?
- 冒頭で書きました通り、自分自身の記事についての意見は、Travis sttokoさんに向けた返信ではありません。「この論点に関しては私は何もあなたに反対意見は申し上げておりません。」と言われても、何か私がTravis sttokoさんがおっしゃられていない反対意見を、さもあったことのように書いたと受け取られるところがありましたか? と心配になります。私はこれからも印象操作にならないよう注意深くWikipedia:礼儀を忘れない態度で議論を続けるつもりですが、甚だしく逸脱していると思わるところがあったらご指摘いただければ幸いです。--Kylin(会話) 2024年11月24日 (日) 11:07 (UTC)
- 返信 ( Kylinさん宛)
- Wikipediaの方針ガイドラインを熟読されて理解された上で私の発言を読み直してください。私の発言をあなたが理解できないのは私が一貫してWikipediaの方針ガイドラインに沿って話しているところ、一方のあなたがその方針ガイドラインをまったく理解していないことに起因しています。
- 議論の流れがわかるように適切な場所にご発言を移動しておりますことご了承ください。--Travis sttoko(会話) 2024年11月24日 (日) 12:23 (UTC)
- 雪舟さんへの返信として、皆さんの合意を許容することを表明しました。今回の話し合いはこの返信までとさせていただきます。
- 私が熟読していないと書いたのは、謙遜を含めて完全に理解しているとは言えませんが目は通しているので、ガイドラインに沿って書くように心懸けます、ということを表明したつもりだったのですが、ガイドラインをまったく理解せずに書こうとする失礼な行為だと受け止められる可能性を教えていただきありがとうございました。
- Travis sttokoさんがおっしゃる「Wikipediaの方針ガイドライン」は方針とガイドラインのことを指していると解釈してよろしいでしょうか? 「方針ガイドライン」と間違っている方が、方針とガイドラインを熟読して理解していらっしゃるのでしょうか? 単なるタイプミスだとしても礼儀を忘れないの冒頭にある「礼儀を忘れず、丁寧にふるまうこと」に則している行為と言えるのでしょうか?
- 私のことを指して「あなたがその方針ガイドラインをまったく理解していない」とお書きになるような発言をなさることも礼儀を忘れないに則しているとは思えず、方針とガイドラインを熟読されて理解されて発言してらっしゃるとは思えませんでした。だからと言って「まったく理解していない」とは思っておりませんし、Travis sttokoさんの言説は信用できないからと放置したつもりもありませんのでご安心ください。Travis sttokoさんの行動がガイドラインに反しているところがあるのに、私はまったく理解していないと決めつけて熟読と理解を求めるのは、どういうロジックなのだろう、と不思議でなりませんでした。返信できていないところは、未だに理解が難しくて返信できなかったのと、合意を許容したのでこれ以上の返信はしないほうがいいと判断したからですので、悪しからず。
- 今回の私の返信が礼儀を忘れないのガイドラインから逸脱していることが懸念されますが、今までの疑問を疑問として表明するのに必要でしたのでご容赦ください。形式的に疑問を書いていますが、お返事を求めているわけではございませんのでご遠慮ください。
- ありがとうございました。--Kylin(会話) 2024年11月24日 (日) 15:21 (UTC)
- 申し上げにくいのですが、そもそも本人発言を採用するべきではない、といいますか完璧な記事は有力な第三者の情報だけで作られるもので、本人から提示された資料は完璧ではない記事を補足するためのおまけでしかありません。とは言っても、ここは柔軟性豊かなウィキペディアですので、「貴重なご意見ありがとうございます」でそれ以降一歩も動かない報道各社よりは、本人寄りに立ってもよい気はしています。
- 下の節に逃がすのもよいアイデアだと思いますが、「定義」に関することなので冒頭で書くべきかと。
- 単語「音楽」と「評論家」で分離して、「音楽評論家」を使わずに問題の存在を示す。
- 将来この問題を解説する第三者が現れたらそれを使って下の節で詳細に記述する。
- こんな感じでいかがでしょうか?
- 「~は、定義1、定義2・・・定義n。音楽愛好家であり、評論家と紹介<ref>新聞社</ref>されることを激しく嫌う<ref>Xサイト</ref>。」
- これで「音楽評論家」を採用するメディアがあれば、それはもうウィキペディアのせいじゃないわ。--Triglav(会話) 2024年11月23日 (土) 03:27 (UTC)
Kylinさん、ご返信ありがとうございます(改めて勘違いさせるような書き方をしたことをお詫びします)。丁寧にお考えを書いていただいた文章も拝見しました。
そしてKylinさんや他の方の意見を読んだ上で、改めて、自分なりの考えを書いてみます。まず言うと、当方は今も「『音楽評論家である』と記事冒頭に書くこと」については素直に頷けない立場です。何故ならば、過去に「裏付けとなる資料をもとに書き込まれた情報について、主題の人物のプライバシーへの配慮や、その本人からの意向を受けて記述しないことにした(記述の仕方を工夫した)」という事例を複数件見たことがあるからです。以下に例示します。
- ノート:難聴うさぎ - (個人情報に関わることのためノートを参照)
- ノート:江口寿史 - (同上)
- 餅月ひまり - 「バーチャルYouTuber」として紹介する資料もあるが、運営会社の意向を踏まえて、根拠となる資料を添えた上で「YouTuber」と記述。ノート:餅月ひまりも参照。
更に、(資料の有無に関わらず)Wikipediaへの書き込みにより、主題人物に明確な不利益が生じ、本人がそれを「何とかして欲しい」と訴えた例も見たことがあります。
- webメディア「KAI-YOU」掲載記事 - 誹謗中傷ではないものの、Wikipediaにある記述によって不利益が生じていると本人が訴えた末に、それでも「信頼できる出典があるから」と対処されず一時泣き寝入りするしかなかった例
- Wikipedia:削除依頼/大橋大記 20231015 - いたずら編集により主題の人物に対する虚偽の情報が書き込まれ、すぐに除去されたもののいたずら編集された版の内容が検索エンジンに拾われてしまった例
これらを知っているからこそ、いくらWikipediaでのルールに反さず、更に誹謗中傷でない内容であったとしても、本人が「書かないで欲しい」と訴えていることを冒頭に書くべきなのか(いやそんなことはないのではないか)と思わずにはいられないのです。それ故に当方は自分なりのサンプルを提示し、Triglavさんの言葉を借りるなら「下の節に逃がす」という形にし、「『音楽評論家』と紹介されることも多い」という表現を使うのはどうだろうかと提案しました。
当方としては、決められたルールに則りつつ、ルール違反にならない範囲で、記事ごとに少し例外的な措置を取る必要がある局面もあると考えております。例えば、当方やぷにをさんも参加したノート:にじさんじでは、外部リンク節について「外部リンクはひとつで十分(WP:ELMIN)」を考慮しつつも、色々な事情などを踏まえて数件リンクは残すということになりました。Wikipediaにはそれこそ星の数ほどの記事があり、それぞれの題材ごとにそれぞれの事情があって然るべきです。ルールに従うならばピーター氏を「音楽評論家である」と記述することは間違いではないのかもしれません。しかし、存命人物の訴えを無視してまで、そこまで杓子定規にならなければならないのでしょうか。第三者にとって、「音楽評論家」と「音楽評論家と紹介されることが多い人」はそれほど大きな違いがあるようには思えません(後者の説明を見て「つまりこの人は音楽評論家なんだな」と受け取る人も居るでしょう)。しかし前者を嫌う当人にとっては明確な違いがあります。であればこの記事に限っては後者のような表現をすることは間違いなのでしょうか。またTriglavさんのお言葉を借りるなら、「柔軟性豊かなウィキペディア」なのであれば、そういう対応も可能なのではないかと考えます。
しかし、「音楽評論家(しかし本人は否定している)。」というような丸括弧の補足を添えることが、でき得る範囲での「柔軟な対応」なのだと考える人が多いのならば、当方は「うーん」と思いつつも折れざるを得ないのかもしれないとも思っています。先日も書いたように、Travis sttokoさんやぷにをさんの考えは無視できないと思っておりますし、新たにTriglavさんがされたコメントについても同様で、「そこまでWikipedia側が気を揉む必要は無い」と言われてしまえばそれまでなのかもしれません。こちらとしても編集妨害をしたい訳ではなく、いつまでも納得しないに該当するつもりもないですし、そのような行為がしたい訳でもありません。もしも丸括弧補足付きの文言を冒頭に記載するという流れになったのであれば、せめて脚注を付ける位置だけどうにか工夫できないかなぁという意見も改めて提示しておきます。--雪舟(会話) 2024年11月23日 (土) 14:07 (UTC)
- 餅月ひまり方式で「ブロードキャスター。(音楽評論家として紹介されることも多いが本人は否定している。)」のような記述でもいいですが音楽評論家と呼ばれていること自体を載せないのは流石に無理かなと思います。少なくともご自身が校閲できそうな出典でも音楽評論家として書かれているようにも見受けられますし、その点では餅月ひまりの件の方が切り分けしやすいだろうなと感じました。別件、ピーター氏本人がXで呟いた内容についてどこまでこちらで意識を汲まなければいけないのでしょうか?本人または事務所などからWikipediaに直接の苦情がきているならまだしもいつ消えるか分からないSNSの1つのつぶやきに気を使いすぎかなとも思います。これは、問題のある編集者がWikipedia外で騒いだところで外でやる分には好きにすればいいじゃないと対応しないのと同じようなものかなとも考えています。--ぷにを(会話) 2024年11月24日 (日) 03:26 (UTC)
- 冒頭文に「イギリス出身の音楽評論家 (ただし本人は肩書を「音楽評論家」とされることを好まない)ラジオDJ」と本人の意思をきちんとわかる形で明瞭に記して配慮して、それでも取り除かれない実害が本当にあるのか?私はあるとはとても評価できないです。
- ・そもそもWikipediaとか関係なしに音楽評論家としてオーソライズされている。(Wikipediaは後から追っかけているだけ)
- ・これと表裏一体だが仕事内容をみたら普通ならそれを音楽評論家とするだろうということ。
- ・肩書きをどうするか?を本人がグリップできそうなところですら音楽評論家の肩書きが普通に使われている。
- ・本人が自分は評論家ではないとするインタビューから受ける心証(たいして困ってないのでは?という印象を受ける)
- ピーター:よく「評論家」とも言われるんですけど、自分では一度も名乗ったことがないです。評論家っていうのは、何でも聴く人で、それを客観的に分析して、伝える人。それも大事な役割ですけど、僕は一切そういうことはしていません。自分の興味のあるものしか聴かないし、好きなものしか紹介しない。そんなの評論家と呼んじゃいけない。僕は音楽ファンの延長線上でこの仕事をしてるんです。「甘い」と言われるかもしれないけど、仕事がある間は甘えさせていただきます(笑)。
- https://www.cinra.net/article/interview-201710-peterbarakan
- ・またここでピーター氏が「私はこれこれ故に評論家じゃない」という「これこれ」は、音楽評論家ってそういうのじゃない?というピーター氏の評論家の定義が明らかに変という問題
- など
- 「いつ消えるか分からないSNSの1つのつぶやきに気を使いすぎかなとも思います」このご意見に完全に同意します。--Travis sttoko(会話) 2024年11月24日 (日) 05:31 (UTC)
- 当方のコメントに繋がる形でお二方からコメントを頂いておりますが、既に当方の意見および言いたいことは書き尽くしてしまったかと思いますし、Travis sttokoさんがKylinさんへの返信で書いた「許容」というのが現状の当方のスタンスであるように思います。自身で「例外的な措置」という表現を使ったように、今回の件に於ける当方の考えはWikipediaのルール等から少し外れたものであるということも自覚しており、これ以上それを主張しても「いつまでも納得しない」に抵触するおそれが高くなるだけかなと。コメントを頂いた上で無言なのも無視しているようで不誠実かと思いましたので、一旦「もう言い尽くしてしまったのでコメントを控える」という旨を書かせていただきます。--雪舟(会話) 2024年11月24日 (日) 06:41 (UTC)
- 私は中立的な観点#深刻な論争がある主張を事実として記さないにある、
- ある問題について異なる信頼できる情報源の間で主張に衝突が生じている場合には、それらの主張については事実ではなく意見として扱い、その主張自体を文中で直接記述することはしないでください。
- という方針で、「音楽評論家。」と断言して書くことはしないでくださいと意見していたつもりですが、これは深刻な論争ではないから配慮する必要はないと考えられて、ご賛同いただけなかったのですね。
- ウィキペディアに「ピータ・バラカン 音楽評論家。」と書いてあることによって、今後も「音楽評論家。」として紹介され続けて、それが「ピータ・バラカン 音楽評論家。」と書くことの正当性を担保することになる、というのがウィキペディアが論争に加わることになって、ウィキペディアの方針に反している、という私の意見が、論争に加わっているのは Kylin だからと否定されても何をどう反論されているのか未だにわかりません。この件に関しての反論をうかがいたかったのですが、そもそも「ピーター・バラカンは音楽評論家である」は議論の余地がない事実である、という意見を変えるつもりがないので、私の反対意見は受け入れられないし反論する必要もない、ということなのであろうことと判断できました。
- 論ずる必要がなかったという結論で議論を終了するのは心残りですが、いつまでも納得しない悪意のある編集者だと誤解されるのは本意ではありません。この議論は一旦終了し、皆さんの合意を許容したいと思います。
- 私の「音楽評論家と紹介されている例が多い」という趣旨にとどめて「音楽評論家。」と断言してはいけない、という意見が採用されないのは残念ですが、括弧付きではあれ「本人は否定している」という趣旨で記述すること、「好んでない、望んでない、嫌がっている」などの表現を使わないこと、という許容できうる合意が得られたことで、話し合いが全くの無駄ではなかったことに安堵します。--Kylin(会話) 2024年11月24日 (日) 13:44 (UTC)
返信 ( Kylinさん宛)
Kylin氏は、私が方針やガイドラインを読まずその内容も理解せずに、方針ガイドラインの用語を用いて議論しているのは不誠実であると強く抗議し、このままでは議論できないとお伝えし、ぷにをさんもやはり苦言を呈され、方針を熟読理解するよう要請されたところ
その後、投稿の内容から、方針を理解しているとは思えない内容の投稿を何も悪びれず再開したため、方針の理解を要請したところ、私が礼儀を忘れないガイドライン違反だなどといいだされ私を非難しました。
受忍できる理不尽さを超えたため、Kylin氏の議論姿勢についてコメント依頼を提出しました。
Wikipedia:コメント依頼/Kylin --Travis sttoko(会話) 2024年11月25日 (月) 09:39 (UTC)
- こちらのコメント依頼を拝見して以来、何をコメントすればいいのか考えながら下書きを書いては消してを繰り返すばかりで、発言が遅くなったことをお詫びいたします。いまも、どこまで書けばいいは悩みはつきませんが、事態を解決するために一つの提案をさせていただきます。
- ・このコメント依頼の依頼内容とコメント依頼での発言は「個人攻撃」にあたるので、コメント依頼を終わらせてください。
- ウィキペディアのガイドラインにあるWikipedia:個人攻撃はしない#個人攻撃への対処法を規範としてこのお願いをしております。ガイドラインのこの部分は文末に引用します。
- 誰が個人攻撃をしているか、何が個人攻撃にあたるかという議論は、ウィキペディアの記事についての議論を阻害することになり、記事についての議論に優先して話し合う必要はないと考えます。この井戸端での議論とコメント依頼についての「個人攻撃」をやめていただければ、個人攻撃に関する議論は終わりにしたいと思います。
- 念の為に補足しますがTravis stttokoさんに「個人攻撃の意思があったか」はまったく問題にしておりません。書かれた内容が個人攻撃かどうかが問題です。
- 個人攻撃することに正当性があったかどうかも問題にしていません。このコメント依頼の主題は「氏の議論姿勢についてその悪質さの程度について理解したいためコメント依頼します。」です。たとえ私の議論姿勢が悪質であるとしても、Travis sttokoさんによる「個人攻撃」が許されることはありません。
- ガイドラインでは個人攻撃が止まない場合は、「コメント依頼などで解決を図ってください」とありますが、コメント依頼合戦になることは避けたいと思います。今回のコメント依頼の被依頼者コメントに、個人攻撃発言の具体的な例を書くことで、個人攻撃を止めていただけるようお願いを続けたいと考えております。
- > 個人攻撃への対処法{[3]]
- 個人攻撃をされた場合は、された利用者あるいはそれを発見した利用者が、まず攻撃者に対してそのことを伝え、個人攻撃の停止を求めましょう。この時、利用者の会話ページに{{subst:attack}}と警告文を貼って警告してもよいでしょう。
- それでも個人攻撃が止まない場合には、コメント依頼などで解決を図ってください。逆に、個人攻撃の意志がなくとも個人攻撃であると指摘された場合には、速やかにそれらの発言を停止するか、コメント依頼などで客観的な判断を求めるなどして解決を図ってください。
- また、議論が個人的なものになりかけてきたらその場を外部のサイトまたは e-mail に移しましょう。論争の党派が罵倒やその他の不快な言葉の応酬を始めたら、ウィキペディアに不快なものをさらすよりも、外部のサイトで行うか、私的な e-mail で討議を行った方がよいでしょう。これは議論を外部サイトや e-mail で行うべきだといっているわけではありません。なぜなら、ほとんどの議論は真に多くの人の役に立つものだからです。
- 中身のある議論はその場で続ければよいですし、不快な個人的な感情は、私的な場所で好きなだけ、両人の間で議論してください。
- 以上です、よろしくお願いいたします。2024年11月28日 (木) 09:26 (UTC)--Kylin(会話) 2024年11月28日 (木) 09:47 (UTC)
- Kylinさま
- 利用者‐会話:Kylinに返信しております。--Travis sttoko(会話) 2024年11月28日 (木) 20:52 (UTC)
出典
[編集]脚注
- ^ https://www.gqjapan.jp/tag/peter-barakan
- ^ https://c.okinawatimes.co.jp/index.html?kijiid=OTPK20240929A001700010L242004
- ^ https://president.jp/articles/-/2692?page=1
- ^ https://x.com/pbarakan/status/1811746048559448075
- ^ a b 音楽評論家であることの根拠となる資料
- ^ a b ピーター氏が「音楽評論家ではない」と言及している資料
- コメント 便宜的に節内(サブページ内)の出典をひろうため、専用のテンプレート Template:Reflist-talkを使用します。--Lingualatin(会話) 2024年11月20日 (水) 04:14 (UTC)
- {{Reflist-talk}}の前に「:」がある(おそらく返信ツールの使用により自動挿入された)ことで表示不具合が起きていたため、行頭の「:」をコメントアウトしました。--雪舟(会話) 2024年11月20日 (水) 05:22 (UTC)
botについて
[編集]ホーピィと申します。節の題のようにいつかbotを使用できればなと思っている者です。私がわからない本当に簡単な質問かもしれないのですが、botアカウントを作成したら、未承認botと勝手になるのでしょうか?それとも、なにか手段をすればbotになるものなのでしょうか?どうぞよろしくお願いします。--
- しっかりとWikipedia:botやWikipedia:Bot/使用申請などは読んだ上です。私がわからなかっただけなのでしたら大変申し訳無いです。--
ホーピィ (会話) 2024年11月23日 (土) 06:59 (UTC)- 「Botになる」の意味がよくわからないのですが、「Botの運用ができる状態になる」ということでしょうか。もちろんBotアカウントを作成しただけでは何も起きないので、①Botとして動作するプログラムを導入する ②Botの動作対象、動作範囲、動作頻度などを設定する ③Bot使用申請を行う(ただし申請しなくても運用可能な条件あり)、といった段取りが必要です(Wikipedia:botに書いてある通りです)。--ホーリーブライト(会話) 2024年11月24日 (日) 22:33 (UTC)
- 了解です--
ホーピィ (会話) 2024年11月25日 (月) 01:16 (UTC)
- 了解です--
- 「Botになる」の意味がよくわからないのですが、「Botの運用ができる状態になる」ということでしょうか。もちろんBotアカウントを作成しただけでは何も起きないので、①Botとして動作するプログラムを導入する ②Botの動作対象、動作範囲、動作頻度などを設定する ③Bot使用申請を行う(ただし申請しなくても運用可能な条件あり)、といった段取りが必要です(Wikipedia:botに書いてある通りです)。--ホーリーブライト(会話) 2024年11月24日 (日) 22:33 (UTC)
姉妹プロジェクトを含めたアカウントのブロックにつきまして
[編集]Wikipedia:投稿ブロック依頼/Ninijyoで無期限ブロックになったNinijyoさんなのですが、投稿ブロック依頼のノートにKokage siさんからこのようなリンクが提示されておりまして(d:Special:Contributions/Ninijyo)、 現在Wikidataで問題を起こしている事が確認できました。編集内容としては、独自研究や差別的な内容、同義語ではなく類語・関連語(おそらくgoo辞典で類語・関連語に表示されている言葉)を追加しており、注意しましたが編集は止まりません。私の方で直せるものは直しましたが、新規編集者では編集できない項目もあるため、問題が放置されているものもあります。
グローバルアカウント情報を確認したところ、以前にcommonsの方でも問題を起こしていたので[4]、姉妹プロジェクトを含め投稿ブロックした方がいいと思うのですが、この場合どうしたらいいのでしょうか?Wikidataでのブロックはもちろん必要なのですが、ブロックされれば別の姉妹プロジェクトで問題を起こす可能性が大きいと懸念しています。--呉野(会話) 2024年11月25日 (月) 13:54 (UTC)
- 返信 (@呉野さん宛) Wikidata:AnがWikidataの管理者伝言板になっているので、そこで利用者の行動について報告できます。ですが……当該の利用者の行動については破壊を行っているような明確は荒らしとは違う、虚偽情報の記載の方の荒らしなのでどこがどう問題なのかを事細かく報告する必要があるかと思います。 USSR-Slav (talk) 2024年11月25日 (月) 14:14 (UTC)
- ウィキ間で荒らしを行なっている場合はGlobal Lockを依頼できますが、明らかな荒らしでないなら、Global Banが必要かもしれません。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年11月25日 (月) 15:05 (UTC)
- 返信 (USSR-Slavさん宛) 、 返信 (FlatLanguageさん宛) 、教えていただき大変ありがとうございます。Ninijyoさんの奇妙な編集のどこがどう駄目か、英語で説明するのは難しそうですが、なんとかやってみます。--呉野(会話) 2024年11月26日 (火) 10:03 (UTC)
- 私の理解では、荒らし行為ではないのなら、グローバルロックもグローバルバンも申請できません。グローバルバンはグローバルロックよりさらに重度の懲罰ですから、明らかな荒らしでないなら、明らかに適用できません。--185.242.6.126 2024年11月27日 (水) 21:59 (UTC) Open Proxy使用者による暴言を除去。--ホーリーブライト(会話) 2024年11月28日 (木) 04:25 (UTC)
- 一般論として方針の存在を挙げただけなので、NinijyoさんがGlobal Banに当たるかは知りませんが、mw:Global bansには “A global ban is not a form of punishment” とあり、“No global ban is required for uncontroversial cases of cross-wiki vandalism or spam” ともあり、185.242.6.126さんの主張は誤りだと思います。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年11月28日 (木) 00:08 (UTC)
- ウィキ間で荒らしを行なっている場合はGlobal Lockを依頼できますが、明らかな荒らしでないなら、Global Banが必要かもしれません。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年11月25日 (月) 15:05 (UTC)
報告 遅くなりましたが、Wikidataの管理者伝言板に報告しました。日本語版ウィキペディアで無期限ブロックされたことは反省していないし、相変わらず奇妙な日本語で、感情論に終始しており(User_talk:Ninijyo)、編集を止める気はなさそうですが、英語話者が編集の問題を認識できるかは微妙に思われるので、ブロックされるかは五分五分な気がします。もっときちんと説明できればよかったのですが、問題点が微妙すぎてうまく英語で説明できず・・・。できることはしたので、いったん様子見といたします。--呉野(会話) 2024年12月10日 (火) 11:20 (UTC)
- Ninijyoさんはウィキデータでも無期限ブロックとなりました。呉野さん、ご対応ありがとうございました。日本語版ウィキペディアでブロック解除された場合には、ご連絡くださいとのことです。--Kokage si(会話) 2024年12月15日 (日) 01:52 (UTC)
- お知らせいただきありがとうございます。なんといいますか、全然変わっていらっしゃらなかったですね。これ以上この方の対応がないことを願いますが、グローバルブロックにはなっていないので、不安ではあります。--呉野(会話) 2024年12月15日 (日) 03:09 (UTC)
ジバニャンでのIPユーザーによる編集について
[編集]ジバニャン (2024-12-03T05:11Zの版)にてIP利用者 IP:240D:1E:1EA:2900:BDCA:1FA3:BB41:2614(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)が大幅な追記をしていますが、内容が全て妖怪ウォッチの登場キャラクター (2024-12-03T05:11Zの版)からのカット・アンド・ペーストのようです。編集の要約欄にも何も書かれていない状況ですが、あいにくWikiに参加したばかりの者で、対処法がわかりません。どなたか対応していただけないでしょうか。--0141ココア(会話) 2024年12月3日 (火) 05:32 (UTC)
- 撤回 他の方が対応してくれたようです。失礼しました。--0141ココア(会話) 2024年12月3日 (火) 05:37 (UTC)
「大衆向けの情報ではない」という理由での記述除去について
[編集]特別:投稿記録/219.100.98.120を参照いただきたいのですが、「大衆向けの情報ではない」という理由で記述の除去が行われています。実際の編集は特別:差分/102838724のようなもので、生物の和名のうちあまり一般的でないものを除去するようなものです。このような理由での編集除去は妥当な編集でしょうか。存在が定かでないならともかく出典があること、「半辺蛤」という言葉を見たときにそれを調べるすべがなくなるのは問題であること、「大衆向け」という基準が不明確であること、などから、理由も除去行為も適当ではないように思うのですが。 --Strangetail(会話) 2024年12月7日 (土) 05:48 (UTC)
- コメント メジャーでない呼び名を冒頭の定義文に羅列すると冗長になる(=重要度の低い情報が記事の最も目立つセクションに羅列されるのは望ましくない)という考え方もあるので、名称節を設けて一般的でない呼び名はそちらに移すとか、注釈に押し込むとかで対応するのがスマートそうかなと個人的には思います。--Keeezawa(会話) 2024年12月7日 (土) 06:34 (UTC)
- おっしゃることは一般論としては理解できますし異論もないのですが、実際に行われたのは単純な除去であって、提示した事例に対してどのような見解を示されようとされているのか理解できずにいます。冗長なので削除はやむなし、と言われたいのか、除去せずに記載方法を検討すべきだった、なのか。--Strangetail(会話) 2024年12月8日 (日) 13:27 (UTC)
- なるべく争いが起こらなそうな善後策を選択肢として提示しただけです。--Keeezawa(会話) 2024年12月8日 (日) 13:40 (UTC)
- おっしゃることは一般論としては理解できますし異論もないのですが、実際に行われたのは単純な除去であって、提示した事例に対してどのような見解を示されようとされているのか理解できずにいます。冗長なので削除はやむなし、と言われたいのか、除去せずに記載方法を検討すべきだった、なのか。--Strangetail(会話) 2024年12月8日 (日) 13:27 (UTC)
- コメント 「全部羅列すると冗長だからスタイルは考えるべし」というのはもっともだと思いますが、かといってこのような理由で除去するのが正当とは思えません。「大衆向けでない」とする基準も不明確ですし、よしんば大衆向けでない情報だったとしてそれを百科事典に載せないとする根拠も不明です。--横たわる猫(会話) 2024年12月7日 (土) 06:56 (UTC)
- コメント 出典がある漢字表記や別名、原語表記などを除去しているので、明らかに不適切な編集ではないかと思います。コプラではマラヤラム語の原語表記を削除しており、これはWikipedia:スタイルマニュアル/導入部#導入文に明らかに反しているので差し戻しを行いました。シビレエイ目の漢字表記「麻魚」が除去されていますが、コトバンクにものっているくらいで20世紀前半くらいまでは用例もあるようなので、調べ物の利便性を下げる編集だと考えます。全て差し戻すべきではないかと思います。--さえぼー(会話) 2024年12月7日 (土) 10:28 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。少なくとも当該編集に対して除去が妥当という見解はなかったと考えます。当該記事に関しては元の表記でも冗長とまでは言えないと考えることから、単純に差し戻しまたは元通りにします。--Strangetail(会話) 2024年12月18日 (水) 04:46 (UTC)
曖昧さ回避の括弧書きが途中に含まれるページ名
[編集]Wikipedia:曖昧さ回避やWikipedia:記事名の付け方を見たのですが、不明であったため質問します。どこかに既に記載がある内容でしたら申し訳ありません。Category:日本保守党 (2023-)の国会議員のような、曖昧さ回避の括弧書きが途中に含まれるページ名はOKなのでしょうか。--Take12312355(会話) 2024年12月7日 (土) 13:42 (UTC)
- カテゴリはWikipedia:カテゴリの方針#地名の曖昧さ回避にあるよう、場合によっては認められているものもあります。--柏尾菓子(会話) 2024年12月7日 (土) 13:48 (UTC)
- Wikipedia:カテゴリの方針#地名の曖昧さ回避にある例外は、括弧が曖昧さ回避括弧ではない場合なので、曖昧さ括弧の後ろに細分化の語を入れるのは(Wikipedia:記事名の付け方#ある記事の子記事を作る場合により)良くないでしょう。しかし、実際には黙認されている場合が多いと思います(これなどのように意図的に採用されることもあります)。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年12月7日 (土) 14:02 (UTC)--(修正)FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年12月7日 (土) 14:15 (UTC)
- 見たことあるような気がしていたのは、黙認だったのですね。情報どうもありがとうございます。--柏尾菓子(会話) 2024年12月7日 (土) 14:06 (UTC)
- Wikipedia:カテゴリの方針#地名の曖昧さ回避にある例外は、括弧が曖昧さ回避括弧ではない場合なので、曖昧さ括弧の後ろに細分化の語を入れるのは(Wikipedia:記事名の付け方#ある記事の子記事を作る場合により)良くないでしょう。しかし、実際には黙認されている場合が多いと思います(これなどのように意図的に採用されることもあります)。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年12月7日 (土) 14:02 (UTC)--(修正)FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年12月7日 (土) 14:15 (UTC)
- 記事のほうは「日本保守党 (2023-)」なのでそれと整合性のとれたカテゴリ名であり、言葉をいじって無理にカッコを外そうとするとむしろわかりにくくなる例だとは思いますね。--Yukida-R(会話) 2024年12月7日 (土) 14:19 (UTC)
- みなさま、ご回答ありがとうございます。参考になりました。
- 例に挙げたカテゴリ(Category:日本保守党 (2023-)の国会議員)は、他のカテゴリ(Category:日本保守党の人物 (2023-)、Category:日本維新の会の国会議員 (2016-)など)とページ名の付け方が整合していないのですが、「Category:日本保守党の国会議員 (2023-)」だと「2023年生まれで日本保守党所属の国会議員」の意味に見え(もちろん2024年現在はそんな人いないのですが)、Yukida-Rさんのおっしゃるようにむしろわかりにくく、どうするのがよいかなと思っていました。難しいですね。--Take12312355(会話) 2024年12月8日 (日) 02:56 (UTC)
ナビゲーションテンプレート(Template:Navbox)のダークモードにおける色について
[編集]ナビゲーションテンプレート(Template:Navbox)をダークモードで表示すると「表・話・編・歴」のところだけ色で表示され、その他の部分は黒く表示されます。ダークモードにすると、他種Templateでも色が表示されないといったことが起こっているみたいです。修正方法はあったりするのでしょうか。具体的にはTemplate:トムス・エンタテインメントなどです。 なお私は「ChromeOS バージョン: 130.0.6723.126(Official Build) (64 ビット)」でGoogle Chromeを使用し閲覧しています。 --JunMaru(会話) 2024年12月8日 (日) 03:36 (UTC)--JunMaru(会話) 2024年12月8日 (日) 03:37 (UTC)(修正)--JunMaru(会話) 2024年12月8日 (日) 03:38 (UTC)(修正)
ある管理者の解任の動議の代行をお願いします
[編集]あるユーザーが巻き戻しやブロックを濫用しています。
自由に編集できるという理念を侵害する行為だと思われます。
私は動議できる条件を満たしていないのでお願いしたいです。--預言者(プロフィット)(会話) 2024年12月9日 (月) 09:47 (UTC)
- 返信 あるユーザー、というだけではわかりません。
- そのユーザーを通知する必要があるのではないでしょうか。--あもあす(会話) 2024年12月9日 (月) 13:30 (UTC)
- コメント 「あるユーザー」というのはおそらくMuyoさんのことかと思います(巻き戻し:履歴、ブロック:Logid/7128747)が、井戸端で話題提起するよりはコメント依頼のほうが適切な議論場所かと思います。(実際に解任されるような管理者の場合、解任動議の前にコメント依頼が基本的に出されます)--郊外生活(会話) 2024年12月9日 (月) 13:52 (UTC)
- 追記 コメント依頼で解任動議の代行を呼びかけるというよりも、解任するべきと考える管理者が具体的にどのような問題行動を継続して実施しているかを示したうえで、動議提出権者を含めた解任の賛同者を増やす場としてコメント依頼を使うと考えたほうが良さそう、ということです。--郊外生活(会話) 2024年12月9日 (月) 14:02 (UTC)
KAI-YOUは出典として使用できないサイトか
[編集]KAI-YOUは信頼できる情報源に該当せず、出典として使用できないのでしょうか。
以前Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/壱百満天原サロメ 20220922を拝見し、一般の方も投稿できるらしいという認識ではありました(この時点で違っていたらご指摘ください)。しかし例えばこの方[5]のような、カイユウに入社しているライターが書いたような記事でも、一般人も投稿可能なサイトだから記事中で出典として使用できないのでしょうか。--柏尾菓子(会話) 2024年12月9日 (月) 11:57 (UTC)
- コメント ご指摘通り、KAI-YOUは一般の人の記事を受け付けるユーザー記事制度があります。この制度は一般の読者が会員になることで、記事を投稿でき、それをKAI-YOU編集部が編集し、掲示するものとなっています。
- ただ、すべてのユーザー投稿記事は明示的に「ユーザー投稿記事」であることを記事上部のカテゴリで示されており、プロのライターや編集者(サイト内の一例)が書いたものであるかを判別できるようになっています。
- そのため、私個人としては出典は有効なものであると判断し、これまでもユーザー記事でないものについては、Sai no Kawara、ルンルン (バーチャルYouTuber)などで用いてきました。
- また、ユーザー記事については、議論の余地があると思います。個人的には避けたいですが、使用できないわけではない……ような気がします。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の「この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません。それゆえに、独自研究は載せないという方針と検証可能なことのみ載せるという方針が大変重要となるのです。」と検証を経ているかが重要視されていることについても、注目すべきだと思います。また、機能の紹介で「掲載されにくい記事」と掲載されない場合についても言及されていることから信頼できる情報源の「編集者の監視や、事実検証のプロセスを経ている。」に少なくとも合致します。--組曲師(talk/ 履歴) 2024年12月12日 (木) 15:18 (UTC)
- コメント「掲載されにくい記事」の記載を見る限り掲載価値以外の観点は「法や公序良俗に反しない」というところのみで内容の信憑性については触れられておらず、これをもって「事実検証のプロセスを経ている」とは言いがたいように見受けられます。--Strangetail(会話) 2024年12月14日 (土) 08:18 (UTC)
- コメント 当該メディアおよび「ユーザー投稿記事」に対する認識については、先にコメントされていらっしゃる組曲師さんと同様の認識であり、一律出典として利用できないメディアではないと考えております。:ユーザー投稿記事を情報源として利用可能かどうかについては、私としては極力使用を控えておりましたが組曲師さんがおっしゃるように利用可能であるという説明も妥当と考えており、無論記述内容などにもよりますが、利用不可として除去する必要はないもののより信頼性の高い情報源がある場合はそちらに置き換えた方がよい、というところかと思っておりました。
- 「一般の方が執筆した記事が掲載されるメディアである」という点については、たとえば現役の学生が執筆した記事が掲載される高校生新聞[6]などのような例もあります。
- 議論提起者の方が示された良質な記事の選考時より、当該メディアにおいてユーザー投稿記事が容易に峻別可能であるということも含めて承知しておりましたが、選考終了後であったこともあり、可変IP利用者の反論に返答をせず、中途半端な説明のみであったことで混乱を生じさせてしまっておりましたら、申し訳ございませんでした。--Purple light(会話) 2024年12月14日 (土) 06:21 (UTC)
- コメント 一応件の選考のIPの意見に疑義を申しますと、話題になっていた草野虹(くさのこう)さんはウェブメディアではRealSound、インサイド、集英社オンライン他。雑誌ではWWD JAPAN。書籍では『VTuber学』と専門性があると一定程度認められるような実績があります。選考時点でも軽く調べればそれがわかるような状況だったことは補足しておきます。--組曲師(talk/ 履歴) 2024年12月14日 (土) 07:14 (UTC)
- コメント KAI-YOUが一律に出典として利用できないメディアであるとは考えませんが、「ユーザー記事」を信頼できる情報源に含めることには否定的です。なぜならば、「編集者の監視や、事実検証のプロセスを経ている。」の実質面が非常に危ういと考えるからです。つまり、①監視主体であるKAI-YOU編集部の構成員が専門知識を有すると考えてよいのか、②KAI-YOU編集部の「検証」の目的から考えてどの程度の検証を行っているのか、という問題です。②についてですが、例えば新聞の「投書欄」を信頼できる情報源だとはみなしませんよね。新聞社は確かに名誉毀損にあたらないか、明らかに事実と反していないか、という程度の「検証」はしているかもしれませんが、Wikipediaで「信頼できる情報源」にあたると言えるだけの検証としての実態は備えていないと考えられます。KAI-YOUのユーザー記事が新聞の投書欄程度の信頼性しかないかはともかく、信頼できる情報源とするには検証の実質面が不充分であるように思われます。なお、KAI-YOU編集部の「検証」は「プロのライターが書いた文章で間違いない」ことを証明するには充分であると考えますので、記事の作成者が専門知識を有する人物であるならば、信頼できる情報源として扱えると考えます。--こやまひろ(会話) 2024年12月14日 (土) 08:25 (UTC)
- 一 出典といっても、いわゆる「ファクト」の提供だけが目的ではなく、言葉通りの「信頼できる情報源」でなくとも「出典として使用する」こと自体はできます。
- 二 つまり「意見の情報源」として「出版された読者の寄稿」が、それだけで「出典として使えない」ということにはならないでしょう。
- 三 以下に具体例を挙げます。
- パブリック・コメント
- 広く意見を紹介する形や、世論などの背景情報を示すものとして、キュレーションの意味を理解して扱う。
- 新聞などの読者投稿
- 学識経験のない地元住民による郷土誌
- あくまで「地元住民の認識」という扱いであれば扱える。
- 2ちゃんねるにおける投稿
- 記名的な投稿でなくとも、そういう投稿が散見されたということが分かるアーカイブなどがあれば、直ちに出典に使えないわけではない。
- パブリック・コメント
- 四 項目や記述の内容によっては、意見を拾う必要も出てくるでしょう。そのとき「読者や無名の一般人の寄稿である」を理由に、次から次に出典に使えないとすると、どうしようもありません。
- 五 大事なのは、その記述の出典として適切かを、都度考えることです。考えるまでもなく出典として扱えない情報源は、そんなに多くありません。ウィキペディアの編集者を信用しましょう。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月15日 (日) 23:51 (UTC)
- コメント その見解は、「自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、ほとんどの場合は適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。」という方針に反しているためとることができないと思います。Wikipediaの最も基本的なガイドラインである「信頼できる情報源」に対し、「言葉通りの「信頼できる情報源」でなくとも」という形で文言の解釈を拡張して骨抜きにするのは不適切ではないでしょうか。--こやまひろ(会話) 2024年12月16日 (月) 07:53 (UTC)
- そもそも「新聞の読者投稿欄にこういう投稿があった」というのを参照することが直ちに方針に反しましたっけ?
- 実際に編集したことこそありませんが、分野によっては見かけないこともないような。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月21日 (土) 02:07 (UTC)
- 私の場合は信頼できる情報源の内容から「新聞の読者投稿欄にこういう投稿があった」は利用してはいけないと判断しています。例えば『偽の権威に注意』では「専門知識を有することが検証可能な人物によるものを情報源としてください。」という言葉が含まれています。--ぷにを(会話) 2024年12月23日 (月) 02:09 (UTC)
- コメント その見解は、「自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、ほとんどの場合は適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。」という方針に反しているためとることができないと思います。Wikipediaの最も基本的なガイドラインである「信頼できる情報源」に対し、「言葉通りの「信頼できる情報源」でなくとも」という形で文言の解釈を拡張して骨抜きにするのは不適切ではないでしょうか。--こやまひろ(会話) 2024年12月16日 (月) 07:53 (UTC)
コメント 根本的な解決にはなりませんが出典の記述者が「プロのライターや編集者」であるのであれば「〇〇は(KAI-YOUで)△△△と語っている。」のような記述をすることでどこの記事ではなく誰の記事ということを主眼に置けば記載できるのではないかと考えます。ただし、そうと判断できる「プロのライターや編集者」が簡単に線引きできるかどうかという問題はあるでしょうし、それを記事を見る一般の方にどこまでわかるように書くのかという問題もあるかもしれません。(KAI-YOUで言えば単なるユーザーとプロを何をもって区別できるのかという点。)--ぷにを(会話) 2024年12月16日 (月) 00:36 (UTC)
- コメント Wikipedia:独立した情報源の観点からは、en:Wikipedia:Reliable sources/Perennial sources#Paid reporting in Indian news organizationsと同じように、慎重に取り扱ったほうが良いと思います。kai-you.co.jpのウェブサイト(主要取引先、実績紹介、制作実績)と、kai-you.netのウェブサイト(【広告主の皆さまへ】KAI-YOUと一緒に外へ広がる企画を発信しませんか?、広告掲載について)で確認できるように、KAI-YOUは、他の企業や自治体のためのプロモーション(マーケティング事業)を手がける会社でもあるようです。たとえば、映画『カタシロReplica』インタビュー 監督ディズムが向き合ったTRPGとは違う「正解」(KAI-YOUに入社しているライターが執筆した記事)は、「タイアップ」表記が行われていませんが(コンテンツポリシー)、KAI-YOUの実績のひとつであるTRPG『カタシロ』配信キャスティング協力のクライアントが「ディズムチャンネル」ですので、ウィキペディアにおいて「独立した情報源」と言えるのか、疑問です。KAI-YOUは、ウィキペディアの出典として全く使用できないものではない一方で、無条件に使用できるものでもない、と思います。とりわけ、対象を賛美する内容が含まれている場合や、ウィキペディアにおける特筆性が審議されている場合は、注意が必要であると思います。--フランベ(会話) 2024年12月18日 (水) 14:48 (UTC)
- コメント それについては、Project COLDを出すマレが運営する電ファミの記事にPRが書かれていないように、KAI-YOUに限らず、昨今の全てのメディアにおいて注意するべき事項と思います。ただ、今回の件については映画『カタシロReplica』(複数社が関わるクラウドファンディングのプロジェクト)であって、TRPG「カタシロ」のセッション(ディズムが主体の作品のイベントのようなものと思ってください)とは個人的には別物かと思います。「A社のゲームの広告を載せているメディアが、A社の同作を題材にした映画の記事を載せた」にニアンスは近いと推察しています。ですので、繰り返しますがこれはKAI-YOUだけに言えることではなく、個別具体的に検討・精査していくべきかなと思います。また、User:Strangetailさんの意見についてはある程度賛同できるものですが、一応にも訂正をしている=事後であっても検証プロセスを踏んでいるということで私は理解をしています。ですので、ユーザー記事についてはUser:こやまひろさんがおっしゃるように、筆者を明記することが最も丁寧で安全策かと思います。また、一部についてですがプロのライターである深水英一郎さんがユーザー記事を書いたケースもありますので、そうした場合は少なくともWP:SPSには該当するかと思います。--組曲師(talk/ 履歴) 2024年12月19日 (木) 09:32 (UTC)
- 信頼できる情報源の条件としては検証プロセスというのは事前にあるから意味があるのであって、事後の訂正はそれ単独ではとても同列に扱えるようなものではないでしょう。これはWikipediaに限った話ではなく、一般常識的な感覚だと思います。前のコメントもそうですが相当無理な主張をされているように感じます。--Strangetail(会話) 2024年12月21日 (土) 12:33 (UTC)
- コメント コトバディアの深水英一郎(ふかみえいいちろう)プロフィールを見た限りでは、「関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)」(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源)に当てはまるとまでは判断できませんでした。KAI-YOUに投稿されたバーチャル美少女ねむに聞く『メタバース進化論』 “原住民”から見た世界とは?は、「KAI-YOUにユーザー記事を投稿している人物(ふかみん(深水英一郎))が、KAI-YOUにユーザー記事を投稿している別の人物(バーチャル美少女ねむ)にインタビューし、それをKAI-YOUに投稿した」という形をとっており、通常のマスメディアにおけるインタビュー記事とは異なる性質のものであると思います。メタバースに関しては、KAI-YOUのメタバース総研「おススメのマーケティングツール/サービス・支援会社」にKAI-YOUが掲載と、メタバース総研のおススメのマーケティングツール/サービス・支援会社まとめが見つかりました。KAI-YOUは、マスメディアとしては特殊な立ち位置にあり、ウィキペディアで他のマスメディアと同じように扱うのは難しいと感じています。--フランベ(会話) 2024年12月25日 (水) 14:50 (UTC)
- コメント それについては、Project COLDを出すマレが運営する電ファミの記事にPRが書かれていないように、KAI-YOUに限らず、昨今の全てのメディアにおいて注意するべき事項と思います。ただ、今回の件については映画『カタシロReplica』(複数社が関わるクラウドファンディングのプロジェクト)であって、TRPG「カタシロ」のセッション(ディズムが主体の作品のイベントのようなものと思ってください)とは個人的には別物かと思います。「A社のゲームの広告を載せているメディアが、A社の同作を題材にした映画の記事を載せた」にニアンスは近いと推察しています。ですので、繰り返しますがこれはKAI-YOUだけに言えることではなく、個別具体的に検討・精査していくべきかなと思います。また、User:Strangetailさんの意見についてはある程度賛同できるものですが、一応にも訂正をしている=事後であっても検証プロセスを踏んでいるということで私は理解をしています。ですので、ユーザー記事についてはUser:こやまひろさんがおっしゃるように、筆者を明記することが最も丁寧で安全策かと思います。また、一部についてですがプロのライターである深水英一郎さんがユーザー記事を書いたケースもありますので、そうした場合は少なくともWP:SPSには該当するかと思います。--組曲師(talk/ 履歴) 2024年12月19日 (木) 09:32 (UTC)
- (個人的に「サブカルチャー」の記事にそんなに熱を入れてウィキメディアンをやっていないので)これ以上の深入りは自重いたします。結論が出たら、分野外にもわかりやすくまとめていただけると幸いです。そんで是非、当該ポータルやプロジェクトに掲示してください。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 02:14 (UTC)
削除依頼について 20241212
[編集]Wikipediaに初めて削除依頼を行いましたが、なぜか表示されていませんでした。これって何かのバグですか?--名上 広東河(会話) 2024年12月12日 (木) 11:30 (UTC)
- 記事自体の表示は行われていたため、本日の削除依頼のページ(Wikipedia:削除依頼/ログ/2024年12月12日)に表示されない、ということだと受け取ります。Wikipedia:削除依頼#STEP.3 「Wikipedia:削除依頼」に掲載をお読みください。今回は差分で追加しておきました。それ以前に利用者‐会話:名上_広東河#手を止めてくださいませんかで2度「まだ削除依頼に参加されるのは時期尚早です。」と申しましたが、この段階を脱していないように思います。繰り返します。「手を止めてくださいませんか」。--柏尾菓子(会話) 2024年12月12日 (木) 12:03 (UTC)
- わかりました。ただしこの記事に関してはどう見ても問題があったのです削除依頼を行いました。--名上 広東河(会話) 2024年12月12日 (木) 12:36 (UTC)
- 単に「問題があった」という理由で記事を削除することはできません。何度も注意を受けているのですから、Wikipedia:削除の方針を熟読するなどやるべきことはあるわけです。以後も同様の行動が続くようであれば、投稿ブロックにて一度強制的に手を止めさせることも考えなくてはなります。これがブロック前最後の忠告だと思ってください。--Mt.Asahidake(Talk) 2024年12月12日 (木) 12:47 (UTC)
- 確かに今までの自分の投票には問題がある事は認めますが、今日提出した依頼はどの部分が削除の方針に違反しているのでしょうか。一応基準は満たしていると思いますが、もし問題点があればご教示をお願いします。--名上 広東河(会話) 2024年12月12日 (木) 13:03 (UTC)
- (横から失礼)削除依頼を提出する場合にはWikipedia:削除の方針のどのケースに該当するのか提示する必要があります。少なくとも今回のあなたの削除依頼はそのような提示がありませんでした。他の方が提出されている削除依頼をよくお読みになって勉強してください。--むじんくん(会話) 2024年12月12日 (木) 17:09 (UTC)
- 確かに今までの自分の投票には問題がある事は認めますが、今日提出した依頼はどの部分が削除の方針に違反しているのでしょうか。一応基準は満たしていると思いますが、もし問題点があればご教示をお願いします。--名上 広東河(会話) 2024年12月12日 (木) 13:03 (UTC)
- 単に「問題があった」という理由で記事を削除することはできません。何度も注意を受けているのですから、Wikipedia:削除の方針を熟読するなどやるべきことはあるわけです。以後も同様の行動が続くようであれば、投稿ブロックにて一度強制的に手を止めさせることも考えなくてはなります。これがブロック前最後の忠告だと思ってください。--Mt.Asahidake(Talk) 2024年12月12日 (木) 12:47 (UTC)
- わかりました。ただしこの記事に関してはどう見ても問題があったのです削除依頼を行いました。--名上 広東河(会話) 2024年12月12日 (木) 12:36 (UTC)
引用文には大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けないほうが良い?
[編集]現在の「交響曲第3番 (ブルックナー)という記事には、次にような言葉が書いております:
この作品は「難解」と評されており、ブルックナーの芸術的ブレイクスルーと見なす者もいる。ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」。この作品はブルックナーの交響曲の中で最も改訂が多いことで知られ、少なくとも6つの版が存在し、そのうち3つが現在でも広く演奏されている。
- 私はこれを「大言壮語」として削除しようとしましたが、Gruppettoさんは「引用#日本法における著作物の引用」を理由に、「大言壮語的な表現があってもそのまま表現すべきだ」と主張し、元の大言壮語のあるバージョンに戻しました。
- その後、私は「引用の原文の大言壮語をそのまま残したいなら、せめて大言壮語のタグを貼り付けたほうがよい」と考え、そうしました。しかし、Gruppettoさんは「引用文はWikipedia:大言壮語をしないに該当しない」として、この貼り付けを取り消しました。
- 私が「Wikipedia:大言壮語をしない」を調べたところ、「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」といった言葉や方針は一切見つかりませんでした。
このままでは、Gruppettoさんとの編集合戦になる可能性があります。そのため、もしGruppettoさんが再び私の編集を差し戻した場合、私は何も行動せず、一旦立ち止まって様子を見ます。そのうえで、此処で最善の解決方法を教えていただきたいと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 03:55 (UTC)
- はい。引用文に大言壮語があるときは、大言壮語のタグを貼り付けないほうがいいです。
- 理由: なぜならばすでに指摘のある通り、その方針は「私たち編集者は、記事に自分で文章をまとめて書くときに、大言壮語をしてはいけない」というものです。つまり「私たち編集者の言葉ではない引用文を、翻訳したり中略したりして記事に書くときとは関係のない方針」だからです。
- ちなみに(私は、外国の日本人が話す日本語について詳しくない、ですが)、日本の日本語では「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください。」という文章を読むと、そういうふうに理解します。
- そして「引用文の表現が、大言壮語だから書き直した」ならば、その引用文は「言っていないことを言ったとする引用文」になるので、問題です。
- 一 なぜならば、ルドルフ・クロイバーは「ブルックナーの有名な作品の中で最初に作られ、彼の独自の技法が融合した作品」とは言っていないからです。
- イ 私はドイツ語の「So eröffnet die Dritte die Reihe der Brucknerschen Meisterschöpfungen, bei denen sich Erfindungskraft mit monumentalem symphonischem Gestaltungsvermögen paaren.」を辞書を引いて読んでみました。
- ロ @赤葡萄酒 さんが「有名な作品」という表現に変えた「Meisterschöpfungen(マイスターシュプフンゲン)」という単語は「マイスター+作られたもの(作品)」という意味の複数形です。
- ハ ドイツ語の「Meister(マイスター)」という表現を翻訳して「有名な」とするのは、おそらく間違いです。やっぱり、ルドルフ・クライバーは「MeisterCreation(s)、マイスター作品(群)」、つまり「傑作(群)」といっています。
- 二 「引用文に大言壮語がある」という理由で、大言壮語タグを貼り付けることは、玉音放送が引用してある記事にも、大言壮語タグを貼り付けなければならないということです。おかしいですね。
- イ 玉音放送は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と始まりますね。
- ロ 日本語の表現として「同じリズムの文章を繰り返す」という書き方は、とても礼儀正しい表現です。さらに「することが難しいことをする(〇〇難きを〇〇)」という書き方も、とても礼儀正しい表現です。
- ハ 礼儀正しい表現ですが、ウィキペディアを編集する私たちは、私たちの書く文章として記事の中で、そういった表現を使ってはいけません。なぜならば、そういった表現は「大言壮語」だからです。
- ニ ですが、引用文の中の大言壮語は関係ありません。ですからもちろん、大言壮語がある玉音放送を引用しても、大言壮語タグを貼り付ける必要はありません。
- 一 なぜならば、ルドルフ・クロイバーは「ブルックナーの有名な作品の中で最初に作られ、彼の独自の技法が融合した作品」とは言っていないからです。
- 方針の書き方が、かしこまった文章なので、すこし読みにくかったかもしれませんが、日本語版ウィキペディアを編集するならば読めたほうがいい程度です。ですから、この件は@Gruppettoさんの言っている方針の理解が、正しいでしょう。@赤葡萄酒さんが、編集の手を止めてくれてとても助かりました。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 06:05 (UTC)
- シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、これほどご中立的なご回答を頂き、心より感謝申し上げます。本当に誠にありがとう御座います。
- 玉音放送に関してですが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の中の「耐え」と「忍び」について、前者は「動詞の連用形」として使われており、後者は「普通の動詞」として使用されているものです。「Wikipedia:大言壮語をしない」には、「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」と明確に記載されています。この点について混同されないようお願い致します。したがって、昭和天皇陛下の玉音放送は大言壮語であるわけがありません。今回の件と昭和天皇陛下の御言葉を同一のケースとして捉えることは適切ではありません。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:45 (UTC)
- 日本語版ウィキペディアに、ドイツ語の文章を引用する際は、表現は原文のママで、常体口語の現代日本語に訳するべきです。
- そして、大言壮語タグは「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際」に貼り付けるものです。
- 引用文を書いているのは、記事の執筆者ではありません。
- そして、記事の執筆者とは、ウィキペディアの、その記事の編集者のことです。
- 記事の執筆者ではない「引用文を言った人」の文章にどのような大言壮語が含まれていたとしても、方針に反する大言壮語ではないので、タグを貼る必要がありません。
- 厳密に言うと、修正する必要のある問題を報告するためのタグですから、問題のない引用文に大言壮語があったとしても貼ってはいけません。
- 記事の問題タグは、技術的制約などの一部を除いて「後で誰かが修正すべき問題」に対してだけ貼り付けるものです。そのままにすべき表現に対して問題タグ貼ることは、ウソの問題報告ですから、申し訳ないですが「あらし」とみなされるかもしれません。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 08:09 (UTC)
- 単刀直入に申し上げますと、シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの主張には論理的にいくつかの大きな誤りがございます。以下に、その論理が誤っている理由を説明いたします。
- 1.「記事の執筆者」についての誤解:
- 「記事の執筆者」という言葉は、編集者を指しますが、大言壮語のない引用文をウィキペディアに追加するのも編集者の責任です。その引用文がウィキペディアの基準に適合するように編集されなければなりません。引用元が誰の言葉であっても、その言葉がウィキペディアの中立性方針に合致するように扱うことが重要です。
- 2.「記事の執筆者が自分の言葉で要約して書く際」について:
- このルールは記事全体に対する指針であり、引用文にも同様に適用されます。「Wikipedia:五本の柱」はウィキペディアの最大の原則であり、たとえ引用が他の人物の言葉であっても、その言葉に大言壮語や過度な表現が含まれている場合、それを無視することは五本の柱の方針に反します。したがって、引用文にもタグをつけることが適切だと考えます。
- 3.引用文の中立性の維持:
- 引用文も記事の一部であるため、中立性と客観性が求められます。引用に大言壮語が含まれていれば、タグを付けて読者に偏りを知らせることが重要です。
- 4.ルールの明確さ:
- 現時点の「Wikipedia:大言壮語をしない」には「タグ」に関するルールが明確に記載されていません。「大言壮語の引用文は編集者ではなく、他の人が言ったからタグを貼る必要がない」という主張は「Wikipedia:大言壮語をしない」には記載されていません。この主張はシェン・アーナリー・ン・アーバァさんの独自研究に過ぎません。
- 5.引用文でも大言壮語タグをつけるべき理由:
- 引用文が大言壮語であれば、常識的に考えて、そのまま引用文にタグを付けるべきです。これは、大言壮語の部分を読者に明示することが目的です。
- このため、シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの主張は正当ではない。何が理由であれ、ウィキペディアの方針に従う限り、引用文に含まれる大言壮語にはタグをつけるべきです。引用文を原文通りに引用することは正しいですが、大言壮語の引用文をカバーすることは避けるべきです。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 09:05 (UTC)
- 一 @赤葡萄酒さんは、「耐え」や「忍び」は動詞の話だから関係がないといいますが、本当に「大言壮語をしない」は読みましたか?
大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです。例えば以下のような表現を使うことは避けてください。
- 「重要な……」「最も重要な……の一つ」「重大な……」
- 「最も影響力のある……」「最善な……の一つ」「議論の余地のないほど……」
他にも「…明白な、伝説的な、美しい、話題となった、究極の、非常に、極めて、絶大な、屈指の、有数の、有力な、国民的な、とてつもなく、有名な、は必読、過ぎる…」などです。
- と書いてありますね。
- 二 句、フレーズとして大言壮語であれば「話題となった」など、名詞と助詞と動詞で構成する表現ももちろん避けなければいけません。
- 三 「大言壮語をしない」という方針は「大言壮語な表現を避けてください」とあることから分かるように「大言壮語な表現であるならばすべて避けてください」という方針です。つまり「過剰な形容動詞や形容詞、副詞」はもちろん避けてください。大言壮語な表現も避けてくださいと書いてあります。
- 四 目を通しただけで理解したつもりになることは、誰だってあります。利用者ページに「Wikipediaの方針やガイドラインをよく読んで」いるとありますが、今回の件でそれが「斜め読み」をしていたことに気づけたでしょう。私も自分の認識を過信してしまいますから、穏やかでない心中もお察しします。ですから、あまり気負いせずに編集者としての作業を続けていただけると幸いです。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 08:57 (UTC)
- もう時間がかかりすぎるので、これからは非常に丁寧な言葉を使わず、礼儀正しさを保ちながら普通の日本語を使います:
- 「耐え」や「忍び」が動詞だから関係がないという主張について: これは論理的に誤っています。「Wikipedia:大言壮語をしない」という方針では、過剰な形容動詞や形容詞・副詞の使用を避けることが、明確に求められていますが、動詞に関する言及は特に除外されていません。独自研究を加えるのは避けるべきです。
- 二重基準の問題: もしシェン・アーナリー・ン・アーバァさんが「大言壮語な表現を避けてください=動詞を含むすべての大言壮語な表現に適用されるべきだ」と言いたいのであれば、引用文の中で使われる大言壮語も避けるべきだと思います。「Wikipedia:大言壮語をしない」には、動詞や引用文に関する明確な言及はありませんが、なぜ引用文の大言壮語は許容され、動詞の大言壮語は許容されないのでしょうか。
- 「斜め読み」の指摘について: 「Wikipediaの方針やガイドラインをよく読んで」という指摘は非常に正当ですが、その後の「斜め読み」や「過信」という表現は、不適切です。赤葡萄酒(会話)ウィキペディアの方針に従うべきであり、相手を攻撃するような表現は建設的な議論を妨げるので、控えたほうが良いでしょう。赤葡萄酒(会話)
- 結論: シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの主張は、一部確かに正当ではありますが、論理的に誤っている部分や矛盾も多く含まれています。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 09:34 (UTC)
- もう時間がかかりすぎるので、これからは非常に丁寧な言葉を使わず、礼儀正しさを保ちながら普通の日本語を使います:
ことの経緯について少々正確ではないことが赤葡萄酒さんによって書かれているので、私Gruppettoからも書いておきます。
- そもそも、交響曲第3番 (ブルックナー)に英語版en:Symphony No. 3 (Bruckner)の冒頭部からの翻訳として、クロイバーの言葉を含む加筆をしたのは赤葡萄酒さんの方です差分。
- ところが、赤葡萄酒氏は「傑作」などの言葉が「Wikipediaの方針にそぐわない」として、引用文であるのにも関わらず表現を改変し、日本語としても些か奇妙な文章となりました差分。
- なので私は、引用である限りは大言壮語的表現があっても正確に引用、翻訳すべきであるとして、より正確に翻訳し直しました差分。
- すると赤葡萄酒氏は大言壮語テンプレートを貼りました差分。
- 私は、これはあくまで音楽学者による評価の言葉の引用であり、記事の執筆者の行動に対するガイドラインであるWikipedia:大言壮語をしないには抵触しないのでテンプレートを除去しました差分。
以上が正確な経緯です。--Gruppetto(会話) 2024年12月18日 (水) 15:01 (UTC)
- コメント Wikipedia:大言壮語をしないでは、冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」とあり、続けて「大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです」とあります。これを逆説的に言い換えると「言及した人物等が明らかな場合や、事実としての情報が明らかな場合は、(そのことを明らかにした上で)記事を単に引き立たせるための表現を用いることができる」ということができ、利用者:Gruppetto(会話 / 投稿記録)さんはこの趣旨をおっしゃっているのではないかと考えるところです。
- 「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」というのはそれだけを見ると少々飛躍しすぎのような気もしなくもないですが、要は「誰がそのように(大言壮語を)述べたか」ということを明らかにしてあれば、大言壮語のタグを貼る必要はないと思います。--Bsx(会話) 2024年12月18日 (水) 04:11 (UTC)
- 横から失礼いたします。もしそうであれば、この件が解決した後、「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関する明確なルール」を追記することが、良い解決策だと思います。
- もし今回の件が「大言壮語のタグを貼らなくても良い」という結論になった場合、「Wikipedia:大言壮語をしない」の内容を改善することを提案いたします。ただ議論を待つだけで、方針自体を放置してしまうと、今後も誤解や論争が繰り返される恐れがあります。
- 改善例として、『「誰がそのように(大言壮語を)述べたか」を明示していれば、大言壮語のタグを貼る必要はない』や、『言及した人物や事実が明らかであれば、(その旨を明示した上で)記事を引き立たせる表現を用いることができる』といった言葉を明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。
- 現時点では「引用文の大言壮語に対する明確な方針や提示が無い」というのが事実であり、方針自体が字数が少なすぎ、また当事者の解釈に依存しすぎているため、誰でも誤解する可能性があります。
- 最後に、「引用文が大言壮語であれば、大言壮語のタグを貼り付けなくてもよい」という点に同意するわけではありません。あくまでも、この件が解決した後の解決策として申し上げるものです。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:44 (UTC)
- もし本気で提案する気であるなら止めませんが、今の提案内容であれば私は反対するでしょう。というのも『記事の執筆者』がしてはいけない、『何を』大言壮語と呼ぶかは既に書かれています。Template:大言壮語にも「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います。」と書かれています。既存の文章で十分と考えます。--ぷにを(会話) 2024年12月18日 (水) 06:03 (UTC)
- もちろん、本気で申し上げております。「Wikipedia:大言壮語をしない」には「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」と明確に記載されています。Gruppettoさんが大言壮語のタグを貼り付けたくない引用文は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」というものであると御座います。ぷにをさんがおっしゃった「『何を』大言壮語と呼ぶか」の理由は、以上で既に解釈していますので、私は本当に本気で御座います。もし本気でない方であれば、早い段階で諦めているはずです。
- また、私は編集中で大言壮語のタグを貼り付けようとした際に、Gruppettoさんがそれを消し戻されました。私は常に「引用文であっても、大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」という原則を守り続けておりますので、此処で解決方法を尋ねたいと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:18 (UTC)
- 「引用文であっても、大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」がWikipedia:大言壮語をしないをどう読んでもそのように理解できる部分がないので困惑しています。「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」における「記事の執筆者」はWikipedia編集者です。Wikipediaの編集者が「自分の言葉で」要約する際に大言壮語することを禁じている。それに従っていない記事にタグ付けられると理解していますがここまでで何かずれがありますか?--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 07:43 (UTC)
- ぷにをさん、ご返事いただき誠にありがとうございます。😊まず、ぷにをさんの主張を尊重しつつ、私の考えを整理して返事させていただきます。
- ぷにをさんの主張:
- 「Wikipedia:大言壮語をしない」のガイドラインは、「記事の執筆者が自分の言葉で要約する際」に焦点を当てている。
- 上記に基づき、「引用文が該当するかどうか」は明記されていない。
- よって、「引用文に大言壮語タグを貼るべきではない」との結論に至る。
- 私の返事:
- 「記載がない=許す」とは限らない 「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関するが記載されていない」という事実は、「大言壮語の引用文をそのまま許容すること」を明確に意味しません。記載がない場合は、「五本の柱」という、Wikipedia全体に適用される基本方針に基づいて判断するのが妥当です。 五本の柱の中でも特に「中立的な観点」に照らせば、大言壮語を含む引用文はWikipediaの中立性を損なう可能性があります。このため、「引用文だから」という理由だけで、大言壮語を放置するべきではありません。
- 過剰解釈や独自研究の回避 「Wikipedia:大言壮語をしない」のルールが不明確であるため、当事者による過剰解釈や独自研究につながる可能性があります。したがって、引用文についての判断は、Wikipedia全体で守られるべき「五本の柱」に基づき、慎重に行うほうが妥当だと思います。
- 結論、以下の選択肢のどちらかが望ましいと考えます:
- 該当の大言壮語のある引用文を、削除する
- 大言壮語の引用文のある記事に、大言壮語のタグを貼り付ける
- ぷにをさんのご意見に深く感謝しつつ、この視点もご検討いただければ幸いです。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 12:27 (UTC)
- 赤葡萄酒さんの意見は1の時点で私(達)と乖離しています。書かれていないのは不要だから書かれていないのです。そして、必要だと考える赤葡萄酒さんが引用でも必要なんだとコメントしていることに対して誰も賛同していません。ここは井戸端ですが、仮に「大言壮語をしない」で内容の改定提案をしたとして恐らく同様です。ここでそういうものだと納得いただくのが良いと思います。これ以上進めばいつまでも納得しないという扱いになってしまうかと思います。--ぷにを(会話) 2024年12月26日 (木) 02:12 (UTC)
- 「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評した人は、記事の執筆者ではありません。
- 「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評した人は、ルドルフ・クライナーです。
- ルドルフ・クライナーの言葉を引用しているのですから、記事の執筆者の言葉が存在するはずがありません。
- もし仮にルドルフ・クライナーがウィキペディアのその記事の執筆者であって、自身の言った言葉を引用したので、引用文だけど記事の執筆者の言葉だとしたら、そんな編集はそもそもしてはいけません。
- 記事の執筆者が、自分の言葉を引用して編集することは、これはこれで方針に反するからです。
- ですから安心してくださいね。そもそも「引用文が、記事の執筆者の言葉ではないし、もしそうだったら大言壮語ではなくて、もっと別の問題」です。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 07:45 (UTC)
- 「引用文が記事の執筆者の言葉ではない」という点については同意します。しかし、以下の点を考慮する必要があります:
- 「記載がない=許可される」とは限らない Wikipedia:大言壮語をしないに「引用文に関する記載がない」という事実は、「大言壮語の引用文をそのまま許容すること」を意味するわけではありません。そもそも「大言壮語の引用文を明確に許容する」という記述や、その意図を示す記載はWikipediaには存在しません。
- 引用文の選択には執筆者の責任が伴う 記事の執筆者がどの引用文を採用するかは編集の一環であり、その選択には責任が伴います。特に「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」といった大言壮語の表現が存在する場合、その引用の適切性が問われるべきです。
- 「引用だから免責される」という誤解を避ける ルドルフ・クライナーが発言したものであれ、Gruppettoさんが引用したものであれ、「他人が言った事であれば免責され、どのような大言壮語でも自由に引用できる」というわけではありません。引用文もまた記事の一部であり、その内容が大言壮語と見なされる場合は、タグを貼るなどの対応が適切かつ妥当であると考えます。
- 結論:Wikipedia:大言壮語をしないに引用文に関する明確なルールが記載されていない以上、独自解釈を加えるのは適切ではないと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 12:43 (UTC)
- 「引用文が記事の執筆者の言葉ではない」という点については同意します。しかし、以下の点を考慮する必要があります:
- 「引用文であっても、大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」がWikipedia:大言壮語をしないをどう読んでもそのように理解できる部分がないので困惑しています。「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」における「記事の執筆者」はWikipedia編集者です。Wikipediaの編集者が「自分の言葉で」要約する際に大言壮語することを禁じている。それに従っていない記事にタグ付けられると理解していますがここまでで何かずれがありますか?--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 07:43 (UTC)
- コメント そもそもの問題として「引用文で用いた(記事執筆者ではない)第三者の言葉」を誰が大言壮語だと判断するのでしょうか。仮にその言葉が中立的ではない(一般的な評価と異なる)のであれば、Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するに気をつければ、敢えてWikipedia:大言壮語をしないで言及すべき事柄だとは思いません。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 08:04 (UTC)
- もし「Wikipedia:大言壮語をしない」に関して問題が生じた場合、井戸端で新しい議論を開き、『引用文における人物への記述に大言壮語が含まれている場合は、「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」の扱いをどうするかについて』討論を始めるべきかと考えます。
- しかし、私の原則は終始「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という点にあります。引用文の中の大言壮語を強引に常体口調に変えるべきではありません。議論の焦点が他の角度に移らないよう、お願い申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 08:13 (UTC)
- 「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という赤葡萄酒さんの主張を“原則”と強調なさるのであれば、「大前提が間違っている」の一言で終わってしまいます。なぜならば(他の方も何度も言及していますが)Wikipedia:大言壮語をしないでは冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください。」とあるからです。引用文は「記事の執筆者が自分の言葉で要約して書く」言葉ではないので(仮に執筆者が自分の言葉で要約してしまったら、それは“引用”の要件を満たしません)、そもそもの要件(「Wikipedia:大言壮語をしない」で取り扱うべき内容)に当てはまっていないのです。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 10:02 (UTC)
- Bsxさん、お返事いただき、誠にありがとうございます。
- 確かに引用文は他者の言葉ですが、「記事の執筆者」ではありません。そのため、私は大言壮語を含む引用文を削除したことは一度もなく、「タグ」のみを付けてきました。「Wikipedia:大言壮語をしない」のガイドラインには「タグ」に関する明確な記載がないため、私は「引用文に大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきか?」と、井戸端で尋ねたのです。
- 記事の執筆者、つまり「編集者が書いた内容」には明確なルールがありますが、「編集者が引用した引用文」に対する明確なルールがないのが現状です。解釈の余地が多すぎるため、賛成派と反対派が大議論をするのは正常だと思います。
- 私は「引用文が大言壮語であっても、大言壮語のタグは貼り付けるべき」と考えており、その理由は以下の通りです:
- 1.「編集者が他人の大言壮語の引用文を引用し、大言壮語が含まれる記事を読者に見せること」と「編集者自身が大言壮語を記事に書き入れて読者に見せること」は、読者の視点からみると、どちらも大言壮語のある記事になっています。
- 2.何度も言いましたが、私が賛成するのは「大言壮語の引用文を忠実に引用してはいいが、大言壮語のタグを貼り付け、読者に注意を促すことが必要」ということです。もし、大言壮語が存在しているのに大言壮語のタグを貼りたくない場合、その引用文を削除すべきだと思います。
- 3.なぜなら、「五本の柱」に基づいているからです。「Wikipedia:大言壮語をしない」のガイドラインには引用文に対する明確なルールがない以上、ガイドラインよりも立場が上の「五本の柱」に従うべきだと考えます(もしこの論理が間違っているのであれば、私に指摘していただいて構いません)。「五本の柱」の中では「中立的な観点」という方針があるため、「引用文自体が大言壮語である場合、中立的な観点を違反するため、大言壮語のタグを貼り付け、読者に注意を促すこと」は非常に妥当だと思います。
- 長い文で失礼しますが、まとめると『Wikipedia:大言壮語をしないに対する解釈の余地の多さ』や『大言壮語の言葉がすでに記事に出ている』という問題、そして、五本の柱の「中立的な観点」の方針を優先することが私の論拠です。
- 正直言いますと、大言壮語のある記事に、大言壮語のタグを貼り付けるだけのことなのに、何故こんなに複雑化するのか、全く理解できません。今、私は休息します。もし何か疑問やご指摘があれば、明日の午後7時以降にまたお答えします。ありがとうございます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 11:30 (UTC)
- 「正直言いますと、大言壮語のある記事に、大言壮語のタグを貼り付けるだけのことなのに、何故こんなに複雑化するのか、全く理解できません」との仰せですが、{{大言壮語}}のタグの利用をカジュアルに考えすぎなのでは、という懸念があります。{{大言壮語}}の解説文の冒頭には「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います」とあります。ですので、使用するかどうかの大前提が「その表現が『Wikipedia:大言壮語をしない』に抵触するかどうか」なのです。その上で「引用文」を用いている時点で「Wikipedia:大言壮語をしないに抵触するかどうか」の大前提が崩れている、と言うことを申し上げているのです。併せて、五本の柱の「中立的な観点」の方針を優先することを重視なさりたいのであれば、それは「そもそもその引用文を用いるのが適切か否か」という観点になりますので、先に申し上げた「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するで必要十分な結論が導き出せる」ということになります。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 11:58 (UTC)
- 現在の議論の焦点は「大言壮語の引用文に大言壮語のタグを貼るべきか」であり、引用文は「Wikipedia:大言壮語をしない」に適切しない場合、Bsxさんはどのウィキのルールや方針に適切すると思いますか?理由を頂けると幸いです。
- 「Wikipedia:大言壮語をしない」には引用文に関する明確な規定がない以上、「記事の執筆者」を焦点にするのではなく、「引用文そのもの」に焦点を当てるほうが妥当だと思います。
- 議論を複雑にすることで問題が見えづらくなっていますが、私はあくまで「大言壮語の引用文に、大言壮語のタグを貼るべきか」について話しています。
- 私がこの大言壮語の引用文に関する議論を提起した理由は、ウィキの読者に正確な情報を伝えるためです。この点について、Bsxさんは、どのようなタグや解決方法のほうが役立つとお考えでしょうか?
- そもそも、Bsxさんは、「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」という引用文が、大言壮語に該当するとお考えですか?
- --赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 13:06 (UTC)
- 引用文は「Wikipedia:大言壮語をしない」に適切しない場合 → 若干意味不明ですが、引用文(の取り扱い)については「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」で必要十分な結論が導き出せる、というのは重ねて申し上げているとおりです。
- 「Wikipedia:大言壮語をしない」には引用文に関する明確な規定がない以上、「記事の執筆者」を焦点にするのではなく、「引用文そのもの」に焦点を当てるほうが妥当 → 引用文に関する明確な規定がないのはそもそも「Wikipedia:大言壮語をしない」が引用文を“対象としていない”ためですので「引用文そのもの」に焦点を当てるという論法は既に「Wikipedia:大言壮語をしない」における大前提を無視しているとしか言い様がありません。
- 故に「大言壮語の引用文に、大言壮語のタグを貼るべきか」については「否」が結論になりますし、新たなタグや告知は必要ない、という見解です。
- そもそもの「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」という引用文については「ルドルフ・クロイバーの言及であることを明確化する」ことが出来ていればそれ以上の言及はあまり意味がない(大言壮語か否かの評価の対象にならない)と考えます。
- --Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 14:03 (UTC)
- 補足 「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」が大言壮語かどうかについて、仮にもしそれが大言壮語と思うのであれば、それは言い換えれば“作品の評価としては大げさである”という判断なのでしょうから、その引用は作品の評価として適切ではなく、そもそもその引用を使うべきではない、という判断になろうかと思います。だから「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」で必要十分である({{大言壮語}}を貼る必要がない)という結論になるのです。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 21:39 (UTC)
- 「正直言いますと、大言壮語のある記事に、大言壮語のタグを貼り付けるだけのことなのに、何故こんなに複雑化するのか、全く理解できません」との仰せですが、{{大言壮語}}のタグの利用をカジュアルに考えすぎなのでは、という懸念があります。{{大言壮語}}の解説文の冒頭には「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います」とあります。ですので、使用するかどうかの大前提が「その表現が『Wikipedia:大言壮語をしない』に抵触するかどうか」なのです。その上で「引用文」を用いている時点で「Wikipedia:大言壮語をしないに抵触するかどうか」の大前提が崩れている、と言うことを申し上げているのです。併せて、五本の柱の「中立的な観点」の方針を優先することを重視なさりたいのであれば、それは「そもそもその引用文を用いるのが適切か否か」という観点になりますので、先に申し上げた「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するで必要十分な結論が導き出せる」ということになります。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 11:58 (UTC)
- 「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という赤葡萄酒さんの主張を“原則”と強調なさるのであれば、「大前提が間違っている」の一言で終わってしまいます。なぜならば(他の方も何度も言及していますが)Wikipedia:大言壮語をしないでは冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください。」とあるからです。引用文は「記事の執筆者が自分の言葉で要約して書く」言葉ではないので(仮に執筆者が自分の言葉で要約してしまったら、それは“引用”の要件を満たしません)、そもそもの要件(「Wikipedia:大言壮語をしない」で取り扱うべき内容)に当てはまっていないのです。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 10:02 (UTC)
- もし本気で提案する気であるなら止めませんが、今の提案内容であれば私は反対するでしょう。というのも『記事の執筆者』がしてはいけない、『何を』大言壮語と呼ぶかは既に書かれています。Template:大言壮語にも「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います。」と書かれています。既存の文章で十分と考えます。--ぷにを(会話) 2024年12月18日 (水) 06:03 (UTC)
- 横から失礼いたします。もしそうであれば、この件が解決した後、「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関する明確なルール」を追記することが、良い解決策だと思います。
- 補足 くだんの文章を拝見しますと、
とあって、言及しているのがルドルフ・クロイバーなる人物であることがわかります。正直なところ、このルドルフ・クロイバーなる人物がどのような人物でどのような評価がされている人物か私にはわかりませんが、この人物が音楽評論の分野において一定の評価がなされた人物であれば、ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」
のような表現にすれば、(執筆者の評価による)大言壮語ではない文章にできると思います。--Bsx(会話) 2024年12月18日 (水) 04:20 (UTC)ルドルフ・クロイバーは、第3交響曲を「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評している。- 素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。また、「と評している」といった言葉を「Wikipedia:大言壮語をしない」明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:45 (UTC)
- 赤葡萄酒さんは何か勘違いしているようですが、私があえて「と評している」を加えなかったのは、翻訳元の英語版の文章がそこで終わっており、また引用符が閉じられているのでその言葉がクロイバーによるものである事が明白な為です。また、別の所でも書きましたが、赤葡萄酒さんは強調の目的で赤リンクを使っている様ですが、赤リンクの使い方として間違っていますので今後はおやめ下さい。—-Gruppetto(会話) 2024年12月18日 (水) 07:53 (UTC)
- 赤リンクの使用方法に関しては、まさにおっしゃる通りですね。今すぐ修正致します。同様に、大言壮語の引用文を引用することについても問題ないでしょうか。現在の論点は「大言壮語のタグを貼り付けるかどうか」にあるため、仮に引用が正当であったとしても、大言壮語の表現が含まれているという事実が存在する以上、タグを貼り付けるのが当然かと存じます。引用文だけであっても、タグを回避することは二重基準となりかねませんので、ウィキペディアの中立的な立場を考慮すると、二重基準は出来るだけ避けるべきかと考えます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:09 (UTC)
- 返信 (@Gruppetto 宛) あえて「と評している」を加えない必要事態はなかったと思いますよ。もちろん「あえて」を「わざと加えなかった」ではなく「わざわざ加えなかった」という意味で使っていることは伝わっています(違ったらすみません)。
- 一 翻訳元の英語版Wikipediaでどういう表現になっていたからといって、日本語版ウィキペディアが従う必要はないです。
- 二 翻訳による記事は、以下の手続きが理想的だと認識しています。
- イ 編集履歴を可能な限り継続的にする観点から、レイアウトも誤った記述もほぼ全てそのままに、英語版Wikipediaの翻訳のみをした編集版を一度保存する。
- ロ そのうえで英語版Wikipediaの時点で誤っていた部分や、日本語版での方針に反する部分を編集する。
- 三 そして、引用文の表現について「英語版ではそうだから、わざわざ変える必要はない」というのは、日本語版における記事の内容の差し戻し理由として、決定的ではないでしょう。
- 四 決定的に「大言壮語ではない」というには、引用文の原文を機械翻訳でもいいので訳して見せて「ご覧の通りこの引用文には元から大言壮語があり、そのような文を、ましてや評論として引用している以上、邦訳しても大言壮語をそのままがよい」などと主張するのが適切でしょう。
- 五 仮に「わざと加えなかった」ならば(日本語に正書法はないのでもちろんダメではないですが)、私でも書き換えると思います。引用は、言った人を主格として、
Aは、Bを「C」と言った。
と表記するのほうが自然な日本語だと感じます。 - 六 そして、日本語版ウィキペディアはカーニングのために半角カギ括弧を使わないので、散文の文末に全角カギ括弧が来るのは、
」。
このように二分アキが出来て望ましいかどうかでいえば望ましくないので、避けたほうが無難かと考えます。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 07:21 (UTC)
- 返信 (@赤葡萄酒 宛) 引用文の中に「元から大言壮語があった」ならば、大言壮語だけ抜き取ったり、書き換えたりすることが「誤解を生む引用」です。
- 「引用」とは、誰かの言ったことを「引っ張ってきて用いる」ことです。
- 赤葡萄酒さんは何か勘違いしているようですが、私があえて「と評している」を加えなかったのは、翻訳元の英語版の文章がそこで終わっており、また引用符が閉じられているのでその言葉がクロイバーによるものである事が明白な為です。また、別の所でも書きましたが、赤葡萄酒さんは強調の目的で赤リンクを使っている様ですが、赤リンクの使い方として間違っていますので今後はおやめ下さい。—-Gruppetto(会話) 2024年12月18日 (水) 07:53 (UTC)
- 素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。また、「と評している」といった言葉を「Wikipedia:大言壮語をしない」明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:45 (UTC)
「素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。」 |
—@赤葡萄酒 |
- という @赤葡萄酒 さんの返信から、大言壮語を取り除いてみましょう。
「変化がありますね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの文章表現に不適切な点があることが分かりました。」 |
—@赤葡萄酒 |
- 二番目の、大言壮語を取り除いたバージョンを、@赤葡萄酒 さんは言っていませんね。
- 引用されたルドルフ・クライバーは、確か既に亡くなった方です。しかし、クライバーさんが「傑作」と評価した文章を引用したのに「有名な作品」と言ったことにされたら、クライバーさんは「私はそんな事を言っていない」と抗議してくるでしょう。
- 引用文の表現を変えるのは、ウソを書くことです。いけないことですね。ですから、引用文はできるだけそのまま引用してください。
- 英語版の同じような方針も、同じように解釈されていると思います。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 06:32 (UTC)
- シェン,アーナリー,ン,アーバァ.さんのご回答は本当に中立的で、感謝しております。改めて、心よりお礼申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:50 (UTC)
- 勘違いされるかもしれませんが、私の原則は終始「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という点にあります。引用文の中の大言壮語を強引に常体口調に変えるべきではありません。現在の論争は、私が大言壮語のタグを貼り付けた際に、Gruppettoさんがそれを消し戻したことから発生したものです。議論の焦点が他の角度に移らないよう、お願い申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:02 (UTC)
- 変更点を詳しく精査してみると、「素晴らしいです→変化があります」だけの違いですが、「素晴らしいです」も大言壮語の範囲に含まれるのでしょうか。「素晴らしいです」という表現は、「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」という表現を同じ内容で捉えているとは、誤りだと思います。前者は普通の表現で、後者のほうが大言壮語に該当すると考えられます。例えば、同じお金に関する問題であっても、100円の借金を返済しないことと、1億円を詐欺することを同じ状況として扱うのは誤りだと存じます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:02 (UTC)
- ええ。おっしゃる通り「借金を返済しない(民法上の債務を履行しない)」ことと「詐欺する(民法上の錯誤を知って表示する、刑法上の罪を犯す)」ことは全く異なることですし、100円と1億円の金額に、計数的で相対的な差が存在することは知っています。
- 一 ですが「素晴らしい」という「修飾語」について「執筆の際に、記事の話題を正当化をするような修飾語を付加する必要はありません。」と明記してあります。ご参照ください。
- 二 そして「文章表現」というのは、そもそも計数的ではありません。計量的です。
- 三 @赤葡萄酒さんがいう「議論の焦点」とは「大言壮語をしない」の方針が対象としていない「引用文の中の大言壮語」に対して、大言壮語タグのテンプレートの説明を無視した「虚偽の問題報告をやりたい」ということでしょう。
- 四 おそらく誰も「虚偽の問題報告をやりたい」という、@赤葡萄酒さんの提案に賛成しません。なぜならば、それは間違っているからです。
- --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 09:32 (UTC)なお、確認したところ「大言壮語をしない」は、厳密には方針ではなく、ガイドラインでした。議論の参加者各位にお詫び申し上げます。
が、どちらも「日本語版ウィキペディアで広く受け入れられ、尊重すべき」として、一般語における「方針」として総称して直ちに問題があるものではないと考えられます。- シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、ご説明、本当に有り難う御座います。お返事やご説明いただきたい内容を、以下に箇条書きでまとめました:
- 「素晴らしい」という修飾語について シェン・アーナリー・ン・アーバァさんのおっしゃる通り、ウィキペディアでは過度な修飾語の使用を避けるべきです。しかし、「素晴らしい」という表現が必ずしも「大言壮語」に該当するとは限りません。文脈次第では適切に使用される場合もありますので、具体的な例を挙げていただければ、より実りある議論ができると考えます。
- 引用文の大言壮語について 引用文における大言壮語の扱いについてですが、「Wikipedia:大言壮語をしない」は記事全体の表現を対象としたガイドラインであり、ウィキペディアの五本の柱に違反や矛盾がない限り、ガイドラインには従うべきだと考えます。もし適用できないと主張されるのであれば、その理由を具体的にご説明いただければ幸いです。
- 虚偽の問題報告について 「虚偽の問題報告をやりたい」というご指摘についてですが、そのような意図は一切ございません。私が問題視しているのは、記事中の表現が「大言壮語」に該当するかどうかという点のみであり、そこに焦点を絞った冷静な議論を行いたいと考えています。感情的な言葉遣いや誤解を招いてしまった場合には、お詫び申し上げます。
- ガイドラインについて ご指摘の通り、「Wikipedia:大言壮語をしない」はガイドラインであり、方針ではないことは事実です。ただし、ウィキペディアにおけるガイドラインは単なる参考情報にとどまらず、編集作業において広く受け入れられた基準として尊重されるべきものです。このため、ガイドラインに反する編集者に対して、ほかの編集者が注意・改善・議論を促すことも妥当であると考えます。
- 議論の焦点について 「大言壮語をしないは方針か、ガイドラインか」という議論に焦点を移すことは、問題の本質から外れる懸念があります。私の主張は一貫して「引用文で大言壮語を引用すること自体は問題ないが、大言壮語のタグを貼るべきである」という点にあります。この議論の趣旨から逸れないよう、ご理解いただければ幸いです。
- --赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 10:18 (UTC)
- @シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、私が申し上げているのは、引用文中の「大言壮語」を「タグ」で示すべきかどうか、という非常に具体的な論点です。しかしながら、シェン,アーナリー,ン,アーバァさんのご主張は、議論の焦点を「方針とガイドラインの区別」や「虚偽の問題報告」へと拡大させているように見受けられます。
- 議論を建設的に進めるためにも、まずは「引用文中の大言壮語」が「タグ適用の対象となるか、否か」について、根拠を示してお答えいただけと幸いです。
- これにより、お互いの認識を明確にし、本題により集中できると思われます。もし議論の焦点が異なると感じられる場合、その理由もお聞かせください。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 10:24 (UTC)
- シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、ご説明、本当に有り難う御座います。お返事やご説明いただきたい内容を、以下に箇条書きでまとめました:
- 対応する方針はWP:SUBSTANTIATE「偏った意見の陳述は、本文内で帰属化する方法でのみ提示することができます。たとえば、「ジョン・ドウは最も優れた野球選手である」という意見を表す陳述について、ウィキペディアでは、それがまるで事実であるかのごとく断定的に記してはいけません。「ジョン・ドウの野球技能は、アル・ケーラインやジョー・トーリといった野球関係者から賞賛されている」というように、事実に即した意見を扱った記述としてならば、記事に含めることができます。それでもなお、意見は検証可能な情報として適切に出典を提示した上で記載されなければなりません。」だと思われます。ただ、現行の記事には「評価」節が存在しないため、WP:LS「話題の重要性を強調する時には、相応に重視するという方針によって、公表された信頼できる情報源に従って相対的に重要性を反映させるべきです。これは導入部と記事本文の両方で当てはまります。もしこれら2つの部分で重視の度合が異なれば、その不一致の解消に努めるべきです。重要な情報は、記事の導入部以外の部分で扱われていないなら、導入部でも取り上げないようにすべきです」に照らし合わせて若干不調和気味だなという印象はあります。--Nux-vomica 1007(会話) 2024年12月18日 (水) 04:36 (UTC)
- 中立的なご回答、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:46 (UTC)
- 赤葡萄酒さんに苦言を。自身が書き込んだことについて勝手に内容を除去しないでください。履歴を追わないと議論相手との会話に齟齬が生まれてしまいます。取り消すなら取り消し線、取り消した際にも署名とタイムスタンプは付けてください。--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 08:08 (UTC)
- なるほど、ご提示いただき、本当に有り難う御座います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 08:15 (UTC)
- 一 私も、@ぷにを さんと同じことを感じていました。
- 二 @赤葡萄酒 さんはHelp:ノートページ#自分のコメントを、ぜひ読んで、理解していただきたいと思います。
- 三 これは私の感想なので、今まで書きませんでしたが、少しだけここに書かせてほしいことがございます。ご気分を害すようでしたら申し訳ありません。
- イ 井戸端には、方針やガイドライン、主要なテンプレートについて深く理解する「リテラシーの高い人」がそれなりにいます。
- ロ そうでなくとも、秘密のルールではないので、気になった人は参照しながら議論に参加できます。
- ハ ガイドライン「大言壮語をしない」や、テンプレート「大言壮語」(大言壮語タグのことです)を読んだ議論の参加者で「引用文の中の大言壮語に対して、大言壮語テンプレートを貼るべきだ」と主張する人は、@赤葡萄酒 さんだけです。
- ニ もちろん、ウィキメディアは多数決制ではありません。ですが、@赤葡萄酒 さんだけが正しいと感じるルールで運用しているわけでもありません。
- ホ 私のことを「中立の立場」と評価してくださるのは、背筋の伸びる思いがいたします。しかし、それと同時に「私の書いた返信は一つも理解していただけていないのかな?」と、無力感に苛まれています。というのも、
- と、一貫して私は「@赤葡萄酒 さんの側ではない意見に賛成し、それを補足していた」つもりです。
- ヘ 確かに「ウィキペディアにおける中立性」に反する議論をしたつもりはありません。しかし、私が「中立の立場」であるならば、この議論に関して、当事者ではあるものの@Gruppetto さんも「中立の立場」から指摘をなさっています。
- 四 物腰が柔らかで、議論の参加度が文量的に高いというだけで、私のことを「話の通じるやつ」だと思っていらっしゃるのでしたら、心外です。
- 五 もしかして私は「自分の主張を通すことにしか興味がない人」と、丸一日議論していたんじゃないか?私は、少しでも説明のページを読めば分かることを、これだけ丁寧に解説されてもご理解くださらない人と議論していたんじゃないか?私はせっかくの休日をまんまと奪われ、他に出来たはずの貢献を出来なかったのではないだろうか?と、こんな気持ちでいっぱいです。
- 六 もう私は@赤葡萄酒 さんのズレた議論で「論点をずらさないで」や「勘違いなさらないで」といった、屈辱的で上から目線な返信にはうんざりしています。私がアメリカの日本語に詳しかったら理解できたかもしれませんが、日本国の内国民として日本国日本語しか話せない私にとっては、本当に日本語を母語としているのかと、疑問を抱くほど理解が出来ませんでした。
- 七 私は本議論における「大言壮語」の解釈につき、もっぱら@Gruppetto 氏の先に述べたるとおりと理解し、よって@赤葡萄酒 氏の述べる論は受け入れざると判断し、私の主張の結論とする。なおかつ以降、議論の参加者の当然の権利として、また本件の当事者ではないことなどから本議論に対する責を持たざるため、余談なく本議論を辞して、@赤葡萄酒 氏を除く利用者による言及があるまで返信を控える。
- --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 12:00 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。まず、議論の焦点は「大言壮語の引用文がある記事における、大言壮語タグの使用方法」に関するものであり、私が懸念している点は、そのタグの使用が本当に適切であるかどうか、そしてその正確な使用方法を尋ねているということです。
- シェン・アーナリー・ン・アーバァさんが言った次のような言葉:
- 1.「私の書いた返信は一つも理解していただけていないのかな?」
- 2.「私はせっかくの休日を奪われ」
- 3.「私は大言壮語に対する解釈は正しい」
- 4.「私は中立の立場から指摘をなさっています」
- 5.「ズレた議論で」
- 6.「勘違いなさらないで」
- 7.「屈辱的で上から目線な返信」
- 8.「私がアメリカの日本語に詳しかったら理解できたかもしれませんが、日本国の内国民として日本国日本語しか話せない私にとっては、本当に日本語を母語としているのかと、疑問を抱くほど理解が出来ませんでした。」
- などの表現は、議論の焦点である「大言壮語タグの使用方法」という点から逸れてしまう可能性があります。「Wikipedia:礼儀を忘れない」や「Wikipedia:個人攻撃はしない」に素直に従い、感情的な反応が議論に影響を与えないよう、事実や方針・ガイドラインに基づいた建設的な議論を進めましょう。
- 私は一貫して中立的な立場を取っており、シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの意見にも敬意を表しつつ、その立場は変わりません。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 13:37 (UTC)
- ちょっとした余談ですが、私がこれほどまでに冷静な言葉を使う理由は、議論は本来、感情的になりすぎず、過度に自分の感情を加えるべきではないからです。もし議論自体が中立的で善意に基づいているのに、一人の言葉が原因で他の人を不快にさせ、それによって本来正しいことが誤解され、非難されるようになるのであれば、それは非常に損をすることになるのではないでしょうか?
- ですので、今後も私は自分の個人的な感情を極力排除し、冷静に答えるつもりです。シェン・アーナリー・ン・アーバァさんに不快な思いをさせてしまい、本当に本当に申し訳ございませんが、事実は事実であり、間違っていることは間違っていると言うべきです。焦点は「引用文に大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」に絞るべきだと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 13:58 (UTC)
- 赤葡萄酒さんに苦言を。自身が書き込んだことについて勝手に内容を除去しないでください。履歴を追わないと議論相手との会話に齟齬が生まれてしまいます。取り消すなら取り消し線、取り消した際にも署名とタイムスタンプは付けてください。--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 08:08 (UTC)
- 中立的なご回答、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:46 (UTC)
人物名はフルネームか、名姓のみか
[編集]はじめまして。最近、サッカー選手・パプ・ムッサ・コナテについて、サッカーサイトや外国語版Wikipediaなどで、フルネームより「ムッサ・コナテ」の方が多く一般的に使われている、との理由で改名提案をしたのですが、反対(消極的)意見と平行線状態になっております(ノート:パプ・ムッサ・コナテ)。また、スペイン語圏の名前でサッカーサイトなどでは「名・姓」のみの表記が多く使われていても、記事名が「名・姓・姓」で作られているものも多くあります(例:カルロス・アローヨ・モリーナ)。
Wikipedia:記事名の付け方#人名-6、「ミドルネームは原則として省略」となっていますが、ミドルネームに限らず、色々なサイトや外国語版などで、フルネームではない形の表記(名姓のみなど)が多く使われている場合、また、あるいは同名の人物がいるような場合など、(a)フルネーム、(b)サイトなどで多く使われている名姓のみなどの形(必要によっては曖昧さ回避の括弧つき)、どちらを記事名にした方がいいのか、過去の議論での方針やご意見などありますでしょうか。最近、同じ様な理由でWikipedia:改名提案を出すことが多いのですが、賛否が平行線になることも多いのでご意見いただけるとありがたく思います。--Aki no Momijigari(会話) 2024年12月18日 (水) 11:19 (UTC)
- コメント ノート:パプ・ムッサ・コナテを読めば既に説明されているのでは。
- (既に説明を受けている通り)原則は「まず何よりも「日本語話者の大多数にとって、最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」である必要があります」です。これをいくらか具体化したのがWP:CRITERIAです。すなわち「認知度が高い」「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」「首尾一貫している」の5条件に最も合致するものを選択することになります。ただし、どれかの条件を満たすために、どれかの条件を妥協することはあります。
- 本件の場合「ムッサ・コナテ」にしてしまうと別記事と記事名が被る、という状況なので「曖昧でない」に抵触してしまいます。
- 「ムッサ・コナテ (サッカー選手)」ならありえるということですが、たとえば、「ムッサ・コナテ」表記が多数派だ、ということを具体的証拠を列記し示せば、いくらか賛同は得やすくなるかもしれません。それにはいくらか手間をかけての調査が必要でしょう。サッカー雑誌を買い集めるとかね。
- 現実の個別的事情・用例を無視してルールだけに頼る、ルールに合わせるためだけに改名する、というのは賛同を集めにくいでしょう。
- 程度問題の面はありますが、既にルールを示して説明されたものを、場所を変えたり一般化しようとするのはWP:IDIDNTHEARTHAT的です。「善意に基づいて」提案したのでしょうけれど、あなたの意見は受け入れられなかった。じゃああきらめるか、と割り切ることも時には必要です。--柒月例祭(会話) 2024年12月18日 (水) 11:43 (UTC)
- (補足)「一般化しようと」というのは、「パプ・ムッサ・コナテ」の件でミドルネーム抜き案に賛同が得られなかったということで、井戸端で「人名はミドルネーム云々」と話を持ってくるようなことを指します。「パプ・ムッサ・コナテ」の件では「パプ・ムッサ・コナテ」のことを議論しているのであって「人名一般のミドルネーム」の話をしていません。得てして、自分の案を否定された人は、自分の案を通そうとして話を大きく一般化したりしがちなんです。「賛成を得られなかったからしょーがないや」とあきらめればいいだけですよ。多数が参加するWikipediaではよくあることです。--柒月例祭(会話) 2024年12月18日 (水) 11:47 (UTC)
- (返信)個別の議論を一般の場でしようと思っているわけではないのですが、ノート:パプ・ムッサ・コナテの議論が個別の案件の議論ではなく、一般論の話の議論になってきてしまったので、過去に何か同様の議論の結論や方針などあるのかなども含めて尋ねたかったのです。--Aki no Momijigari(会話) 2024年12月18日 (水) 12:28 (UTC)
- (補足)「一般化しようと」というのは、「パプ・ムッサ・コナテ」の件でミドルネーム抜き案に賛同が得られなかったということで、井戸端で「人名はミドルネーム云々」と話を持ってくるようなことを指します。「パプ・ムッサ・コナテ」の件では「パプ・ムッサ・コナテ」のことを議論しているのであって「人名一般のミドルネーム」の話をしていません。得てして、自分の案を否定された人は、自分の案を通そうとして話を大きく一般化したりしがちなんです。「賛成を得られなかったからしょーがないや」とあきらめればいいだけですよ。多数が参加するWikipediaではよくあることです。--柒月例祭(会話) 2024年12月18日 (水) 11:47 (UTC)
- 「編集者の関心よりも読者の関心」という観点においては、一般的に使われているかどうかが理由になってもいいと思います。ただし、今回はムッサ・コナテ (サッカー選手)あたりが妥当だと思います。 Azamyes(会話) 2024年12月18日 (水) 12:10 (UTC)
- コメント Aki no Momijigariさんは以前からWikipedia:記事名の付け方#人名-6を根拠としたサッカー選手の記事名の「簡略化」に積極的ですが、チアゴ・アレシャンドレ・メンデス・アウベス(ノート / 履歴 / ログ / リンク元)を「チアゴ・アウベス (サッカー選手)」に議論なく改名されたのを当方が咎めたこともあります。その上で、今回パプ・ムッサ・コナテ(ノート / 履歴 / ログ / リンク元)の改名が一般論に波及して暗礁に乗り上げている為こういう議論を立ち上げられたのだと思いますが、そもそもWikipedia:記事名の付け方#人名はWP:CRITERIAという基本方針があった上での「一つの目安」でしかないと考えており、サッカー選手に関しては「どういう呼称(登録名)になっているか」「同じ呼称(登録名)の人物がいる場合どういう曖昧さ回避をすべきか」ということを勘案すべき話であり、一律に何らかの杓子定規を適用すべきだとは考えません。--Bsx(会話) 2024年12月18日 (水) 12:30 (UTC)
- コメント こちらでは一般論として。人名-6は要改訂ですね。英語版の見落としがこんなところに残っているのは計算外です。複姓との混同は手当てすべきですし、英米系を離れると通用しない「ミドルネーム」の問題は逆の取り扱い(「省略されることが多く重複しないなら省略してもよい」)の方が扱いやすいでしょう。そしてブラジルのサッカー選手がなぜここにあるのかはわかりません。--Open-box(会話) 2024年12月18日 (水) 15:39 (UTC)
- コメント サッカー選手の名前とはあまり関係ない人名-6についての一般論ですが、結婚後に複合姓を使っていた人の記事がおそらくミドルネームを省く規定のせいであまり使用されない表記の名前で立項されていたことなどもありますので(厳密に言うと姓がふたつある扱いなのでこの場合はミドルネームではないのですが)、Open-boxさんがおっしゃるようにミドルネームは「省略されることが多く重複しないなら省略してもよい」という書き方に改訂したほうがよいようには思いますし、複合姓を使っている人についてももう少し整理された規定があったほうがいいとは思います。--さえぼー(会話) 2024年12月25日 (水) 09:41 (UTC)
- さえぼーさん、コメントありがとうございます。さえぼーさんはこの話題の経緯をご存知か分かりませんが、私の問題提起について説明させていただくと、このページの冒頭部分にも書いておりますが、外国語版の記事名であったり、(サッカーの場合)サッカーサイトなどで「名姓」のみの表記が多く使われていても、記事名が「名姓姓」で作られているものなどについて問題提起をしております。
- 例えばパプ・ムッサ・コナテ(これは複合性ではないですが)もそうですが、他にもノート:カルロス・アローヨ・モリーナやノート:フェリックス・サンチェス・バスなど、「名姓」のみの表記が多くみられるのに、曖昧さ回避(「名姓 (サッカー選手)」のような記事名になること)を避けるために「名姓」にすることを反対されております(「名姓姓」を主張されている)。それはどうなのか、という問題提起です。
- 複合性で一般的に浸透している人物は、複合性(「名姓姓」)の記事名で問題ないと思っています。--Aki no Momijigari(会話) 2024年12月25日 (水) 10:56 (UTC)
- ここが逆なんですね。あえて省略形に寄せるので、「省略形が一般的に浸透」ぐらいまで行く必要がありますが、これはほぼ不可能。日本に基盤がない人物の知名度なんて高が知れています(チアゴ・アレシャンドレ・メンデス・アウベスならこの理由が使えましたが、この理由を捨てて省略形にしたケースとしてネディエリコ・ゼリッチがある以上は自己矛盾になります)。そこで「最も曖昧でなく、最も理解しやすいもの」となります。ここで問題なのは、「省略形になる理由」で「英語版の踏襲が見られるWikidata」(自己参照の上、当該言語版ですらないので論外)、「データサイトの仕様」(先方の技術的限界は理由になりません)を無視した主張、確立している曖昧さ回避の放棄理由としてはいずれも弱いですが、この二つを主に理由としているのでは問題でしょう。それでもまだ「日本語メディアが英語の引き写しでやらかしてる」とか「ミドルネーム」なら検討の余地はありますが、他の正当化できる理由となるとほとんどないと思われます。加えて曖昧さ回避の調査が甘いですね。重複を考えていないのは数々の依頼から明らかです。むしろ愛称で通用している人物の置き換えの方が可能性はあります。--Open-box(会話) 2024年12月25日 (水) 14:12 (UTC)
- コメント サッカー選手の名前とはあまり関係ない人名-6についての一般論ですが、結婚後に複合姓を使っていた人の記事がおそらくミドルネームを省く規定のせいであまり使用されない表記の名前で立項されていたことなどもありますので(厳密に言うと姓がふたつある扱いなのでこの場合はミドルネームではないのですが)、Open-boxさんがおっしゃるようにミドルネームは「省略されることが多く重複しないなら省略してもよい」という書き方に改訂したほうがよいようには思いますし、複合姓を使っている人についてももう少し整理された規定があったほうがいいとは思います。--さえぼー(会話) 2024年12月25日 (水) 09:41 (UTC)
出典として提示されている動画から確認できない事項を書いている編集を見つけた場合どのように対応するのが良いか
[編集]大園桃子の記事を見ていて以下のような文言が加筆されていることに気づきました。
結論から書くと、提示された大園桃子のYouTubeチャンネルの動画内の冒頭部分で「諸般の事情で同行した人の名前を出したり、姿を撮影することができません」と述べられていて、動画からは筒井あやめが同行していたと確認することはできません。
一方で、筒井あやめの方は『乃木坂工事中』の放送で夏のコンサートツアー後のオフの間に旅行したと述べる回があるのですが(YouTubeの乃木坂配信中の公式アーカイブで当該回は確認できるはず)、こちらでも同行した人の名前は出てきません。
検索をかけてみると、
「大園と筒井両名のSNS(Instagram)のポストを見たファンが2人が同じ時期に同じ場所に旅行に行っていたようなポストをしていたので、大園と筒井の2人で旅行したのでは?」とまとめた芸能ニュース(コタツ記事)をいくつか見かけたのですが、そのような内容の記事を出典に使えるわけがないので、問題の記述は除去するのが良いのかや、こういう言い方は気が引けますが虚構に近い加筆をした利用者さんにどうアプローチするのが良いのかなど最善の対応がわからないので井戸端にお伺いしてみました。--122.130.164.182 2024年12月19日 (木) 04:59 (UTC)
- 返信 (IP:122.130.164.182(会話 / 投稿記録)宛) つまり、IP:122.130.164.182(会話 / 投稿記録) さんが、出典ということになっている動画を検証したところ「そのような内容が存在しない」という結果であったのですね?
- 一 であれば、差し戻すなり、編集で取り去るなりしてください。余力があれば、問題の記述のある記事のノートにその旨をお知らせするといいでしょう。出典として指定されていた件の動画に、それの出典として十分な内容はありゃしませんでした。などとあなた自身の言葉でね。
- 二 そして、間違った出典を使って編集をした利用者には、例えば会社や学校で、同僚や上司、先生に、間違いがあったことをご報告するときのように丁寧に、しかし「気をつけてください」という念押しは忘れずに対応してください。
- 三 ただし、人間関係に「最善の対応」などというものは存在しないことに気をつけてください。
- 四 また、私はその動画を確認したわけではないし、アイドルの話はさっぱりなので、そもそもあなたの指摘が正しいかどうかは、私は判断しかねます。あくまでご自身の責任で編集してくださいね。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 13:31 (UTC)
井戸端の「モバイルビュー・アプリ」に関する提案
[編集]モバイルビュー
[編集]ウェブ上の、m
で始まるドメインについて。
一 デスクトップ版と異なり、井戸端からサブページの編集へのリンクが機能していない。 --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 14:21 (UTC)
二 井戸端のサブページは、もっぱら単節からなるため、見出しの折りたたみ設定にかかわらず展開してはどうか。 --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 14:21 (UTC)
モバイルアプリ
[編集]少なくとも Android Pixel 8 において。
一 井戸端の節へスクロールしない。 --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 14:21 (UTC)
二 井戸端の目次がスクロールバーに表示されない。 --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 14:21 (UTC)
どれも、普通のページではない井戸端関連のページであるがゆえに、普通のページでは機能するものが機能していないだけ。なのでしょうが、煩わしいかどうかでいえば煩わしいので、私の個人のわがままかどうかお尋ねする次第です。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 14:21 (UTC)
例を自作し、記事に例を加筆ことは独自研究に該当するのか?
[編集]現在、とある記事を加筆中ですが、このような文を作りました。
『ある対象を知識の対象としてイメージする事と、意志の目的としてイメージする事では明確な違いがあるようにも見えるが、イメージ(表象)が属している意識体系の違いに過ぎないともいえる。例を挙げるとするなら、同じコップ一杯の水をイメージする場合において、外部の対象と結びつける場合(例:「生理的食塩水を作るために水を用意する。」)は知識的対象となるが、自分の欲求と結びつけた場合(例:「のどが渇いたので水をコップに注いだ。」)は意志の目的となる。』
太字の部分以外は出典を明らかにできるのですが、太字の部分は私が作成加筆したオリジナルの文になります。出典に基づいて記述するとイメージが湧きにくいので、例をあげてみたいのですがこの太字部分は独自研究に該当するのでしょうか?独自研究で何が除外されるかによると、『既存の用語に新たな定義を与える。』や『他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料を提示することなく加筆する。』とあります。これらの独自研究と認定される編集に該当する可能性の有無をお教えいただけると幸いです。--Earthbound1960(会話) 2024年12月26日 (木) 23:25 (UTC)
- 特にご意見も無いようなので「例」を加筆しないことにしました。失礼しました。--Earthbound1960(会話) 2024年12月28日 (土) 22:17 (UTC)
何で入れてるのにエラー?
[編集]refのやつ,ちゃんと必要事項を入れているのにエラーになります。何でなんでしょう?
該当ページ→利用者:背後のトモモ/下書きノート/なるり--背後のトモモ(会話) 2024年12月27日 (金) 13:05 (UTC)
- 返信 (背後のトモモさん宛) 「=」(全角イコール)になっている箇所がありますよ。--えのきだたもつ(会話) 2024年12月27日 (金) 13:09 (UTC)
またrefでエラー!今度は入れてるはずなのに</ref>が不足⁉︎
[編集]あぁまだ下書き段階でよかったです。どうすればイイですか?全角でないコトは確かめたはずです。--背後のトモモ(会話) 2024年12月28日 (土) 00:37 (UTC)
- すみません。該当ページ書き忘れてました。
- 利用者:背後のトモモ/下書きノート/アニメな時間--背後のトモモ(会話) 2024年12月28日 (土) 00:44 (UTC)
- H:REFNESTをお読みください。あと、編集の仕方の質問はWikipedia:利用案内の方が適切です。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年12月28日 (土) 00:52 (UTC)
新規立項された記事について
[編集]先日とある記事を新規立項したのですが、一部不備があり管理者によって削除されました。ただ今後復帰依頼や再立項をしたいと考えています。その時に、以前削除された記事を参考にしたい(正直なんの出典を挿入したか覚えていない)のですが、私からは見れません。管理権限があれば見ることができると思うのですが、見られないので、とても不便です。そこで、削除された利用者のみ、削除されたページをみることができる(閲覧専用)ようにできないでしょうか。このような仕様変更ができるのかは存じ上げませんが、どなたでもご意見をお聞かせください。--平和第一(会話) 2024年12月28日 (土) 14:55 (UTC)
- 削除されたページを一般利用者が見るには復帰するしかありません。Wikipedia:削除の復帰依頼で「復帰して利用者サブページへ移動して下さい」とでも言えば、受け入れてもらえるのではないかと思います。--FlatLanguage(会話 / 投稿) 2024年12月28日 (土) 17:02 (UTC)