Wikipedia:井戸端/subj/引用文には大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けないほうが良い?
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引用文には大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けないほうが良い?
[編集]現在の「交響曲第3番 (ブルックナー)という記事には、次にような言葉が書いております:
この作品は「難解」と評されており、ブルックナーの芸術的ブレイクスルーと見なす者もいる。ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」。この作品はブルックナーの交響曲の中で最も改訂が多いことで知られ、少なくとも6つの版が存在し、そのうち3つが現在でも広く演奏されている。
- 私はこれを「大言壮語」として削除しようとしましたが、Gruppettoさんは「引用#日本法における著作物の引用」を理由に、「大言壮語的な表現があってもそのまま表現すべきだ」と主張し、元の大言壮語のあるバージョンに戻しました。
- その後、私は「引用の原文の大言壮語をそのまま残したいなら、せめて大言壮語のタグを貼り付けたほうがよい」と考え、そうしました。しかし、Gruppettoさんは「引用文はWikipedia:大言壮語をしないに該当しない」として、この貼り付けを取り消しました。
- 私が「Wikipedia:大言壮語をしない」を調べたところ、「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」といった言葉や方針は一切見つかりませんでした。
このままでは、Gruppettoさんとの編集合戦になる可能性があります。そのため、もしGruppettoさんが再び私の編集を差し戻した場合、私は何も行動せず、一旦立ち止まって様子を見ます。そのうえで、此処で最善の解決方法を教えていただきたいと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 03:55 (UTC)
- はい。引用文に大言壮語があるときは、大言壮語のタグを貼り付けないほうがいいです。
- 理由: なぜならばすでに指摘のある通り、その方針は「私たち編集者は、記事に自分で文章をまとめて書くときに、大言壮語をしてはいけない」というものです。つまり「私たち編集者の言葉ではない引用文を、翻訳したり中略したりして記事に書くときとは関係のない方針」だからです。
- ちなみに(私は、外国の日本人が話す日本語について詳しくない、ですが)、日本の日本語では「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください。」という文章を読むと、そういうふうに理解します。
- そして「引用文の表現が、大言壮語だから書き直した」ならば、その引用文は「言っていないことを言ったとする引用文」になるので、問題です。
- 一 なぜならば、ルドルフ・クロイバーは「ブルックナーの有名な作品の中で最初に作られ、彼の独自の技法が融合した作品」とは言っていないからです。
- イ 私はドイツ語の「So eröffnet die Dritte die Reihe der Brucknerschen Meisterschöpfungen, bei denen sich Erfindungskraft mit monumentalem symphonischem Gestaltungsvermögen paaren.」を辞書を引いて読んでみました。
- ロ @赤葡萄酒 さんが「有名な作品」という表現に変えた「Meisterschöpfungen(マイスターシュプフンゲン)」という単語は「マイスター+作られたもの(作品)」という意味の複数形です。
- ハ ドイツ語の「Meister(マイスター)」という表現を翻訳して「有名な」とするのは、おそらく間違いです。やっぱり、ルドルフ・クライバーは「MeisterCreation(s)、マイスター作品(群)」、つまり「傑作(群)」といっています。
- 二 「引用文に大言壮語がある」という理由で、大言壮語タグを貼り付けることは、玉音放送が引用してある記事にも、大言壮語タグを貼り付けなければならないということです。おかしいですね。
- イ 玉音放送は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と始まりますね。
- ロ 日本語の表現として「同じリズムの文章を繰り返す」という書き方は、とても礼儀正しい表現です。さらに「することが難しいことをする(〇〇難きを〇〇)」という書き方も、とても礼儀正しい表現です。
- ハ 礼儀正しい表現ですが、ウィキペディアを編集する私たちは、私たちの書く文章として記事の中で、そういった表現を使ってはいけません。なぜならば、そういった表現は「大言壮語」だからです。
- ニ ですが、引用文の中の大言壮語は関係ありません。ですからもちろん、大言壮語がある玉音放送を引用しても、大言壮語タグを貼り付ける必要はありません。
- 一 なぜならば、ルドルフ・クロイバーは「ブルックナーの有名な作品の中で最初に作られ、彼の独自の技法が融合した作品」とは言っていないからです。
- 方針の書き方が、かしこまった文章なので、すこし読みにくかったかもしれませんが、日本語版ウィキペディアを編集するならば読めたほうがいい程度です。ですから、この件は@Gruppettoさんの言っている方針の理解が、正しいでしょう。@赤葡萄酒さんが、編集の手を止めてくれてとても助かりました。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 06:05 (UTC)
- シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、これほどご中立的なご回答を頂き、心より感謝申し上げます。本当に誠にありがとう御座います。
- 玉音放送に関してですが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の中の「耐え」と「忍び」について、前者は「動詞の連用形」として使われており、後者は「普通の動詞」として使用されているものです。「Wikipedia:大言壮語をしない」には、「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」と明確に記載されています。この点について混同されないようお願い致します。したがって、昭和天皇陛下の玉音放送は大言壮語であるわけがありません。今回の件と昭和天皇陛下の御言葉を同一のケースとして捉えることは適切ではありません。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:45 (UTC)
- 日本語版ウィキペディアに、ドイツ語の文章を引用する際は、表現は原文のママで、常体口語の現代日本語に訳するべきです。
- そして、大言壮語タグは「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際」に貼り付けるものです。
- 引用文を書いているのは、記事の執筆者ではありません。
- そして、記事の執筆者とは、ウィキペディアの、その記事の編集者のことです。
- 記事の執筆者ではない「引用文を言った人」の文章にどのような大言壮語が含まれていたとしても、方針に反する大言壮語ではないので、タグを貼る必要がありません。
- 厳密に言うと、修正する必要のある問題を報告するためのタグですから、問題のない引用文に大言壮語があったとしても貼ってはいけません。
- 記事の問題タグは、技術的制約などの一部を除いて「後で誰かが修正すべき問題」に対してだけ貼り付けるものです。そのままにすべき表現に対して問題タグ貼ることは、ウソの問題報告ですから、申し訳ないですが「あらし」とみなされるかもしれません。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 08:09 (UTC)
- 単刀直入に申し上げますと、シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの主張には論理的にいくつかの大きな誤りがございます。以下に、その論理が誤っている理由を説明いたします。
- 1.「記事の執筆者」についての誤解:
- 「記事の執筆者」という言葉は、編集者を指しますが、大言壮語のない引用文をウィキペディアに追加するのも編集者の責任です。その引用文がウィキペディアの基準に適合するように編集されなければなりません。引用元が誰の言葉であっても、その言葉がウィキペディアの中立性方針に合致するように扱うことが重要です。
- 2.「記事の執筆者が自分の言葉で要約して書く際」について:
- このルールは記事全体に対する指針であり、引用文にも同様に適用されます。「Wikipedia:五本の柱」はウィキペディアの最大の原則であり、たとえ引用が他の人物の言葉であっても、その言葉に大言壮語や過度な表現が含まれている場合、それを無視することは五本の柱の方針に反します。したがって、引用文にもタグをつけることが適切だと考えます。
- 3.引用文の中立性の維持:
- 引用文も記事の一部であるため、中立性と客観性が求められます。引用に大言壮語が含まれていれば、タグを付けて読者に偏りを知らせることが重要です。
- 4.ルールの明確さ:
- 現時点の「Wikipedia:大言壮語をしない」には「タグ」に関するルールが明確に記載されていません。「大言壮語の引用文は編集者ではなく、他の人が言ったからタグを貼る必要がない」という主張は「Wikipedia:大言壮語をしない」には記載されていません。この主張はシェン・アーナリー・ン・アーバァさんの独自研究に過ぎません。
- 5.引用文でも大言壮語タグをつけるべき理由:
- 引用文が大言壮語であれば、常識的に考えて、そのまま引用文にタグを付けるべきです。これは、大言壮語の部分を読者に明示することが目的です。
- このため、シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの主張は正当ではない。何が理由であれ、ウィキペディアの方針に従う限り、引用文に含まれる大言壮語にはタグをつけるべきです。引用文を原文通りに引用することは正しいですが、大言壮語の引用文をカバーすることは避けるべきです。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 09:05 (UTC)
- 一 @赤葡萄酒さんは、「耐え」や「忍び」は動詞の話だから関係がないといいますが、本当に「大言壮語をしない」は読みましたか?
大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです。例えば以下のような表現を使うことは避けてください。
- 「重要な……」「最も重要な……の一つ」「重大な……」
- 「最も影響力のある……」「最善な……の一つ」「議論の余地のないほど……」
他にも「…明白な、伝説的な、美しい、話題となった、究極の、非常に、極めて、絶大な、屈指の、有数の、有力な、国民的な、とてつもなく、有名な、は必読、過ぎる…」などです。
- と書いてありますね。
- 二 句、フレーズとして大言壮語であれば「話題となった」など、名詞と助詞と動詞で構成する表現ももちろん避けなければいけません。
- 三 「大言壮語をしない」という方針は「大言壮語な表現を避けてください」とあることから分かるように「大言壮語な表現であるならばすべて避けてください」という方針です。つまり「過剰な形容動詞や形容詞、副詞」はもちろん避けてください。大言壮語な表現も避けてくださいと書いてあります。
- 四 目を通しただけで理解したつもりになることは、誰だってあります。利用者ページに「Wikipediaの方針やガイドラインをよく読んで」いるとありますが、今回の件でそれが「斜め読み」をしていたことに気づけたでしょう。私も自分の認識を過信してしまいますから、穏やかでない心中もお察しします。ですから、あまり気負いせずに編集者としての作業を続けていただけると幸いです。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 08:57 (UTC)
- もう時間がかかりすぎるので、これからは非常に丁寧な言葉を使わず、礼儀正しさを保ちながら普通の日本語を使います:
- 「耐え」や「忍び」が動詞だから関係がないという主張について: これは論理的に誤っています。「Wikipedia:大言壮語をしない」という方針では、過剰な形容動詞や形容詞・副詞の使用を避けることが、明確に求められていますが、動詞に関する言及は特に除外されていません。独自研究を加えるのは避けるべきです。
- 二重基準の問題: もしシェン・アーナリー・ン・アーバァさんが「大言壮語な表現を避けてください=動詞を含むすべての大言壮語な表現に適用されるべきだ」と言いたいのであれば、引用文の中で使われる大言壮語も避けるべきだと思います。「Wikipedia:大言壮語をしない」には、動詞や引用文に関する明確な言及はありませんが、なぜ引用文の大言壮語は許容され、動詞の大言壮語は許容されないのでしょうか。
- 「斜め読み」の指摘について: 「Wikipediaの方針やガイドラインをよく読んで」という指摘は非常に正当ですが、その後の「斜め読み」や「過信」という表現は、不適切です。赤葡萄酒(会話)ウィキペディアの方針に従うべきであり、相手を攻撃するような表現は建設的な議論を妨げるので、控えたほうが良いでしょう。赤葡萄酒(会話)
- 結論: シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの主張は、一部確かに正当ではありますが、論理的に誤っている部分や矛盾も多く含まれています。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 09:34 (UTC)
- もう時間がかかりすぎるので、これからは非常に丁寧な言葉を使わず、礼儀正しさを保ちながら普通の日本語を使います:
ことの経緯について少々正確ではないことが赤葡萄酒さんによって書かれているので、私Gruppettoからも書いておきます。
- そもそも、交響曲第3番 (ブルックナー)に英語版en:Symphony No. 3 (Bruckner)の冒頭部からの翻訳として、クロイバーの言葉を含む加筆をしたのは赤葡萄酒さんの方です差分。
- ところが、赤葡萄酒氏は「傑作」などの言葉が「Wikipediaの方針にそぐわない」として、引用文であるのにも関わらず表現を改変し、日本語としても些か奇妙な文章となりました差分。
- なので私は、引用である限りは大言壮語的表現があっても正確に引用、翻訳すべきであるとして、より正確に翻訳し直しました差分。
- すると赤葡萄酒氏は大言壮語テンプレートを貼りました差分。
- 私は、これはあくまで音楽学者による評価の言葉の引用であり、記事の執筆者の行動に対するガイドラインであるWikipedia:大言壮語をしないには抵触しないのでテンプレートを除去しました差分。
以上が正確な経緯です。--Gruppetto(会話) 2024年12月18日 (水) 15:01 (UTC)
- コメント Wikipedia:大言壮語をしないでは、冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」とあり、続けて「大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです」とあります。これを逆説的に言い換えると「言及した人物等が明らかな場合や、事実としての情報が明らかな場合は、(そのことを明らかにした上で)記事を単に引き立たせるための表現を用いることができる」ということができ、利用者:Gruppetto(会話 / 投稿記録)さんはこの趣旨をおっしゃっているのではないかと考えるところです。
- 「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」というのはそれだけを見ると少々飛躍しすぎのような気もしなくもないですが、要は「誰がそのように(大言壮語を)述べたか」ということを明らかにしてあれば、大言壮語のタグを貼る必要はないと思います。--Bsx(会話) 2024年12月18日 (水) 04:11 (UTC)
- 横から失礼いたします。もしそうであれば、この件が解決した後、「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関する明確なルール」を追記することが、良い解決策だと思います。
- もし今回の件が「大言壮語のタグを貼らなくても良い」という結論になった場合、「Wikipedia:大言壮語をしない」の内容を改善することを提案いたします。ただ議論を待つだけで、方針自体を放置してしまうと、今後も誤解や論争が繰り返される恐れがあります。
- 改善例として、『「誰がそのように(大言壮語を)述べたか」を明示していれば、大言壮語のタグを貼る必要はない』や、『言及した人物や事実が明らかであれば、(その旨を明示した上で)記事を引き立たせる表現を用いることができる』といった言葉を明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。
- 現時点では「引用文の大言壮語に対する明確な方針や提示が無い」というのが事実であり、方針自体が字数が少なすぎ、また当事者の解釈に依存しすぎているため、誰でも誤解する可能性があります。
- 最後に、「引用文が大言壮語であれば、大言壮語のタグを貼り付けなくてもよい」という点に同意するわけではありません。あくまでも、この件が解決した後の解決策として申し上げるものです。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:44 (UTC)
- もし本気で提案する気であるなら止めませんが、今の提案内容であれば私は反対するでしょう。というのも『記事の執筆者』がしてはいけない、『何を』大言壮語と呼ぶかは既に書かれています。Template:大言壮語にも「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います。」と書かれています。既存の文章で十分と考えます。--ぷにを(会話) 2024年12月18日 (水) 06:03 (UTC)
- もちろん、本気で申し上げております。「Wikipedia:大言壮語をしない」には「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」と明確に記載されています。Gruppettoさんが大言壮語のタグを貼り付けたくない引用文は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」というものであると御座います。ぷにをさんがおっしゃった「『何を』大言壮語と呼ぶか」の理由は、以上で既に解釈していますので、私は本当に本気で御座います。もし本気でない方であれば、早い段階で諦めているはずです。
- また、私は編集中で大言壮語のタグを貼り付けようとした際に、Gruppettoさんがそれを消し戻されました。私は常に「引用文であっても、大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」という原則を守り続けておりますので、此処で解決方法を尋ねたいと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:18 (UTC)
- 「引用文であっても、大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」がWikipedia:大言壮語をしないをどう読んでもそのように理解できる部分がないので困惑しています。「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」における「記事の執筆者」はWikipedia編集者です。Wikipediaの編集者が「自分の言葉で」要約する際に大言壮語することを禁じている。それに従っていない記事にタグ付けられると理解していますがここまでで何かずれがありますか?--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 07:43 (UTC)
- ぷにをさん、ご返事いただき誠にありがとうございます。😊まず、ぷにをさんの主張を尊重しつつ、私の考えを整理して返事させていただきます。
- ぷにをさんの主張:
- 「Wikipedia:大言壮語をしない」のガイドラインは、「記事の執筆者が自分の言葉で要約する際」に焦点を当てている。
- 上記に基づき、「引用文が該当するかどうか」は明記されていない。
- よって、「引用文に大言壮語タグを貼るべきではない」との結論に至る。
- 私の返事:
- 「記載がない=許す」とは限らない 「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関するが記載されていない」という事実は、「大言壮語の引用文をそのまま許容すること」を明確に意味しません。記載がない場合は、「五本の柱」という、Wikipedia全体に適用される基本方針に基づいて判断するのが妥当です。 五本の柱の中でも特に「中立的な観点」に照らせば、大言壮語を含む引用文はWikipediaの中立性を損なう可能性があります。このため、「引用文だから」という理由だけで、大言壮語を放置するべきではありません。
- 過剰解釈や独自研究の回避 「Wikipedia:大言壮語をしない」のルールが不明確であるため、当事者による過剰解釈や独自研究につながる可能性があります。したがって、引用文についての判断は、Wikipedia全体で守られるべき「五本の柱」に基づき、慎重に行うほうが妥当だと思います。
- 結論、以下の選択肢のどちらかが望ましいと考えます:
- 該当の大言壮語のある引用文を、削除する
- 大言壮語の引用文のある記事に、大言壮語のタグを貼り付ける
- ぷにをさんのご意見に深く感謝しつつ、この視点もご検討いただければ幸いです。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 12:27 (UTC)
- 赤葡萄酒さんの意見は1の時点で私(達)と乖離しています。書かれていないのは不要だから書かれていないのです。そして、必要だと考える赤葡萄酒さんが引用でも必要なんだとコメントしていることに対して誰も賛同していません。ここは井戸端ですが、仮に「大言壮語をしない」で内容の改定提案をしたとして恐らく同様です。ここでそういうものだと納得いただくのが良いと思います。これ以上進めばいつまでも納得しないという扱いになってしまうかと思います。--ぷにを(会話) 2024年12月26日 (木) 02:12 (UTC)
- 「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評した人は、記事の執筆者ではありません。
- 「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評した人は、ルドルフ・クライナーです。
- ルドルフ・クライナーの言葉を引用しているのですから、記事の執筆者の言葉が存在するはずがありません。
- もし仮にルドルフ・クライナーがウィキペディアのその記事の執筆者であって、自身の言った言葉を引用したので、引用文だけど記事の執筆者の言葉だとしたら、そんな編集はそもそもしてはいけません。
- 記事の執筆者が、自分の言葉を引用して編集することは、これはこれで方針に反するからです。
- ですから安心してくださいね。そもそも「引用文が、記事の執筆者の言葉ではないし、もしそうだったら大言壮語ではなくて、もっと別の問題」です。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 07:45 (UTC)
- 「引用文が記事の執筆者の言葉ではない」という点については同意します。しかし、以下の点を考慮する必要があります:
- 「記載がない=許可される」とは限らない Wikipedia:大言壮語をしないに「引用文に関する記載がない」という事実は、「大言壮語の引用文をそのまま許容すること」を意味するわけではありません。そもそも「大言壮語の引用文を明確に許容する」という記述や、その意図を示す記載はWikipediaには存在しません。
- 引用文の選択には執筆者の責任が伴う 記事の執筆者がどの引用文を採用するかは編集の一環であり、その選択には責任が伴います。特に「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」といった大言壮語の表現が存在する場合、その引用の適切性が問われるべきです。
- 「引用だから免責される」という誤解を避ける ルドルフ・クライナーが発言したものであれ、Gruppettoさんが引用したものであれ、「他人が言った事であれば免責され、どのような大言壮語でも自由に引用できる」というわけではありません。引用文もまた記事の一部であり、その内容が大言壮語と見なされる場合は、タグを貼るなどの対応が適切かつ妥当であると考えます。
- 結論:Wikipedia:大言壮語をしないに引用文に関する明確なルールが記載されていない以上、独自解釈を加えるのは適切ではないと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 12:43 (UTC)
- 「引用文が記事の執筆者の言葉ではない」という点については同意します。しかし、以下の点を考慮する必要があります:
- 「引用文であっても、大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」がWikipedia:大言壮語をしないをどう読んでもそのように理解できる部分がないので困惑しています。「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」における「記事の執筆者」はWikipedia編集者です。Wikipediaの編集者が「自分の言葉で」要約する際に大言壮語することを禁じている。それに従っていない記事にタグ付けられると理解していますがここまでで何かずれがありますか?--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 07:43 (UTC)
- コメント そもそもの問題として「引用文で用いた(記事執筆者ではない)第三者の言葉」を誰が大言壮語だと判断するのでしょうか。仮にその言葉が中立的ではない(一般的な評価と異なる)のであれば、Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するに気をつければ、敢えてWikipedia:大言壮語をしないで言及すべき事柄だとは思いません。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 08:04 (UTC)
- もし「Wikipedia:大言壮語をしない」に関して問題が生じた場合、井戸端で新しい議論を開き、『引用文における人物への記述に大言壮語が含まれている場合は、「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」の扱いをどうするかについて』討論を始めるべきかと考えます。
- しかし、私の原則は終始「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という点にあります。引用文の中の大言壮語を強引に常体口調に変えるべきではありません。議論の焦点が他の角度に移らないよう、お願い申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 08:13 (UTC)
- 「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という赤葡萄酒さんの主張を“原則”と強調なさるのであれば、「大前提が間違っている」の一言で終わってしまいます。なぜならば(他の方も何度も言及していますが)Wikipedia:大言壮語をしないでは冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください。」とあるからです。引用文は「記事の執筆者が自分の言葉で要約して書く」言葉ではないので(仮に執筆者が自分の言葉で要約してしまったら、それは“引用”の要件を満たしません)、そもそもの要件(「Wikipedia:大言壮語をしない」で取り扱うべき内容)に当てはまっていないのです。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 10:02 (UTC)
- Bsxさん、お返事いただき、誠にありがとうございます。
- 確かに引用文は他者の言葉ですが、「記事の執筆者」ではありません。そのため、私は大言壮語を含む引用文を削除したことは一度もなく、「タグ」のみを付けてきました。「Wikipedia:大言壮語をしない」のガイドラインには「タグ」に関する明確な記載がないため、私は「引用文に大言壮語が含まれていれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきか?」と、井戸端で尋ねたのです。
- 記事の執筆者、つまり「編集者が書いた内容」には明確なルールがありますが、「編集者が引用した引用文」に対する明確なルールがないのが現状です。解釈の余地が多すぎるため、賛成派と反対派が大議論をするのは正常だと思います。
- 私は「引用文が大言壮語であっても、大言壮語のタグは貼り付けるべき」と考えており、その理由は以下の通りです:
- 1.「編集者が他人の大言壮語の引用文を引用し、大言壮語が含まれる記事を読者に見せること」と「編集者自身が大言壮語を記事に書き入れて読者に見せること」は、読者の視点からみると、どちらも大言壮語のある記事になっています。
- 2.何度も言いましたが、私が賛成するのは「大言壮語の引用文を忠実に引用してはいいが、大言壮語のタグを貼り付け、読者に注意を促すことが必要」ということです。もし、大言壮語が存在しているのに大言壮語のタグを貼りたくない場合、その引用文を削除すべきだと思います。
- 3.なぜなら、「五本の柱」に基づいているからです。「Wikipedia:大言壮語をしない」のガイドラインには引用文に対する明確なルールがない以上、ガイドラインよりも立場が上の「五本の柱」に従うべきだと考えます(もしこの論理が間違っているのであれば、私に指摘していただいて構いません)。「五本の柱」の中では「中立的な観点」という方針があるため、「引用文自体が大言壮語である場合、中立的な観点を違反するため、大言壮語のタグを貼り付け、読者に注意を促すこと」は非常に妥当だと思います。
- 長い文で失礼しますが、まとめると『Wikipedia:大言壮語をしないに対する解釈の余地の多さ』や『大言壮語の言葉がすでに記事に出ている』という問題、そして、五本の柱の「中立的な観点」の方針を優先することが私の論拠です。
- 正直言いますと、大言壮語のある記事に、大言壮語のタグを貼り付けるだけのことなのに、何故こんなに複雑化するのか、全く理解できません。今、私は休息します。もし何か疑問やご指摘があれば、明日の午後7時以降にまたお答えします。ありがとうございます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 11:30 (UTC)
- 「正直言いますと、大言壮語のある記事に、大言壮語のタグを貼り付けるだけのことなのに、何故こんなに複雑化するのか、全く理解できません」との仰せですが、{{大言壮語}}のタグの利用をカジュアルに考えすぎなのでは、という懸念があります。{{大言壮語}}の解説文の冒頭には「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います」とあります。ですので、使用するかどうかの大前提が「その表現が『Wikipedia:大言壮語をしない』に抵触するかどうか」なのです。その上で「引用文」を用いている時点で「Wikipedia:大言壮語をしないに抵触するかどうか」の大前提が崩れている、と言うことを申し上げているのです。併せて、五本の柱の「中立的な観点」の方針を優先することを重視なさりたいのであれば、それは「そもそもその引用文を用いるのが適切か否か」という観点になりますので、先に申し上げた「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するで必要十分な結論が導き出せる」ということになります。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 11:58 (UTC)
- 現在の議論の焦点は「大言壮語の引用文に大言壮語のタグを貼るべきか」であり、引用文は「Wikipedia:大言壮語をしない」に適切しない場合、Bsxさんはどのウィキのルールや方針に適切すると思いますか?理由を頂けると幸いです。
- 「Wikipedia:大言壮語をしない」には引用文に関する明確な規定がない以上、「記事の執筆者」を焦点にするのではなく、「引用文そのもの」に焦点を当てるほうが妥当だと思います。
- 議論を複雑にすることで問題が見えづらくなっていますが、私はあくまで「大言壮語の引用文に、大言壮語のタグを貼るべきか」について話しています。
- 私がこの大言壮語の引用文に関する議論を提起した理由は、ウィキの読者に正確な情報を伝えるためです。この点について、Bsxさんは、どのようなタグや解決方法のほうが役立つとお考えでしょうか?
- そもそも、Bsxさんは、「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」という引用文が、大言壮語に該当するとお考えですか?
- --赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 13:06 (UTC)
- 引用文は「Wikipedia:大言壮語をしない」に適切しない場合 → 若干意味不明ですが、引用文(の取り扱い)については「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」で必要十分な結論が導き出せる、というのは重ねて申し上げているとおりです。
- 「Wikipedia:大言壮語をしない」には引用文に関する明確な規定がない以上、「記事の執筆者」を焦点にするのではなく、「引用文そのもの」に焦点を当てるほうが妥当 → 引用文に関する明確な規定がないのはそもそも「Wikipedia:大言壮語をしない」が引用文を“対象としていない”ためですので「引用文そのもの」に焦点を当てるという論法は既に「Wikipedia:大言壮語をしない」における大前提を無視しているとしか言い様がありません。
- 故に「大言壮語の引用文に、大言壮語のタグを貼るべきか」については「否」が結論になりますし、新たなタグや告知は必要ない、という見解です。
- そもそもの「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」という引用文については「ルドルフ・クロイバーの言及であることを明確化する」ことが出来ていればそれ以上の言及はあまり意味がない(大言壮語か否かの評価の対象にならない)と考えます。
- --Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 14:03 (UTC)
- 補足 「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」が大言壮語かどうかについて、仮にもしそれが大言壮語と思うのであれば、それは言い換えれば“作品の評価としては大げさである”という判断なのでしょうから、その引用は作品の評価として適切ではなく、そもそもその引用を使うべきではない、という判断になろうかと思います。だから「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」で必要十分である({{大言壮語}}を貼る必要がない)という結論になるのです。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 21:39 (UTC)
- 「正直言いますと、大言壮語のある記事に、大言壮語のタグを貼り付けるだけのことなのに、何故こんなに複雑化するのか、全く理解できません」との仰せですが、{{大言壮語}}のタグの利用をカジュアルに考えすぎなのでは、という懸念があります。{{大言壮語}}の解説文の冒頭には「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います」とあります。ですので、使用するかどうかの大前提が「その表現が『Wikipedia:大言壮語をしない』に抵触するかどうか」なのです。その上で「引用文」を用いている時点で「Wikipedia:大言壮語をしないに抵触するかどうか」の大前提が崩れている、と言うことを申し上げているのです。併せて、五本の柱の「中立的な観点」の方針を優先することを重視なさりたいのであれば、それは「そもそもその引用文を用いるのが適切か否か」という観点になりますので、先に申し上げた「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するで必要十分な結論が導き出せる」ということになります。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 11:58 (UTC)
- 「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という赤葡萄酒さんの主張を“原則”と強調なさるのであれば、「大前提が間違っている」の一言で終わってしまいます。なぜならば(他の方も何度も言及していますが)Wikipedia:大言壮語をしないでは冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください。」とあるからです。引用文は「記事の執筆者が自分の言葉で要約して書く」言葉ではないので(仮に執筆者が自分の言葉で要約してしまったら、それは“引用”の要件を満たしません)、そもそもの要件(「Wikipedia:大言壮語をしない」で取り扱うべき内容)に当てはまっていないのです。--Bsx(会話) 2024年12月25日 (水) 10:02 (UTC)
- もし本気で提案する気であるなら止めませんが、今の提案内容であれば私は反対するでしょう。というのも『記事の執筆者』がしてはいけない、『何を』大言壮語と呼ぶかは既に書かれています。Template:大言壮語にも「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います。」と書かれています。既存の文章で十分と考えます。--ぷにを(会話) 2024年12月18日 (水) 06:03 (UTC)
- 横から失礼いたします。もしそうであれば、この件が解決した後、「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関する明確なルール」を追記することが、良い解決策だと思います。
- 補足 くだんの文章を拝見しますと、
とあって、言及しているのがルドルフ・クロイバーなる人物であることがわかります。正直なところ、このルドルフ・クロイバーなる人物がどのような人物でどのような評価がされている人物か私にはわかりませんが、この人物が音楽評論の分野において一定の評価がなされた人物であれば、ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」
のような表現にすれば、(執筆者の評価による)大言壮語ではない文章にできると思います。--Bsx(会話) 2024年12月18日 (水) 04:20 (UTC)ルドルフ・クロイバーは、第3交響曲を「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評している。- 素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。また、「と評している」といった言葉を「Wikipedia:大言壮語をしない」明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:45 (UTC)
- 赤葡萄酒さんは何か勘違いしているようですが、私があえて「と評している」を加えなかったのは、翻訳元の英語版の文章がそこで終わっており、また引用符が閉じられているのでその言葉がクロイバーによるものである事が明白な為です。また、別の所でも書きましたが、赤葡萄酒さんは強調の目的で赤リンクを使っている様ですが、赤リンクの使い方として間違っていますので今後はおやめ下さい。—-Gruppetto(会話) 2024年12月18日 (水) 07:53 (UTC)
- 赤リンクの使用方法に関しては、まさにおっしゃる通りですね。今すぐ修正致します。同様に、大言壮語の引用文を引用することについても問題ないでしょうか。現在の論点は「大言壮語のタグを貼り付けるかどうか」にあるため、仮に引用が正当であったとしても、大言壮語の表現が含まれているという事実が存在する以上、タグを貼り付けるのが当然かと存じます。引用文だけであっても、タグを回避することは二重基準となりかねませんので、ウィキペディアの中立的な立場を考慮すると、二重基準は出来るだけ避けるべきかと考えます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:09 (UTC)
- 返信 (@Gruppetto 宛) あえて「と評している」を加えない必要事態はなかったと思いますよ。もちろん「あえて」を「わざと加えなかった」ではなく「わざわざ加えなかった」という意味で使っていることは伝わっています(違ったらすみません)。
- 一 翻訳元の英語版Wikipediaでどういう表現になっていたからといって、日本語版ウィキペディアが従う必要はないです。
- 二 翻訳による記事は、以下の手続きが理想的だと認識しています。
- イ 編集履歴を可能な限り継続的にする観点から、レイアウトも誤った記述もほぼ全てそのままに、英語版Wikipediaの翻訳のみをした編集版を一度保存する。
- ロ そのうえで英語版Wikipediaの時点で誤っていた部分や、日本語版での方針に反する部分を編集する。
- 三 そして、引用文の表現について「英語版ではそうだから、わざわざ変える必要はない」というのは、日本語版における記事の内容の差し戻し理由として、決定的ではないでしょう。
- 四 決定的に「大言壮語ではない」というには、引用文の原文を機械翻訳でもいいので訳して見せて「ご覧の通りこの引用文には元から大言壮語があり、そのような文を、ましてや評論として引用している以上、邦訳しても大言壮語をそのままがよい」などと主張するのが適切でしょう。
- 五 仮に「わざと加えなかった」ならば(日本語に正書法はないのでもちろんダメではないですが)、私でも書き換えると思います。引用は、言った人を主格として、
Aは、Bを「C」と言った。
と表記するのほうが自然な日本語だと感じます。 - 六 そして、日本語版ウィキペディアはカーニングのために半角カギ括弧を使わないので、散文の文末に全角カギ括弧が来るのは、
」。
このように二分アキが出来て望ましいかどうかでいえば望ましくないので、避けたほうが無難かと考えます。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 07:21 (UTC)
- 返信 (@赤葡萄酒 宛) 引用文の中に「元から大言壮語があった」ならば、大言壮語だけ抜き取ったり、書き換えたりすることが「誤解を生む引用」です。
- 「引用」とは、誰かの言ったことを「引っ張ってきて用いる」ことです。
- 赤葡萄酒さんは何か勘違いしているようですが、私があえて「と評している」を加えなかったのは、翻訳元の英語版の文章がそこで終わっており、また引用符が閉じられているのでその言葉がクロイバーによるものである事が明白な為です。また、別の所でも書きましたが、赤葡萄酒さんは強調の目的で赤リンクを使っている様ですが、赤リンクの使い方として間違っていますので今後はおやめ下さい。—-Gruppetto(会話) 2024年12月18日 (水) 07:53 (UTC)
- 素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。また、「と評している」といった言葉を「Wikipedia:大言壮語をしない」明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:45 (UTC)
「素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。」 |
—@赤葡萄酒 |
- という @赤葡萄酒 さんの返信から、大言壮語を取り除いてみましょう。
「変化がありますね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの文章表現に不適切な点があることが分かりました。」 |
—@赤葡萄酒 |
- 二番目の、大言壮語を取り除いたバージョンを、@赤葡萄酒 さんは言っていませんね。
- 引用されたルドルフ・クライバーは、確か既に亡くなった方です。しかし、クライバーさんが「傑作」と評価した文章を引用したのに「有名な作品」と言ったことにされたら、クライバーさんは「私はそんな事を言っていない」と抗議してくるでしょう。
- 引用文の表現を変えるのは、ウソを書くことです。いけないことですね。ですから、引用文はできるだけそのまま引用してください。
- 英語版の同じような方針も、同じように解釈されていると思います。--シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 06:32 (UTC)
- シェン,アーナリー,ン,アーバァ.さんのご回答は本当に中立的で、感謝しております。改めて、心よりお礼申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:50 (UTC)
- 勘違いされるかもしれませんが、私の原則は終始「引用文で大言壮語を引用しても構わないが、大言壮語のタグは貼り付けるべき」という点にあります。引用文の中の大言壮語を強引に常体口調に変えるべきではありません。現在の論争は、私が大言壮語のタグを貼り付けた際に、Gruppettoさんがそれを消し戻したことから発生したものです。議論の焦点が他の角度に移らないよう、お願い申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:02 (UTC)
- 変更点を詳しく精査してみると、「素晴らしいです→変化があります」だけの違いですが、「素晴らしいです」も大言壮語の範囲に含まれるのでしょうか。「素晴らしいです」という表現は、「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」という表現を同じ内容で捉えているとは、誤りだと思います。前者は普通の表現で、後者のほうが大言壮語に該当すると考えられます。例えば、同じお金に関する問題であっても、100円の借金を返済しないことと、1億円を詐欺することを同じ状況として扱うのは誤りだと存じます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 07:02 (UTC)
- ええ。おっしゃる通り「借金を返済しない(民法上の債務を履行しない)」ことと「詐欺する(民法上の錯誤を知って表示する、刑法上の罪を犯す)」ことは全く異なることですし、100円と1億円の金額に、計数的で相対的な差が存在することは知っています。
- 一 ですが「素晴らしい」という「修飾語」について「執筆の際に、記事の話題を正当化をするような修飾語を付加する必要はありません。」と明記してあります。ご参照ください。
- 二 そして「文章表現」というのは、そもそも計数的ではありません。計量的です。
- 三 @赤葡萄酒さんがいう「議論の焦点」とは「大言壮語をしない」の方針が対象としていない「引用文の中の大言壮語」に対して、大言壮語タグのテンプレートの説明を無視した「虚偽の問題報告をやりたい」ということでしょう。
- 四 おそらく誰も「虚偽の問題報告をやりたい」という、@赤葡萄酒さんの提案に賛成しません。なぜならば、それは間違っているからです。
- --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 09:32 (UTC)なお、確認したところ「大言壮語をしない」は、厳密には方針ではなく、ガイドラインでした。議論の参加者各位にお詫び申し上げます。
が、どちらも「日本語版ウィキペディアで広く受け入れられ、尊重すべき」として、一般語における「方針」として総称して直ちに問題があるものではないと考えられます。- シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、ご説明、本当に有り難う御座います。お返事やご説明いただきたい内容を、以下に箇条書きでまとめました:
- 「素晴らしい」という修飾語について シェン・アーナリー・ン・アーバァさんのおっしゃる通り、ウィキペディアでは過度な修飾語の使用を避けるべきです。しかし、「素晴らしい」という表現が必ずしも「大言壮語」に該当するとは限りません。文脈次第では適切に使用される場合もありますので、具体的な例を挙げていただければ、より実りある議論ができると考えます。
- 引用文の大言壮語について 引用文における大言壮語の扱いについてですが、「Wikipedia:大言壮語をしない」は記事全体の表現を対象としたガイドラインであり、ウィキペディアの五本の柱に違反や矛盾がない限り、ガイドラインには従うべきだと考えます。もし適用できないと主張されるのであれば、その理由を具体的にご説明いただければ幸いです。
- 虚偽の問題報告について 「虚偽の問題報告をやりたい」というご指摘についてですが、そのような意図は一切ございません。私が問題視しているのは、記事中の表現が「大言壮語」に該当するかどうかという点のみであり、そこに焦点を絞った冷静な議論を行いたいと考えています。感情的な言葉遣いや誤解を招いてしまった場合には、お詫び申し上げます。
- ガイドラインについて ご指摘の通り、「Wikipedia:大言壮語をしない」はガイドラインであり、方針ではないことは事実です。ただし、ウィキペディアにおけるガイドラインは単なる参考情報にとどまらず、編集作業において広く受け入れられた基準として尊重されるべきものです。このため、ガイドラインに反する編集者に対して、ほかの編集者が注意・改善・議論を促すことも妥当であると考えます。
- 議論の焦点について 「大言壮語をしないは方針か、ガイドラインか」という議論に焦点を移すことは、問題の本質から外れる懸念があります。私の主張は一貫して「引用文で大言壮語を引用すること自体は問題ないが、大言壮語のタグを貼るべきである」という点にあります。この議論の趣旨から逸れないよう、ご理解いただければ幸いです。
- --赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 10:18 (UTC)
- @シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、私が申し上げているのは、引用文中の「大言壮語」を「タグ」で示すべきかどうか、という非常に具体的な論点です。しかしながら、シェン,アーナリー,ン,アーバァさんのご主張は、議論の焦点を「方針とガイドラインの区別」や「虚偽の問題報告」へと拡大させているように見受けられます。
- 議論を建設的に進めるためにも、まずは「引用文中の大言壮語」が「タグ適用の対象となるか、否か」について、根拠を示してお答えいただけと幸いです。
- これにより、お互いの認識を明確にし、本題により集中できると思われます。もし議論の焦点が異なると感じられる場合、その理由もお聞かせください。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 10:24 (UTC)
- シェン,アーナリー,ン,アーバァさん、ご説明、本当に有り難う御座います。お返事やご説明いただきたい内容を、以下に箇条書きでまとめました:
- 対応する方針はWP:SUBSTANTIATE「偏った意見の陳述は、本文内で帰属化する方法でのみ提示することができます。たとえば、「ジョン・ドウは最も優れた野球選手である」という意見を表す陳述について、ウィキペディアでは、それがまるで事実であるかのごとく断定的に記してはいけません。「ジョン・ドウの野球技能は、アル・ケーラインやジョー・トーリといった野球関係者から賞賛されている」というように、事実に即した意見を扱った記述としてならば、記事に含めることができます。それでもなお、意見は検証可能な情報として適切に出典を提示した上で記載されなければなりません。」だと思われます。ただ、現行の記事には「評価」節が存在しないため、WP:LS「話題の重要性を強調する時には、相応に重視するという方針によって、公表された信頼できる情報源に従って相対的に重要性を反映させるべきです。これは導入部と記事本文の両方で当てはまります。もしこれら2つの部分で重視の度合が異なれば、その不一致の解消に努めるべきです。重要な情報は、記事の導入部以外の部分で扱われていないなら、導入部でも取り上げないようにすべきです」に照らし合わせて若干不調和気味だなという印象はあります。--Nux-vomica 1007(会話) 2024年12月18日 (水) 04:36 (UTC)
- 中立的なご回答、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:46 (UTC)
- 赤葡萄酒さんに苦言を。自身が書き込んだことについて勝手に内容を除去しないでください。履歴を追わないと議論相手との会話に齟齬が生まれてしまいます。取り消すなら取り消し線、取り消した際にも署名とタイムスタンプは付けてください。--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 08:08 (UTC)
- なるほど、ご提示いただき、本当に有り難う御座います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 08:15 (UTC)
- 一 私も、@ぷにを さんと同じことを感じていました。
- 二 @赤葡萄酒 さんはHelp:ノートページ#自分のコメントを、ぜひ読んで、理解していただきたいと思います。
- 三 これは私の感想なので、今まで書きませんでしたが、少しだけここに書かせてほしいことがございます。ご気分を害すようでしたら申し訳ありません。
- イ 井戸端には、方針やガイドライン、主要なテンプレートについて深く理解する「リテラシーの高い人」がそれなりにいます。
- ロ そうでなくとも、秘密のルールではないので、気になった人は参照しながら議論に参加できます。
- ハ ガイドライン「大言壮語をしない」や、テンプレート「大言壮語」(大言壮語タグのことです)を読んだ議論の参加者で「引用文の中の大言壮語に対して、大言壮語テンプレートを貼るべきだ」と主張する人は、@赤葡萄酒 さんだけです。
- ニ もちろん、ウィキメディアは多数決制ではありません。ですが、@赤葡萄酒 さんだけが正しいと感じるルールで運用しているわけでもありません。
- ホ 私のことを「中立の立場」と評価してくださるのは、背筋の伸びる思いがいたします。しかし、それと同時に「私の書いた返信は一つも理解していただけていないのかな?」と、無力感に苛まれています。というのも、
- と、一貫して私は「@赤葡萄酒 さんの側ではない意見に賛成し、それを補足していた」つもりです。
- ヘ 確かに「ウィキペディアにおける中立性」に反する議論をしたつもりはありません。しかし、私が「中立の立場」であるならば、この議論に関して、当事者ではあるものの@Gruppetto さんも「中立の立場」から指摘をなさっています。
- 四 物腰が柔らかで、議論の参加度が文量的に高いというだけで、私のことを「話の通じるやつ」だと思っていらっしゃるのでしたら、心外です。
- 五 もしかして私は「自分の主張を通すことにしか興味がない人」と、丸一日議論していたんじゃないか?私は、少しでも説明のページを読めば分かることを、これだけ丁寧に解説されてもご理解くださらない人と議論していたんじゃないか?私はせっかくの休日をまんまと奪われ、他に出来たはずの貢献を出来なかったのではないだろうか?と、こんな気持ちでいっぱいです。
- 六 もう私は@赤葡萄酒 さんのズレた議論で「論点をずらさないで」や「勘違いなさらないで」といった、屈辱的で上から目線な返信にはうんざりしています。私がアメリカの日本語に詳しかったら理解できたかもしれませんが、日本国の内国民として日本国日本語しか話せない私にとっては、本当に日本語を母語としているのかと、疑問を抱くほど理解が出来ませんでした。
- 七 私は本議論における「大言壮語」の解釈につき、もっぱら@Gruppetto 氏の先に述べたるとおりと理解し、よって@赤葡萄酒 氏の述べる論は受け入れざると判断し、私の主張の結論とする。なおかつ以降、議論の参加者の当然の権利として、また本件の当事者ではないことなどから本議論に対する責を持たざるため、余談なく本議論を辞して、@赤葡萄酒 氏を除く利用者による言及があるまで返信を控える。
- --シェン,アーナリー,ン,アーバァ.(お気軽に会話ページへご連絡ください) 2024年12月25日 (水) 12:00 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。まず、議論の焦点は「大言壮語の引用文がある記事における、大言壮語タグの使用方法」に関するものであり、私が懸念している点は、そのタグの使用が本当に適切であるかどうか、そしてその正確な使用方法を尋ねているということです。
- シェン・アーナリー・ン・アーバァさんが言った次のような言葉:
- 1.「私の書いた返信は一つも理解していただけていないのかな?」
- 2.「私はせっかくの休日を奪われ」
- 3.「私は大言壮語に対する解釈は正しい」
- 4.「私は中立の立場から指摘をなさっています」
- 5.「ズレた議論で」
- 6.「勘違いなさらないで」
- 7.「屈辱的で上から目線な返信」
- 8.「私がアメリカの日本語に詳しかったら理解できたかもしれませんが、日本国の内国民として日本国日本語しか話せない私にとっては、本当に日本語を母語としているのかと、疑問を抱くほど理解が出来ませんでした。」
- などの表現は、議論の焦点である「大言壮語タグの使用方法」という点から逸れてしまう可能性があります。「Wikipedia:礼儀を忘れない」や「Wikipedia:個人攻撃はしない」に素直に従い、感情的な反応が議論に影響を与えないよう、事実や方針・ガイドラインに基づいた建設的な議論を進めましょう。
- 私は一貫して中立的な立場を取っており、シェン・アーナリー・ン・アーバァさんの意見にも敬意を表しつつ、その立場は変わりません。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 13:37 (UTC)
- ちょっとした余談ですが、私がこれほどまでに冷静な言葉を使う理由は、議論は本来、感情的になりすぎず、過度に自分の感情を加えるべきではないからです。もし議論自体が中立的で善意に基づいているのに、一人の言葉が原因で他の人を不快にさせ、それによって本来正しいことが誤解され、非難されるようになるのであれば、それは非常に損をすることになるのではないでしょうか?
- ですので、今後も私は自分の個人的な感情を極力排除し、冷静に答えるつもりです。シェン・アーナリー・ン・アーバァさんに不快な思いをさせてしまい、本当に本当に申し訳ございませんが、事実は事実であり、間違っていることは間違っていると言うべきです。焦点は「引用文に大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けるべきだ」に絞るべきだと思います。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月25日 (水) 13:58 (UTC)
- 赤葡萄酒さんに苦言を。自身が書き込んだことについて勝手に内容を除去しないでください。履歴を追わないと議論相手との会話に齟齬が生まれてしまいます。取り消すなら取り消し線、取り消した際にも署名とタイムスタンプは付けてください。--ぷにを(会話) 2024年12月25日 (水) 08:08 (UTC)
- 中立的なご回答、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。--赤葡萄酒(会話) 2024年12月18日 (水) 04:46 (UTC)
引用文の著作権はその引用元の文章を書いた人にあります。それに対してWikipediaの執筆者が勝手に『大言壮語』だと判断することは許されません。引用元の文章の筆者についての記事を執筆して、そこに執筆者が『この人の発言には大言壮語が多い』として当該個所を引用するならかまいませんが。基本的なところで間違った議論が延々続いているように見えます。 --ねこぱんだ(会話) 2024年12月30日 (月) 05:26 (UTC)
- 補足します。もし、ある引用文が『大言壮語』だと判断されるなら、その記事のノートで、『かくかくしかじかの引用文は大言壮語なのでふさわしくないから除去しませんか』と問題提起して意見を求めればいいのです。へたにタグをはろうとするからもめるのです。 --ねこぱんだ(会話) 2024年12月30日 (月) 05:34 (UTC)