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Wikipedia:井戸端/subj/出典が無い事を理由とした、全面削除とリダイレクト化は容認されるのか

出典が無い事を理由とした、全面削除とリダイレクト化は容認されるのか

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ノート:公同信条で問題になっているのですが、基本信条Evangelicalさんにより、出典が無い事を理由として全面削除され、「公同信条」へのリダイレクトに変更されました(その後一旦私が差し戻しました)。

ノート:公同信条で「合意の無いままにこのような事はやめて下さい」と申しましたところ、公式方針からの引用:出典を示す責任は掲載を希望する側に「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」という返事が返って来ました。

想定もしていなかった事なので、色々と調べてみましたが、どうもよく分かりません。

まず、ページ名の変更の手順を踏まないでリダイレクトを作成しないに反するように思いますし、統合の手続きもしくは改名の手続きをしないでこのような事をしてしまうのは、適切とは思えないのですが…2008年にWikipedia:井戸端/subj/既存の記事をリダイレクト化する場合に統合依頼をする必要はあるかという議論は提起されていたようですが、どうやらこれは発展しなかったようです。

既存記事と同概念の新記事を立て、既存記事については出典が無い事を理由としてリダイレクト化する、こういう事って容認されるんでしょうか?御教示を頂ければ幸甚です。--Kinno Angel 2010年6月24日 (木) 05:23 (UTC) 一部修正--Kinno Angel 2010年6月24日 (木) 05:25 (UTC)[返信]

コメント合意が形成されれは可能であるとは考えますが、合意が生成された形跡がありません。なので本件の場合に関してはリダイレクト化は時期尚早であると考えます。出典を出す努力は必要ですが、一方、機論の参加者が二人だけで決めることでもないと存じます。--あら金 2010年6月24日 (木) 05:43 (UTC)[返信]

WP:N#特筆性のガイドラインを満たしていない記事」と同様に対処すべきです。--三畔 2010年6月24日 (木) 06:27 (UTC)[返信]
あら金さん、ありがとうございます。二人だけで決める事ではないと思いますので、キリスト教プロジェクトの方には声をかけているのですが、現状、参加者は二人だけになってしまっています。改名手続、統合手続を経れば、議論の呼びかけにもなって一石二鳥だと思うのですけれどね…
三畔さん、少なくとも「基本信条」の語彙・概念そのものについては特筆性はあります。--Kinno Angel 2010年6月24日 (木) 06:37 (UTC)[返信]
「出典が無い事を理由とした、全面削除とリダイレクト化は容認されるのか?」という質問に対しては、「特に問題はなく、容認できる」というのが私の答えです。更に言えば、出典がないことを理由に全面削除されたのなら、まず出典を探して提示するべきであり(それはそんなに難しくなかったはずです)、出典を提示しないままで差し戻してしまったのは、私から見れば少し不適切な行動だったと思います。
・・・とはいうものの、出典ありますよね。公同信条#参考文献にも『基本信条』(東京基督教研究所訳、新教出版社)という本が挙げられているわけだし、ノート:公同信条#質問(基本信条、世界信条、公同信条)での議論を見ても、さまざまな文献が存在することを承知の上で、現在の記事に出典が提示されていないことだけを捉えて「出典がない」と言っていることが分かります。こういうのは、あまり良くないやり方だと思います。
もうひとつ言うと、一般的に「既存記事と同概念の新記事を立て」ることは望ましくないですが、本件の場合、本当に「同概念」かどうか議論の余地があると思うので、そのあたりは編集者間で充分議論すべきだろうと思います。--Dwy 2010年6月24日 (木) 14:18 (UTC)[返信]
私が参考文献としてあげた資料にはLR氏の記述の出典となりうるものが、見当たりませんでした。そしてLR氏は2008年以来書き込みをしておられません。--Evangelical 2010年6月24日 (木) 14:27 (UTC)[返信]
◆えー。キリスト教は幼稚園の頃にキリスト教系幼稚園に行ってたことがある程度で、よくわかってません。キリちゃんのファンではあり続けていますが、信者ではありませんし、その後のキリスト教会の発展には興味がないし、権力になって以降のキリスト教には嫌悪感を抱いています(仏教にも神道にも同じ感じなんですが)。と、とりあえず前置き。
「出典が無い事を理由とした、全面削除とリダイレクト化は容認されるのか」という命題に関しては、「是々非々で考えろ」と思います。
以下、今回のケースについてのおれの印象。
えーと、なんかしらよくわからないのですが、宗教戦争のにおいを感じるんですよ。どっちにもシンパシーは抱きませんので、削除&リダイレクト化が相当なのか、削除&リダイレクト化が不当なのかについては、判断できません。ただ、両者とも悪手を繰り出しており、ばっかじゃねーのみたいな印象を抱きました。
まず、自らの信仰に反すると思ったということを「出典がない」という理由に転化して削除&リダイレクト化をしたひとは、真剣にどっしょーもないわこれは。「出典がない」としても、その情報をどうやって救うかをまず考えるべきだし、同じ概念を扱っていると思ったのならば削除&リダイレクト化ではなく統合を考えるべき局面でしょう。いったい何をやっておるのだか、と。
そして、単にリバートしたひとも、かなりのレベルでどっしょーもないような気がします。そういう場合には、とりあえずリバートするのはかまいませんが、直後に出典をつけまくって相手を無化するくらいの労力をかけてしかるべきではないかと思うんです。そうすりゃ相手の行動を無化できたわけだし、そんなのむずかしくもなんともないことでしょう、もしも「基本信条」についてあなたが詳しいのであるならば。
というわけだ。両者に言いたいことがある。「やめろとは言わん。しかし、もっとうまくやれ」(田中光二『エーリアンメモ』収録「ドラゴンクエスト」より引用)。
ついでなんで両者にリクエストしておきます。
えーと、その2つの概念の区分けと違いの説明を両方の項目に上手に盛り込んで、他宗教の信者にもわかるようにというあたりを念頭に置いて、記事の改善をしてもらえないものだろうか。よろしく前向きにご検討ください。--Nekosuki600 2010年6月24日 (木) 15:50 (UTC)[返信]
◆議論への参加、皆様ありがとうございます。大変参考になります。
しかしながらどうも私の目的・動機について誤解されておいでの方が複数いらっしゃるようなので…申しますが、私は「基本信条を残すべきだ」とは一言も言っていません。そもそもちょっと読めば分かりますが、「基本信条」なる用語は私の専門領域外のものであり、感情的にも何ら思い入れはありません。宗教絡みのページで何かあればすぐ「宗教戦争」と思ってしまうというのは少しばかり浅慮というものです。
私の懸念はあくまでプロセスにあります(だから改名とか統合であれば、納得いく説明があれば認めたと思う、と該当ノートページで繰り返している筈なんですが)。
「記事Aに出典がゼロ」→「同概念(ほぼイコール概念)のページを別名A'で作成」→「合意を特に取らずに告知抜きで記事Aを全面削除しA'にリダイレクト化」
こういう事、一般論としてやっちゃっていいのか?という事なのです。ヤバイ前例になるんじゃないかと思うのですが…。既に前例が沢山あって、適正に処理されているということを、私が知らないだけなんでしょうか。
もし他分野で前例が沢山あって、適正に処理されているというのであれば、類例を御紹介頂けませんでしょうか。私は、上記プロセスをあっさり認めてしまうというのは、悪影響が大き過ぎると考えております。これは私の杞憂なんでしょうか。--Kinno Angel 2010年6月24日 (木) 16:30 (UTC)[返信]
◆ あともう一つ、私の今回の議論相手であり最近苦言を呈している相手でもあるEvangelicalさんについて一点弁護しておきますが、EvangelicalさんはNekosuki600さんが仰るように「自らの信仰に反すると思ったということを「出典がない」という理由に転化して削除&リダイレクト化をした」訳では無いと思いますし、そう思われるだけの合理的根拠はありません。別に彼は「基本信条」の語彙そのものを否定はしていませんし、内容についても彼の信条から考えて特段いきり立って否定する内容が書かれていたとは思えません。御気をつけ下さいませ。--Kinno Angel 2010年6月24日 (木) 16:35 (UTC)[返信]
◆あ、そういうことなら、あんまし気にしなくてもいいと思いますよ。力まかせの不適切な結果になっているケースもありますけど、それなりに穏当に望ましい(とおれが判断できる範囲の)結論になっているところもあり、おれの印象では後者の方が多いと思うんで。
おれも、問答無用でリダイレクトにしちゃったことはあります(問答無用にやっていい、と思ったくらいだから、リダイレクト化した項目は瑣末なものだかお馬鹿なテキストだかだったんでしょう、いちいち覚えていませんけど。トラブった記憶はないなあ、忘れてるだけかもしれないけど)、問答無用でリダイレクトにしちゃまずいよなあだいたいどっちを残せばいいんだと迷ったため放置しているケースもあり(たとえば地球温暖化気候変動。おれの観点からは、後者に統合した上で「地球温暖化」という表現がなぜ使われて一般化したのかみたいな説明ができればベストなんだけどなあ、みたいな)、まあ一概には言えません。
今回のケースなんか、前例になんかなりませんよ。逆の例も山ほどあるんで、「やっていい」「やっちゃいけない」のどちらの支配的前例にもなりません。凡百のせめぎあいの前例のひとつになるだけです。だから、気にしてもしょーがないんじゃないでしょうか。--Nekosuki600 2010年6月24日 (木) 16:43 (UTC)[返信]
◆重ねてご意見に感謝申し上げます。今のところ、「一応、合意が必要なのではないか」という方が1名と、「一般論としては別に大丈夫じゃないか」という方が2名といったところでしょうか。あまり深い懸念を示しておいでの執筆者は現時点ではいらっしゃらないようなので、「私の杞憂なのかな」という思いもし始めております。後1週間ほど様子をみて、懸念を示す執筆者よりも「合意は必要だとは思うけれど…一般論としては別に大丈夫じゃないか?」という編集者が圧倒的多数であれば、私の懸念は杞憂であるとして、本件のEvangelicalさんによるリダイレクト化を容認(追認)させて頂こうと考えております。--Kinno Angel 2010年6月24日 (木) 16:54 (UTC)[返信]
◆一般論としていうなら、「大丈夫じゃない」ですよ。一般論としては「大丈夫なこともあれば大丈夫じゃないこともある。慎重にやりやがれ」ってあたりが無難なんじゃないでしょうか。
今回のケースについては、おれにはよくわかりません。ていうか、わかんないことにしておきたいです。なんか用語的派閥があるようであり、どっちの言葉を使うかによって微妙な立場が鮮明にされてしまう踏み絵的テクニカルタームなんだろうなというのはわかってたんだが、どっちにもくみしたくないっていうか、いわくいいがたい感じだったんで、仲裁してみた。これが深刻な踏み絵的テクニカルタームなら、両方ともリダイレクトにしてしまい、「公開信条・基本信条」に両論併記でまとめておく、みたいな手もあると思います(「公開信条・基本信条」にすると、基本信条派から「なんで『基本信条・公開信条』じゃないんだっ」という苦情が出る可能性はまだあるんですが)。
とりあえず、このケースは「Wikipediaにおける支配的前例」になるということは、あり得ないと思います。その点については気にしなくていいと思う。ただし、このケースで明らかになった問題点はあるわけだから、その問題点の指摘を受けて、記事の改善につとめてもらえるとありがたいとは思います。--Nekosuki600 2010年6月24日 (木) 17:07 (UTC)--Nekosuki600 2010年6月25日 (金) 14:26 (UTC)(自発言校正・括弧位置)[返信]
私としても、「既存記事と同概念の新記事を立て」の部分には若干問題があるだろうと思っていますので、100%「大丈夫」と言っているわけではありません。
しかし、ウィキペディアでの基本的な考え方として、
  • 悪意でない限り、多少の間違いがあっても、間違えた人を非難しない
  • 規則や手続きを遵守することより、立派な百科事典を作ることの方が大事
ということもあります。
間違いを黙認した前例を作らないことより、お互いの意見を尊重しつつ話し合いで問題を解決した前例を作る方が、よほど大切です。本件については、Evangelicalさんの行動が正しかったかどうかを議論するのではなく、より良い百科事典にするために今後「公開信条」と「基本信条」の記事をどうすればよいかを議論する方に、エネルギーを使うべきだと思います。--Dwy 2010年6月25日 (金) 14:12 (UTC)[返信]

別件ですが私の場合出典があるのに記事を削除されたので該当記事(ヲシテ文献)は追記する気が起きなくなりました。つまり、やる気をなくさせる効果は強いですね。

  • 事前の警告なしに自分の仕事が水泡に帰すのを喜ぶ人はいないのです。ですから、何をするにせよ、他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください。

WP:EP違反としてコメント依頼をしたらいかがですか?--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年6月25日 (金) 13:14 (UTC)[返信]

出典はありません。『基本信条』の語についての出典はありますが、この本はLR氏の記述と対応しておりません。LR氏の参考文献をご存知でしたら提示願います。LR氏に尋ねようにも2008年以来投稿がないのです。統合というなら公同信条、基本信条どちらの語でもいいと考えています。それにはこだわっていません。--Evangelical 2010年6月25日 (金) 13:26 (UTC)[返信]
まずお詫びと訂正。Evangelical さん、文頭の重要な語句を欠き誤解を与えて失礼しました。同様の件で多分、思い違いによる転送だと思われます。我々は多分人間ですから色々ありますわな。で、いきなり転送はあまりいただけませんね。タグを貼り付けるという形で、LR氏の参考文献をご存知でしたらご提示願います、という呼びかけにしたら良かったのではないでしょうか?
  • 参考文献がまったく挙げられていなかったり、出典の明らかでない評価などの記述があったりしたら、記事や節の冒頭に {{出典の明記}}テンプレートを置いておくのも良いでしょう。どの記述に出典が求められるかについて、ノート欄で指摘し、執筆者に出典を求めることで、すぐに解決するかもしれません。もしもあなたが良い出典をお持ちでしたら、ぜひご提示ください。
Wikipedia:出典を明記する # 2 情報源の記載がない記事について が参考になると思われますよ。ここは一旦落ち着いて、この件は主の御心であり一種の試練だと考えたほうがよろしいかと思われますし、汝の隣人を愛せよ、は有効かと思われます。--基 建吉(MOTOI Kenkichi)
いやあ。まあ「汝の隣人を愛せよ」っていろんな宗教が言っているんだけど、それってむずかしいことみたいねえ。ついでに、「家族より信仰のが大事だと思わないやつはどうでもいい」ってのもいろんな宗教が言ってて、キリちゃんは当然のように言っているのだけど是認されてて、オウム真理教が言うとカルトになって、それってなんでなんだろうと思っていたのです。ところがこないだ、道元も「家族より信仰のが大事だろ」と言ってたのをみつけまして、なんかこう、「言語表現の是非」とかってあんがいどうでもいいことなんだろうなあなんて思ったのでありました。
ほんとうにEvangelcatさんが「どっちでもいい」と思っていたのだとしたら、「じゃあなぜ統合を考えずにリダイレクト化していいと思ったのか」って、更に重大な問題を引き起こすような気がするのは、おれの気のせいでしょうか。気のせいじゃないと、おれは思うんだけどなあ。--Nekosuki600 2010年6月25日 (金) 15:17 (UTC)[返信]
コメントNekosuki600さんすみません、返答は24時間後で。--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年6月25日 (金) 15:32 (UTC)[返信]
◆Nekosuki600さんへ。
>まあ「汝の隣人を愛せよ」っていろんな宗教が言っているんだけど、それってむずかしいことみたいねえ。
ぶっちゃけ言って超難しいです^^;。だから痛悔が必要なんですが、難しいからと言って開き直るのもよくないですね。でも難しいって自戒は必要です。
キリちゃんは(略)オウム真理教が(略)道元が(略)「言語表現の是非」とかって
M&A関連のコンサルもやっているエドガー・シャインが『企業文化論』って著作において、企業文化の本質として「暗黙の了解」みたいなものを挙げていたんですよ。「これ、来週までにやっておいて」って言われたら、A社では「来週の月曜までにやれ」を意味し、B社では「来週の金曜日まででいいよ」を意味するとか、そういう無意識の前提が企業合併にあたって最初にクリアしなければならない問題だっていう。ここでは当然、キリの文言と、道元の文言と、オウムの文言とでは、同じ台詞においても当該宗教組織と世間における「無意識の前提」が違うっていう事になりましょう。余談ここまで。
>ほんとうにEvangelcatさんが「どっちでもいい」と思っていたのだとしたら、「じゃあなぜ統合を考えずにリダイレクト化していいと思ったのか」って
その疑問は、基 建吉(MOTOI Kenkichi)さんともほぼ同様、私も等しく持ちます。Evangelicalさんの回答を待ちましょう。
Evangelicalさんへ。「出典が無いから全削除OK!」ってやっちゃったら危険が伴いますよやっぱり。多くの方が「危険ではあるが容認され得る場面はある」と仰っておいでなので、当初ほど厳しい見解は持っていませんが、やはり懸念は捨て去れません。
キリスト教関連の記事に、初期に出典抜きに粗製乱造されたものが沢山ありますが、それ全否定しちゃったら内部リンクも全部崩壊しちゃうんじゃないの?っていう。もちろん出典をつけて改善していくのは当然なんですが、そこで焦っちゃ駄目でしょう?っていう。「自由主義神学への偏向が出典抜きに行われている」としたって、それでも書かれた記事は記事な訳ですよ。もう少し先人への敬意を一定程度示すっていうのは最低限、必要な配慮でしょうし、何よりもまず、別の偏向を現執筆者である我々が持っていないって保障・自信は、どこに根拠があるのかという自戒は必要でしょう?他人を責める前にそういう自戒を込めるのが「税吏の祈祷」の精神なんじゃないですか?私が言いたいのはそういうことです。--Kinno Angel 2010年6月25日 (金) 16:45 (UTC)[返信]
コメント私は「出典のないものでも勝手に除去してはいけない」と言うことの方がウィキペディア日本語版にとって危険なのではないかと思うことがあります。それを突き詰めていくと、検証可能性を否定することになりかねないからです。だいたいが「出典がないから除去された」のであれば、「出典を明記して追記すれば良い」だけです。もちろん、まず出典を求める方が良いとは思いますが、だからと言って「出典のない記述が除去された」ことを非難するのは間違いです。
なお、今回のケースでは、「基本信条」を「公開信条」へのリダイレクトにすることにも出典がなかったのでどっちもどっちでしょう。細かいことを言うと、「出典がない記述を除去する」ことと「既存の記事を出典がないことを理由にリダイレクト化する」ことは区別すべきであり、前者は許されているが後者は問題だと考えます。
あといくつかこの議論の中で気になった点にコメントしておきます。Wikipedia:リダイレクト#ページ名の変更の手順を踏まないでリダイレクトを作成しないについては、私は更新履歴が継承されないことによるライセンス上の問題だと読みました。一般論で言えば、記事名が一般的ではないがその内容は正しいケースはページの移動により記事名を変更することが正しい手順である一方、記事の内容が正しくなければ、新しく一般的な記事名のものを元の記事の内容はコピーせずに作成し、元の記事をリダイレクトしても良いと思います。
次に基 建吉さんの「出典があるのに記事を削除された」についてはお気の毒でしたが、再度出典を明記して記事を作成(編集かな)すれば良いことでしょう。WP:EPにもWikipedia:ページの編集は大胆にとも書かれています。
今回のケースでは、幸い関係者がみなさん冷静に対応しているので良かった、という感想を持っています。--アルビレオ 2010年6月25日 (金) 21:51 (UTC)脱字の訂正--アルビレオ 2010年6月26日 (土) 11:28 (UTC)[返信]

Symbola oecumenica の呼び方がルターに始まると解説しているのは、東京基督教研究所訳『基本信条』p.24-25でこの本は題名通り基本信条の訳語をあてています。宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.62は、Symbola oecumenicaの訳語に公同信条をあてています。私はこの訳語にはこだわりません。統合せずにリダイレクト化した理由は、やはり出典がないということになります。Kinno Angelさんは議論中に「突如」 リダイレクト化されたようにみえておどろかれたのだと思いますが、確かにその点は私の説明不足でした。周知してからの方が同意はとりやすかったでしょう。LR氏は膨大な知識をお持ちなのですが、出典を付けないという「方針?」をもっておられたようで、私の感覚としては大容量のハードディスクのようなものです。ハードディスクが使えなくなれば元データかバックアップで復元すればいいのですが、元データやバックアップのありかがわからないと、復元ができません。大容量ほど大変なことになります。もしLR氏が戻ってこられたら出典付きでの記述をお願いしたいと思います。--Evangelical 2010年6月26日 (土) 00:20 (UTC) [返信]

基 建吉(MOTOI Kenkichi)さん、別件である旨了解しました。ヲシテ文献は興味深く拝見しました。--Evangelical 2010年6月26日 (土) 00:36 (UTC)[返信]

Nekosuki600さん、隣人を愛せよ、の解釈は様々であり一概に正解は無いと思われますが、私見的にはこの概念自体は不参加者(故人など)にも適用されます。たとえば現在私はコメント依頼、かつ投稿ブロック申請などの案件をうけており、参加資格を問われています。で、これでもし仮に私がWikipedia参加を自主的にせよ強制的にせよ見送る事になった場合、その記事の出典は記事を書いた人が責任を取るべきだから削除してもいいのだ、という論調になる場合も考えられ、同様の事が許されれば、今現存する記事の多くはその存在意義を失う事も考えられます。一種の検閲ですね。また、現在いらっしゃらない方の記事でも同様に今いる人が好きに扱ってよいのだ、となれば参加していないと記事の信頼性が著しく損なわれる場合がある事となります。というのが、多分想定しうる大問題のひとつかと思われますから、コメントが多く寄せられているかと思われます。なかなか、難しい問題ではありますが、多くの方が残された記事と姿勢を尊重しつつ生かしていくことは意味があることだと思います。で、Evangelicalさんの今回の編集についての根本的原因、出典の無い記事についての理由は個人的には非常に共感できるものであり、一般論としても行動の理由としては明確に説明されているかと思われますし、今後の改善の機会があると思われますので、私個人としては今回の議論を以上のコメントを持って終結したいと思います。--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年6月26日 (土) 14:12 (UTC)[返信]

基 建吉(MOTOI Kenkichi) さんどうも。
えーと、おれ的には、「出典が記されていない(=検証可能性がない)情報は歓迎できない」というのと、「誰かが提供してくれた情報はなるべく保存せよ」というのと、このWikipediaにおける2つの重要なルールあるいはガイドラインは、対立していると思っています。まあ、極端に走ることなく中庸をもって良しとせよ、ということであろうと理解しております。
そういう意味で、今回の「削除&リダイレクト化」は、前者には合致するものの後者には合致せず、矛盾のある方針の一方だけを過剰に重視したものであるという気がするのです。「出典がない」というだけの理由で削除しちゃったら、そらモメゴトを引き起こすことになっても、しょうがないでしょう。Evangelical氏には、自業自得としてモメゴトを正面から受け止めていただくしかないでしょう
さて。
えーとおれ、Wikipediaについてはたいして経験を積んでいないと思うのですが、それでも人によっては「古参」に分類されるくらい長くWikipediaにいるみたいです。永平寺の雲水でいうなら、確かに「古参」の部類でしょうねえ(永平寺の雲水はたいてい1年の修行で下山しちゃうんで、それ以上いるやつは古参であるらしい。おれは確かWikipediaには3年だか4年だかいるんで、首座くらいおしつけられても文句は言えないレベルの古参なのかもしれぬ)。その間にいろいろうつろってたものごとってあるわけで。
おれが来た頃には、今ほど「出典の明記」は求められていませんでした。その時代に記事を書いたひとはあまり記事に出典を明記していませんし、その時代にWikipediaにきたひとは出典を明記するという習慣を持っていないでしょう。だから、その時代に書かれたテキストには、出典が記されていない場合が多々あります。それらの中には、「書き飛ばした嘘」がまざっているかもしれません。しかし、それらの中には、「ちゃんと調べて記述されたのだが、ただその出典・典拠が記されていないだけ」であるものも、まざっているのです。前者は撤去するのが相当ですが、後者は保存すべきものです。撤去するか保存するか、そこに、編集者の眼力が求められるのではないでしょうか。単に「そこに出典が記されていない」というだけの理由で「それって常識だろ」と思われる記述を削除する馬鹿者だって、浜の真砂ほどにはおいでになるのですから。
おれとしては、今回のケースは、「削除&リダイレクト化」ではなく、「統合」をすべきものだったように思っています。どういう項目名に統合するかは、すでの述べたとおり議論の余地がありますし、また2つの異なる言葉・概念があることについて丁寧に説明すべきだろうとも思いますが、少なくとも「削除・リダイレクト化」は、懸命な策ではなかったと思うのです。
また、記事は誰かの私物ではないのですから、「すでに撤退してしまったひとが書いたものである」ということを理由に「執筆者の説明が得られない」から発展性がないと断定するのも間違いだと思うんです。自分が書いた記事について未来永劫議論に付き合いフォローすべきだとか言われたら、そんな義務を果たせるひとはひとりもいないんじゃないでしょうか。おれなんか、そんな義務を果たせと言われたら、Wikipediaから撤退するしかなくなりますな。逆に言えば、おれはそんな義務を果たす気はありませんし、他の誰にもそんな要求をする気はありません。
印象論でしかないのですが、おれはEvangelical氏は「落としどころを考えていなかった」のではないかという印象を抱いています。落としどころを考えずに戦っちゃうひとって珍しくないんで(ていうか、現代日本ではそういうやつが主流派なんで)、さほど違和感はありません。しかし、その上の階梯で「落としどころを想定しつつ、そこに徐々に寄せていく」くらいの知恵があってもいいでしょう、とも思うんです。
「汝の敵を愛せ」という、キリちゃんの言辞は、要するにそういうことなんじゃないのかなあと、おれあ思うのですよ。敵と戦うことは、かまわないんだ。ただ、相手がどれほど敵対的であろうとお、おまえはうまく落としどころを探せよ、と、キリちゃんは言っていたのではないのかなあ。そこを理解していないやつに対してどう穏やかに対応するかってあたりで、おれら、キリちゃんの思想をどの程度理解しているかが計られるのです(っていうレトリックは、クリスチャンあるいはキリちゃんファン以外には通用しないだろうけど)。--Nekosuki600 2010年6月26日 (土) 15:16 (UTC)--Nekosuki600 2010年6月26日 (土) 16:52 (UTC)(誤字修正)[返信]
◆まず取り敢えず、アルビレオさんに伺いたい事があります。
>「出典がない記述を除去する」ことと「既存の記事を出典がないことを理由にリダイレクト化する」ことは区別すべきであり、前者は許されているが後者は問題だと考えます。
この文言には同感でして、別に私は「出典のない記述であっても除去してはならない」とは思っておりません。しかしアルビレオさんはその後で次のようにも仰っています。
>記事の内容が正しくなければ、新しく一般的な記事名のものを元の記事の内容はコピーせずに作成し、元の記事をリダイレクトしても良いと思います。
この二つ、パっと見たところ矛盾するように思うのですが…どうなのでしょう。
次に、何人かは論じておいでですが(他の方が論じるのを妨げはしませんが)、「基本信条」の内容が正しいか正しくないか、その事については私は全く論じておりません。統合という手段をとった後で、正しくないと思われる出典の無い記述は除去すればいいではないか、と申しております。内容が正しいかどうか、出典があるかないかに関わらず、明らかな荒らし・悪戯以外の記事については、「同概念の別記事A作成→出典の無い記事Bを全削除してリダイレクト化」という手順には、慎重になるべきではと言っております。無論記事本文の削除そのものは否定していません。統合後もしくは改名後にいくらでも編集改善すれば良いのです。--Kinno Angel 2010年6月26日 (土) 14:52 (UTC)[返信]
「既存の記事を出典がないことを理由にリダイレクト化する」ことの最大の問題は、そもそもリダイレクト化自体の根拠がないためです。既存の記事に出典がないことは、リダイレクトの理由にはならず、あくまでも記事名がリダイレクトすべき名前かどうかがポイントです。一方、「記事の内容が正しくなければ、新しく一般的な記事名のものを元の記事の内容はコピーせずに作成し、元の記事をリダイレクトしても良い」は、新しい記事名がより一般的なものであり、リダイレクト化自体が妥当な場合です。そもそもリダイレクト化の根拠がない場合とリダイレクト化自体は妥当な場合の話なので、矛盾はないと考えていますが、読み取りにくい表現でしたでしょうか。--アルビレオ 2010年6月26日 (土) 21:34 (UTC)[返信]

Wikipedia:編集方針他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいに「記事の一部でも除去するときは、以下の理由に該当するものにしてください。」「* 検証不可能な内容」とあります。出典のないものについては、やはり除去の対象になるのですから、その二つの方針が矛盾しているとは考えにくいでしょう。

ノート:ドクムギの議論で「常識」なのに出典を要求するのかと聞いたら、「クリスチャンの常識」でも出典は必要だとかえされました。いくら常識だと思っても、また実際に常識であっても、誰かがそれでは不十分であるとし、出典を要求することはありうるということを認識した次第です。

すでに撤退してしまった人の記述を残す根拠となりうるものも出典ではないでしょうか。いなくなった人の記述でも信頼性のある出典をもつ有用な記述であれば、その意味内容は保存されていくでしょう。--Evangelical 2010年6月27日 (日) 21:08 (UTC) 叫んでいるひとがいるので、これはNekosuki600 さんへのレスです。--Evangelical 2010年6月28日 (月) 03:57 (UTC)[返信]

◆下で先に叫んだ訳ですが、Nekosuki600さんもそれほど単純な事は仰っていません。--Kinno Angel 2010年6月28日 (月) 04:12 (UTC)[返信]
◆…えーっと、少し叫んでいいですか?「人の話はちゃんと読め!」…ハイ、もういいです。すみません。
Evangelicalさん、ここでは誰も「削除の是非」については論じていません。何について論じているのか把握した上で議論参加をお願いします。
アルビレオさん
>新しい記事名がより一般的なものであり、リダイレクト化自体が妥当な場合です。
そういう場合、初版立項者が作成してからすぐ間違いに気付いて移動する…といったケース以外では、通常の改名提案を経るべきではないでしょうか?少なくともその際には「移動」という手段が採られるべきだと思います(履歴が分かりにくくなります…なおここでは著作権上の問題以外の、編集上の支障を懸念します)。--Kinno Angel 2010年6月28日 (月) 03:51 (UTC)[返信]
あの、「新しく一般的な記事名のものを元の記事の内容はコピーせずに作成し」なので履歴は無関係です。元の記事の内容を残すのであれば「移動」すべきですが。--アルビレオ 2010年6月28日 (月) 20:24 (UTC)[返信]
◆どうも読まれていないようですが、無関係ではありません。繰り返しますが著作権を問題にしている訳ではないのです(私は一度もそのような事は言っていませんよね?)。「この概念を扱う記事がどのように成長してきて、どのような議論経緯が出てきたのか」という事が編集者に不明瞭になるという、そういった弊害を問題視しています。そもそも何度も申し上げていますが「同概念の記事を別名で立ち上げてリダイレクト化」しちゃっていいんでしょうか?という問題提起は、著作権とかコピペの是非とか、関係無しにやっているんですが。「こんな事が許されれば、出典付与が厳しくなる時期以前の記事が、一瞬のうちに全崩壊する危険性」すらあると私は懸念しています。出典はどんどん付けられ、記事の改善も目指されるべきですが、ハイリスクな拙速が行われ続けるような手法については、どうしても認める事は出来ません。
「出典を付与した記事であれば良質だろう」という理解があるとすれば、単純に過ぎる見解です。最近ログインしていない編集者Aと、新参の編集者Bが対立する立場で執筆している場合、出典付与に厳しくなる前に書いたAの記事が全否定され、最近の参加者であるBの記事が「出典あり」という事で、かなり強引な手法(別名同概念記事作成→従前記事全削除→リダイレクト化)が肯定されるのは、Bが使う出典が偏向している事も考慮に入れれば、「検証可能性」は改善するかもしれませんが「中立的観点」は改善しません。
どうも「検証可能性」ばかり重視されているようですが、このままでは幾つかの記事で同様な事が起こるのではないかという懸念が拭い去れません。--Kinno Angel 2010年6月28日 (月) 23:36 (UTC)[返信]

リダイレクト化はケースバイケースということではないですか。--Evangelical 2010年6月28日 (月) 03:57 (UTC)[返信]

どうもまだ読解されていないようですが、私は、それでは危険だと申しているのです。--Kinno Angel 2010年6月28日 (月) 04:12 (UTC)[返信]
ご存じかもしれませんが、記事移動やリダイレクト化を使って、自分が投稿する前の版までの履歴を分断する方法は、「132人目方式」とも呼ばれています。過去に議論になったことがありますので、Wikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非についてをご紹介します。論点が多く非常に長い論争で、禁止すべきという意見と有用であるという意見に分かれ、決着していません。議論の簡単なまとめとしては、利用者:Ks aka 98/砂場が該当するのではないでしょうか。当時私は、流れを追うだけで辟易しましたし、ここで議論する気力もありませんが、この手法は少なくとも推奨はされておらず、もし使う場合には慎重さと相応の説明責任が求められる、ということはいえるでしょう。--みっち 2010年6月29日 (火) 10:27 (UTC)[返信]
みっちさん、御紹介をありがとうございます。検索をかけてみたのですが、私にはその議論場所を発見出来ませんでした。前例があるのですね。その前例も出来る限り調べてみようと思います。--Kinno Angel 2010年6月29日 (火) 10:39 (UTC)[返信]
アルビレオさんは、「「既存の記事を出典がないことを理由にリダイレクト化する」ことの最大の問題は、そもそもリダイレクト化自体の根拠がないためです。」といわれていますが、最大の問題はSymbola oecumenicaの訳語として、私のあげた出典に公同信条、基本信条いずれも使われていることで解消されていると考えます。また、同概念であるなら履歴が継承されていないことが問題になるかもしれませんが、LR氏の「基本信条」の記事内容と、私が参考にした文献に書かれてあった公同信条の概念が同じでないならば、これは132方式ではないと思います。LR氏の書かれた基本信条の記事内容と公同信条の記事内容は同概念でないように見えますが、LR氏がおられず出典もないのでそれ以上確認できません。それならばリダイレクト化の根拠は何かといわれると、Symbola oecumenicaの訳語であることです。私は同概念記事を作ったという意識がなかったので、記事を作成した時はリダイレクト化を考えておりませんでしたが、Kinno Angelさんの提起された問題に対処するためにこの処置をとりました。おとしどころといいますか、私の今回の処置の目的は問題の解消です。教会論の記事もKinno Angelさんによってタグが3つつけられたため、記述を削除しました。ただし、教会論の記事はリダイレクト化する根拠がないので削除にとどめてあります。河内景隆さんも多くの知識をお持ちなのですが、出典を付けてくれない傾向がありました。教会論の記事におかしなことが書いてあると思いませんが、執筆者がおらず出典がない以上やむをえません。--Evangelical 2010年6月29日 (火) 13:15 (UTC)[返信]
  • 私から見ても(それほど深い知識はありませんが)、現状の「基本信条」の記事と「公同信条」の記事は若干異なった概念を扱っているように見えます。132方式での問題とは、若干事情が異なると思います。
  • 出典が出てくる可能性がない記事の内容を全面的に除去することは、必ずしも許されないことではありません。また、白紙化するよりは他の記事へのリンクとしておく方がましというのであれば、それもまたありえる選択だと思います。ただ、いきなりリンク化を実行するのではなく、出典を出そうという人や、全面的に内容を見直して出典付きの記事に書き換えようという人に、最後のチャンスを与える手順を踏んだ方がよかったと思います。
  • 本件では、一旦リンク化が実行されたものの、Kinno Angelさんによる差し戻しが行われ、その後はノート:公同信条で穏やかに議論が進行しているわけです。Evangelicalさんとしては、大胆にやってみたけど異論が出たので編集を強行せずに議論しているということだと思います。別に「拙速」ではありませんし、「危険」がどこにあるのか理解できません。
  • 「統合も視野に入れ」と言っても、肝心の統合されるべき記事内容が出典のない状態では話になりません。まずは「基本信条」を出典のある記事にすることが全ての前提条件になるはずです。その意味では、現状の記事内容に対して出典が提示されるのを待つより、入手可能な資料を基に一から記事を書き直すほうが現実的だと思います。とりあえず(暫定的に)リダイレクト化して、新たに記事を書き直す人が自由に書きやすい状態にしてやるのも、それほど悪くない考えなのではと思ったりします。(出典がない記述の除去を主張する人が「馬鹿者」扱いされているときなど、似たようなことをよく思ったりします)--Dwy 2010年6月29日 (火) 16:31 (UTC)(ちょっと修正--Dwy 2010年6月30日 (水) 16:23 (UTC)[返信]
いわれることが曖昧なんですが、確認させてください。「若干異なる概念」「132方式での問題とは、若干事情が異なる」の若干とは具体的にどのように異なるんでしょうか? また、「若干異なる」ということは、どちらも概ね同じという理解ですか? それと、「異なった概念を扱っ」た記事をどちらかの記事のリダイレクトにすることに問題はない、という認識でしょうか?--みっち 2010年6月30日 (水) 12:40 (UTC)[返信]
紛らわしい言い方でしたね。ごめんなさい。
  • 「基本信条」の方は「キリスト教界全体に共通の・・・正統信仰の基本」だと言っているのに対し、「公同信条」の記事では「本項はプロテスタントにおける・・・概念を扱う」としているわけですから、それぞれ別の概念を扱う記事であると理解しています。
  • ついでに言うと、ある題材を特定の立場(POV)から扱う別記事を新規に立ち上げることは、(中立的な書き方に留意する必要はありますが)決して悪いことではありません。英語版では、en:Wikipedia:Content forking#Articles whose subject is a POVとして、明示的に認められています。
  • 132人目方式は「エバンズビル」と「エヴァンズヴィル」のように2つの記事が全く同じものを扱う場合の話のようですから、「基本信条」と「公同信条」の問題とは明確に事情が違うと思います。
  • 杓子定規に言えば、「別の概念ならリダイレクト化はおかしい」という意見があるかもしれません。しかし、、「厳密に言えば違うかもしれないけど、大雑把に見れば大体同じだろう」と考えれば、リダイレクト化もありえないオプションではないと思います。何も永遠にリダイレクトだというわけではなく、リダイレクトが嫌な人は(出典付なら)何時でも自由に加筆して独立の記事に復帰できるわけですから、出典が存在しなさそうな記述が「既存の記述を尊重しろ!!」とプレッシャーを掛けている状態に比べれば、リダイレクトの方がまだましかもしれません。--Dwy 2010年6月30日 (水) 16:23 (UTC)[返信]
お答えありがとうございます。しかしながら、二つの項目の同一性について、Dwyさんが「132人目方式」に対しては不一致点を、リダイレクト化に対しては一致点を強調されるのは、私には受け入れがたいものです。私自身の考えについては下で述べたいと思います。--みっち 2010年7月1日 (木) 09:50 (UTC)[返信]

Evangelicalさんのおっしゃるところでは、「基本信条」と「公同信条」はともにSymbola oecumenicaの訳語として使われているようです(私は確認していませんが、疑う理由もありません)。同じ語(ラテン語かな)の訳語であるから同じ概念だと常にいえるわけではありませんが、キリスト教の専門用語という分野では、同じ語の訳語であればその概念は基本的には同じだろうと考える十分な理由といえるでしょう。
教派によって訳語が異なり、それぞれの教派ごとの理解の違いはあるということはありえるでしょうが、それでも一つの項目の中でその違いを解説したほうが記事としてはむしろ有用です(ハリストスキリストへのリダイレクトになっています)。
手続き論というのは重要なこともありますが、今回のリダイレクト化はそれなりに十分な理由があり、またその後にEvangelicalさんはリダイレクト化のための編集合戦をしたわけではありませんし、今回のリダイレクト化に手続き論で非難するほどの問題はないと思います。--mizusumashi(みずすまし) 2010年6月30日 (水) 17:19 (UTC)[返信]

mizusumashiさん
「概念が違うから」問題視している訳では全くありません。「概念が同じか違うか」という議論はここではしておりません。論点は「議論中に合意を経ずに一方を全削除してリダイレクト化」が方法として認められるのかどうか、です。--Kinno Angel 2010年6月30日 (水) 17:38 (UTC)[返信]
まず、「合意を経ずに」というところについては、ノート:公同信条を詳細には読んでないので私の誤解があるかもしれません。
ですが、私は、概念の異同それ自体を議題としているわけではありません。私は、概念が基本的に同じものだというのはリダイレクト化のそれなりに十分な理由であり、それなりに十分な理由があるから手続き論で非難するには及ばないと述べています。あるいは、ラフに別の言い方をするならば、概念が同じだという理由を示せるのならとくにリダイレクト化に手続きは不要であり、Evangelicalさんはそれを示したので、行動に問題はなかったと述べています。賛成するかどうかはともかく、そんなに理解しにくかったでしょうか。--mizusumashi(みずすまし) 2010年6月30日 (水) 18:45 (UTC)[返信]
◆えーっと…「手続き論で非難」というお話ですが、「非難」しているつもりはありません(もしそうならコメント依頼を出しています)。「こういう手続きが認められているのか?認められているとしたら、危険なのでは?」と問題提起しているのであって。伺いますが、「概念が基本的に同じもの」ならば、なぜ「改名→出典付与の上で大幅修正」ではいけないんでしょうか?その方が、その概念を巡って行われたそれまでの編集経緯が分かりやすいと思うのですが。--Kinno Angel 2010年7月1日 (木) 04:33 (UTC)[返信]
まず、Kinno AngelさんがEvangelicalさんを非難しているかどうかについては、それが主要な意図であるかどうかはともかくとして、非難になっていると私は思います(人の行為を非難するのが悪いことであるとは私は思いません-もちろん、むやみやたらに非難することは悪いことですが-)。しかし、これ以上はその判断は他の皆さんにお任せしましょう。
次に、「伺いますが、『概念が基本的に同じもの』ならば、なぜ『改名→出典付与の上で大幅修正』ではいけないんでしょうか?」という点ですが、べつにいけなくはないでしょう。むしろ、そうしたほうが良かっただろうと思います。しかし、公同信条を書いたときに、Evangelicalさんは使徒信条と基本的に同じ概念だとは考えていなかったのではないでしょうか。ですから、それはリダイレクト化の是非とは区別して考えるべきだと思いますし、ここで「132人目方式」の問題とは区別できると思います。--mizusumashi(みずすまし) 2010年7月2日 (金) 09:13 (UTC)[返信]

コメント 二つの記事が同一概念であれば、リダイレクト化を使って履歴を分断する手法はその機能・効果からして「132人目方式」と同種あるいはバリアントのひとつということができます(すでに紹介したリンクをご覧になれば、この手法がひとつのパターンだけではないことがおわかりになるでしょう)。かつ、Kinno Angelさんのそもそもの問題提起である「既存記事と同概念の新記事を立て、既存記事については出典が無い事を理由としてリダイレクト化する」とは、まさにこのことを指しています。これは意図や事情が違っていたとしても関連は避けられません。かつての議論では、この手法が有用であるという主たる根拠は、著作権侵害による記事削除に巻き込まれないための予防策というものでした。この点をふまえると、出典がないというだけではリダイレクト化の理由としては弱いのではないかと考えます。逆に、異なる概念であれば、当然ながらリダイレクト化はふさわしくありません。もちろん、どういう概念であるかの記述には検証可能性が必要ですが、同一なのか異なるのかの解明が十分になされないまま、記事をリダイレクト化することは、やはり危うさをはらんでいるといえます。当該項目は宗教的な内容であり、「神学論争」に発展する危険性が高いと思われます。一歩間違えれば泥沼、ということはいくら強調しても足りないくらいです。Wikipedia:エチケットに、「あまりにも情熱を持っている事柄については執筆を避けてください」とあることは示唆的です。--みっち 2010年7月1日 (木) 09:50 (UTC)[返信]

◆mizusumashiさん
しかし、公同信条を書いたときに、Evangelicalさんは使徒信条と基本的に同じ概念だとは考えていなかったのではないでしょうか。
作成時については、多分そうなのだろうと思います。ですが私が「基本信条」を見つけた後、「公同信条」と「基本信条」の二つの概念の差を教えて下さい、と繰り返しお願いした後で、「基本信条」がリダイレクトされました。Evangelicalさんがなぜ拙速をされたのか不明ですが、私としましては合意を経ずに一つの記事が全削除されてしまったこと、そして概念差があるのか無いのか不明なままにリダイレクト化された事について、異議を唱えたと、こういう経緯です。ノートでの議論をみればそれほど長い経緯ではありませんので御確認下さい。
◆みっちさん
履歴と著作権侵害の関係、リダイレクト化にあたっての危うさにつき、大変参考になるご意見をありがとうございます。こちらも参考にさせて頂きます。
◆何人かの方に共通の誤解がお有りのようなので(そして同種の誤解をなさっておいでの方が結構いらっしゃいますので)申し上げておきますが、本項目二記事において、Evangelicalさんと私の正面からの衝突は有り得ません。その辺、当該ノートページと記事内容を一瞥すれば一目瞭然です(ノートで申し上げたのも「二つの記事の概念は同じなんですか?」と私があくまで質問していたのであって、決してキツイ論調ではありません)。
「公同信条」も「基本信条」も(二つが同一概念か違う概念は措いておくとして)、東欧・正教会という私の主な執筆領域には全く被りませんから「宗教対立」は客観的にも起きていませんし、個人の感情的にも思い入れはゼロです。
「宗教に絡むものだからどうせ宗教対立が起きているんだろう、しょうがねえなあ」といった先入観をお持ちの方がいらっしゃったら、その先入観はどうか捨てて下さい。これはあくまで純粋にテクニカルな問題提起です。私は今回のような問題が、Evangelicalさんと私の間で、内容について争いのある問題ではなく、純粋にテクニカルな形で提起出来る記事(繰り返しますが私の主な執筆領域と被らず、個人的感情的思い入れもゼロの記事)で発生した事を、神に感謝すると共に、面倒な議論にお時間をとって参加して下さっている皆様に感謝しつつ、皆様にそのような先入観を捨てて頂くようお願いするものです。他のお返事は一番下に書き込みます。--Kinno Angel 2010年7月3日 (土) 14:48 (UTC)[返信]
コメント「こういう手続きが認められているのか?認められているとしたら、危険なのでは?」という提案に対しては、手続きとして、法で認められないものではなく、また既存の方針で「やってはいけない」と明記されているものではない、ということになります。そういう程度には認められている。認められるケースというのは、かなり限られていて、普通の加筆程度のものを、別記事を立ててリダイレクト化するような場合は、問題ある振る舞いとみなされるでしょう。
既存記事と同概念かどうかが明らかではないが、その概念自体について書くことができるということはあり得ると思います。もともとは同じ概念を指すとしても訳語の選択や日本語としての受容過程において、異なる意味を持つようなことは珍しくないですし、そうした違いはもともとの概念の説明からすると派生的な話題であったり、意識的に区別している当事者でなければわからないところもある。「至聖三者」と「三位一体」とか、「ポピュラー音楽」と「大衆音楽」とか、「関数」と「函数」とか、「カード」と「かるた」とか、その区別がどの程度重要でどの程度明らかかというのが、けっこう混乱することであり、その違いを明らかにすることがけっこう難しいというのがイメージしてもらえると思います。
そういう時に、先行する記事があり、本来は同じ概念だが、「同概念でないように見え」る。情報源が示されていないので、その内容を容易には検証することができない。他方、自分はそれと同じか、少なくとも類似した概念の記事を、検証可能な形で作ることができそうだ、と。そういう時に、上書きして、移動して改名するのがよいのか、別途記事を作り、古い方をリダイレクトにするのがよいのかというのは、難しい問題です。
ここでは履歴の扱いが論点のひとつとなります。ライセンス/著作権の問題を別にするとしても、分離しておくのがいいか、上書きして履歴がまとまった状態にあるのがいいか、というのは、ケースバイケースです。従来132人目方式での議論では、質的に圧倒的な差があるかどうかというのが、一つの要素となっていました。
  • 同一概念で異なる用語ならば、使わなくなる方の記述を再利用する余地がある場合には、履歴の混乱を避けるためには、同じ文書にしておくほうがよいです。また、記事名の選択に今後議論がありそうだが、最終的にはまとまったものとなるはずのものならば、それぞれに記事が作られて発展していくと、履歴の統合が困難になりますし、要約欄を使った転記でも履歴が錯綜します。挙句に古い版で権利侵害でも見つかったらえらいことになります(ただ、現在ではrevdel機能によって巻き込まれ削除の可能性はずいぶん減るので、対処のしようもありますが)。
  • 全面改稿をした場合だと、異なる「著作物」ですから、ライセンス上、全面改稿の場合はそれまでの履歴を残す必要がなく、履歴を分離しておくほうが自然だと考えることもできます。その質や内容から、古い版の記述を書き戻す可能性がないのならば、上の例で懸念される履歴の錯綜も生じません。また、転載元が明らかではないが転載などの疑いがあり、古い版が削除される可能性があるような場合だと、古い版が削除された場合に巻き込まれることも避けられます(ただ、現在ではrevdel機能によって巻き込まれ削除の可能性はずいぶん減ると思います)。
これらは、「エバンズビル」と「エヴァンズヴィル」のように同一概念で異なる用語であることが確定しているという前提でした。今回は、当時の132人目方式の議論では想定されていなかったケースだと思います。たとえば、「大衆音楽」には出典がなく、また「ポピュラー音楽」との明確な区分が記事には書かれていなかったとしましょう(逆でもいいですし、先に挙げた例などから、わかりやすいものを想定してください)。それほど熱心ではないが、キリスト教の概念に関心をもつ者がいて、「ポピュラー音楽」についての資料をいくらか得て、「ポピュラー音楽」の記事を書こうとします。「大衆音楽」の記事に、ポピュラー音楽のことを書き、それを「ポピュラー音楽」に移動するというのは、必ずしも最善ではない、と思いませんか? 最初の執筆者は、あくまで「大衆音楽」のつもりで書いたのであって、「ポピュラー音楽」を書いたつもりではないかもしれません。それがいつの間にか、「ポピュラー音楽」への貢献とされてしまっている。その後、「ポピュラー音楽」から「大衆音楽」の記事が分割されても、その投稿者の記録は「ポピュラー音楽」のままです。
それならば、「大衆音楽」をいったんリダイレクトにするというのもひとつの方法ではあるでしょう。それまでの貢献を示す、編集の経緯を手繰ることを容易にするという点では、「ポピュラー音楽」とリダイレクト化された「大衆音楽」のノートのわかりやすいところに、いついつまで表示されていた記述への誘導として固定版リンクを張るということで対応できます。これはやったほうがいい。ライセンス上、履歴ページに含まれなければならないわけではないので、わかりやすく案内できていれば十分だと思います。--Ks aka 98 2010年7月1日 (木) 11:53 (UTC)[返信]
◆みっちさんやKs aka 98さん、他何人かの方のの書き込みを拝読して思いましたが、「著作権の問題」「履歴の問題」「改名手続きの問題」「統合の問題」といった事だけでは解決できない、今まであまり前例の無い形の問題のようですね。私は(随分編集させて頂いているのに)自分が何も知らないのだろうと思い、「ガイドラインや、ガイドラインの運用について先例・慣例があれば教えて頂きたい、むしろ「こんな事も知らないのか」とお叱りを受けるかもとビクビクしながらこちらに伺った訳ですが、思いのほかに難しい問題を孕んでいる事が明らかとなり驚いておりますとともに、知恵をお貸し下さっている皆様に感謝の思いで一杯です。ありがとうございます。私も皆様の意見を精査させて頂き、その上で自分の意見も述べさせて頂こうと思います。
上でも申し上げましたが、この記事は宗教上の見解の争いは(ノートを見れば客観的にみてお分かりの通り)一切発生していません。ですから「宗教対立では」という先入観がお有りの方がいらっしゃいましたら、どうかその先入観は捨てて、Ks aka 98さんの挙げられたような「ポピュラー音楽」「大衆音楽」といった、非宗教的記事と同じテクニカルな問題として本件をお考え頂ければと思います。--Kinno Angel 2010年7月3日 (土) 14:48 (UTC)[返信]
閲覧者の意見「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」これ金科玉条のように掲げる奴居るけど、削除する奴の義務ではなくても「本当に出典がない記事なのだろうか?出典を語るまでもないと判断したミスではないか?」などと考えてやってもバチが当たりますかね?ちょっと調べれば出典があるのがわかることでも、前の不備な執筆者を補佐してあげるよりも断罪することの方が好きな奴が多いように感じています。「Wikipediaのガイドラインも守れない愚者など、この○○様が成敗してくれるわ!」ってね。でも本当に常識的なことでも「オレはそんなの聞いた事無い」というだけで恥ずかしげもなく削除する奴も居るんですぜ。そんな意味では、以前から猫好き氏と「削除厨」に対する意識を共有している気がする。「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」そもそも、前から別項で質問しているんですが、「信頼できる情報源」って何?毎日新聞ってそれに該当したりするんでしょうかね・・・?それさえはっきり書かれていないんですよね、Wikipediaって。適用すべき基準の基準もはっきりしてないのに、何を偉そうに語った気になっているんだろう、このガイドライン121.117.198.105 2010年7月18日 (日) 04:40 (UTC)[返信]