1990年ミャンマー総選挙
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1990年ミャンマー総選挙(1990年ミャンマーそうせんきょ)は、1990年5月27日、ミャンマーで実施された総選挙。
これは1962年にクーデターにより軍事政権が成立して以降、ミャンマーにおける初めての複数政党による選挙だった。1人1区の小選挙区制である。
結果は、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が492議席中392議席を獲得する圧勝。しかし軍事政権は選挙結果を認めず、2011年まで政権を握り続けた。投票率は72.6%だった。
概要
[編集]8888民主化運動の最中、ビルマ社会主義計画党(BSPP)議長となったマウン・マウンの「国民投票を行わずに複数政党制の総選挙を3ヶ月以内に行う」という言葉を、「3ヶ月以内」を除いて、国家秩序回復評議会(SLORC)は守った。そこには民主的な選挙を行って全面停止した日本を含む西側諸国からの経済協力を早急に再開させたいという思惑があった。
クーデター直後の1988年9月26日から政党登録の受付を開始。軍事政権下の選挙では到底公平に行われるとは思えないという声もあったが、最有力政党の国民民主連盟(NLD)が9月28日に政党登録すると、政党登録料が格安なこともあり(500ks。当時の為替レートで約1万円)、雪崩を打ったかのように続々と政党が生まれ、最終的に実に233の政党が登録した(最終的に候補者を立てたのは93党)。このように政党が乱立した背景には、合法政党であれば軍事政権の介入を受けにくいこと、長年の政治不信からどの政党が信用できるかわからないのでとりあえず自分で政党を作った人が多かったこと、政党を作ればガソリンの配給を受けられ、電話を1本無料で提供されたことなど諸事情あったようである[1]。
ビルマ社会主義計画党(BSPP)も国民統一党(NUP)と名称を変更して登録。議長に就任したタジョーは、ネウィンが隊長を務めた国軍第4ビルマ・ライフル部隊のメンバーだった[2]。ウー・ヌも民主平和連盟を結党して参戦。他に学生運動のリーダーだったモーティーズンが結党した新社会民主党(DPNS)があった。しかしもっとも注目されたのは、やはり8888民主化運動のリーダーたちが揃った国民民主連盟で、アウンジーが議長、ティンウーが副議長、スーチーが書記長を務めていた。支持層は①学生・知識人を中心とする左翼系グループ②旧民政時代の政治家のうちウー・ヌに合流しなかった人々③ティンウーの下に結集したネウィンに放逐された退役軍人だった。③のグループがいたことにより、国軍の目には国民民主連盟は裏切り者集団に映り、以降の執拗な弾圧に繋がったとも言われている[3]。
しかし1988年12月、アウンジーが「国民民主連盟は共産主義者に指導されている」と批判して、国民民主連盟を離党、連邦国民民主党(UNDP)を結党した。国民民主連盟の支持層のうち①には元ビルマ共産党(CPB)党員やそのシンパが多く、当時元ビルマ共産党中央委員会のメンバーだったタキン・ティンミャ(Thakin Tin Mya)がスーチーの自宅に事務所を持ち、彼女の顧問を務めていた。これに対してスーチーは、1988年9月12日付英国紙インデペンデントへの寄稿文で「私がさまざまな経歴の多くのベテラン政治家から助言を得ているのは事実です。けれどもそれは、これらの人々が将来の政治的利益への期待や個人的利得とはまったく無関係に、民主主義の大義のために働いているとの前提にもとづいてのことです。私自身は、国民の福祉よりも個々人の政治的信条やイデオロギーを優先することには強く反対しています」と反論している[4]。
1989年に入ると、スーチーは地方遊説を開始。各地で熱狂的に迎え入れられ、圧倒的人気を博した。しかし徐々に軍政批判を強めると、まずは支持層の③から慎重論が噴出。さらにアウンサン将軍の命日に当たる1989年7月19日の殉教者の日に、国民民主連盟は市民による追悼集会の開催を要求していたが、国軍の妨害によって断念。さらに翌7月20日、スーチーとティンウーは自宅軟禁下に置かれ、被選挙権を剥奪された。同じようにウー・ヌも被選挙権を剥奪された。軍事政権はスーチーに対してはビルマ共産党との関わり、ウー・ヌに対してはインド政府との癒着を非難する激しいネガティブ・キャンペーンを行った[3]。
1990年1月5日に立候補が締め切られ、選挙日は5月27日とされた。27は2+7で国軍のラッキーナンバーに当たる。全国492議席のうち延期となった7区を除く485選挙区に計2308名が立候補。過半数の候補者を立てられたのは、国民統一党(485名)、国民民主連盟(451名)、民主平和連盟(324名)、連邦国民民主党(256名)の4党だけだった[3]。
しかし、1990年4月、国家秩序回復評議会第一書記長・キンニュンが、新憲法とそれにもとづく強力な政府の樹立が政権移譲の条件であり、それまでは国家秩序回復評議会が国政を担当すると明言。選挙結果のいかんにかかわらず、即時の政権移譲の意思がないことを明らかにした。一方で選挙直前に外国人記者61名を入国させたり、各地の戒厳令を解除したり、公正で自由な選挙を演出するために柔軟な姿勢も見せた[5]。
結果
[編集]予定どおり1990年5月27日に選挙が実施され、概ね公正で自由な選挙だったという国内外の評価を得たが、しかしそれが仇となって、国民民主連盟が485議席中392議席を占めて圧勝、国民統一党は10議席、連邦国民民主党は1議席しか獲れず(アウンジーは落選)、民主平和連盟はは1議席も獲れない惨敗に終わった。特筆すべきは少数民族政党のシャン諸民族民主連盟(SNLD)が、得票率わずか1.7%ながらシャン州で圧倒的な強さを示して23議席を獲得したことだった[5]。
この結果を受けた国家秩序回復評議会は、先のキンニュンの見解を繰り返し、選挙結果を反故にして政権移譲の延長を図り、これに反対する国民民主連盟議員、活動家、僧侶を次々と逮捕した。逮捕を逃れた国民民主連盟議員はカレン民族同盟(KNU)の本拠地マナプロウに赴き、スーチーの従兄弟・セインウィンを暫定首相とするビルマ連邦国民政府(NCGUB)を樹立した。しかし国内外からの支持はほとんどなく、以後も実効性のある活動はできなかった(その後、閣僚2名がそれぞれ昆明とバンコクで暗殺された[6])。
関連項目
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 藤田昌宏『誰も知らなかったビルマ』文藝春秋、1989年8月30日、333-339頁。
- ^ “Papers by Asia Pacific Media Services Limited”. www.asiapacificms.com. 2024年8月23日閲覧。
- ^ a b c 桐生, 稔、高橋, 昭雄「民主化体制への第一歩 : 1989年のミャンマー」『アジア動向年報 1990年版』1990年、[487]–516。
- ^ “ミャンマー政治とスーチー女史 – 一般社団法人 霞関会” (2014年5月13日). 2024年8月23日閲覧。
- ^ a b アジア経済研究所「アジア動向年報1990 - 1999 : ミャンマー編」『アジア動向年報1990-1999』2024年、1–296頁。
- ^ “A Look at Myanmar’s Long History of Political Assassinations”. The Irrawaddy. 2024年8月24日閲覧。