黒田長徳
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黒田長徳 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永元年2月29日(1848年4月2日) |
死没 | 明治25年(1892年)6月15日 |
改名 | 幼名:岩虎、長徳 |
別名 | 通称:篤之允 |
戒名 | 長徳院義山良雄 |
官位 | 従五位下・甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 筑前秋月藩主 |
氏族 | 黒田氏 |
父母 | 父:黒田長元、母:今村氏 |
兄弟 | 山内豊福、織田信民、松平忠毅、長義、長徳、毛登子ら |
妻 |
秋月種殷の娘 新政信の娘 |
子 | 養子:長敬 |
黒田 長徳(くろだ ながのり)は、幕末から明治時代の大名、華族。筑前秋月藩の第12代(最後)の藩主で、明治に入り子爵。第10代藩主・黒田長元の八男。母は今村氏。
経歴
[編集]側室を母に持った庶子で、はじめは他家の養子に出される予定であったが、文久2年(1862年)7月25日に兄の長義が嗣子なくして死去したため、急遽その養嗣子となって家督を継いだ。同年8月17日、将軍徳川家茂に御目見する。元治元年(1864年)4月6日、従五位下・甲斐守に叙任する。慶応元年(1865年)、宗家の福岡藩に代わって長崎警備を務めている。
慶応4年(1868年)閏4月10日、上洛する。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で東京に移住した。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵[1]。明治25年(1892年)6月15日、東京にて45歳で死去した。家督は本家福岡藩黒田家から養子入りした長敬が継いだ。
家族
[編集]父母
妻
養子
脚注
[編集]- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (秋月)黒田家初代 1884年 - 1892年 |
次代 黒田長敬 |