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高嶺朝教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高嶺朝教
たかみね ちょうきょう
高嶺朝教(首里市市制施行十周年記念誌より)
生年月日 1869年2月6日
出生地 琉球王国 首里山川村
(現・日本の旗 日本 沖縄県那覇市
没年月日 (1939-01-12) 1939年1月12日(69歳没)
出身校 慶應義塾
前職 沖縄銀行頭取
所属政党 立憲政友会

選挙区 沖縄県全県選挙区
当選回数 1回
在任期間 1912年 - 1914年8月1日

在任期間 1921年9月13日 - 1925年9月12日

沖縄県の旗 初代 沖縄県会議長
在任期間 1909年6月28日 - 1912年5月20日

沖縄県の旗 沖縄県会議員
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高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰21年12月25日) - 1939年昭和14年)1月12日[1][注釈 1])は、沖縄県出身の実業家政治家。同県選出初の衆議院議員の一人。向氏高嶺家十一世[2]

経歴

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首里山川村(現那覇市首里山川町)で、高嶺家十世・高嶺朝長の長男として生まれる[1][2]1882年に第1回県費留学生として上京し、学習院慶應義塾で学ぶ[1]

1893年9月、尚順太田朝敷らと協力して『琉球新報』を創刊[1]1900年尚家の出資を元に沖縄銀行の設立に参画して頭取に就任[1]1909年、第1回沖縄県会議員選挙に出馬して当選し、初代県会議長に就任[1]。同年6月28日から1912年5月20日まで務めた[3]。同年同月、沖縄県最初の衆議院議員選挙(第11回総選挙)立憲政友会公認で出馬し、最高得票で当選[1][4]。しかし、1914年8月1日、衆議院議員を辞職した[5]。これは、反政友会の大味久五郎沖縄県知事の干渉によるといわれている[1]

その他、首里市長沖縄電気取締役などを務めた[4]

親族

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出典

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注釈

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  1. ^ 『国会大鑑 衆議院篇』188頁では1月14日

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『沖縄大百科事典』中巻、687-688頁。
  2. ^ a b 『沖縄門中大事典』187頁。
  3. ^ 議会の概要 令和2年”. 沖縄県. 2024年6月15日閲覧。
  4. ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』384頁。
  5. ^ 『官報』第602号、大正3年8月3日。
  6. ^ 『沖縄大百科事典』中巻、688頁。

参考文献

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  • 宮里朝光監修、那覇出版社編『沖縄門中大事典』那覇出版社、1998年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典』中巻、沖縄タイムス社、1983年。