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門田元経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
門田元経
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正12年(1584年
死没 慶安3年12月30日1651年2月20日
別名 通称:小伝次→太郎右衛門尉
官位 隠岐守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 清和源氏頼信流逸見氏庶流二宮氏門田氏
父母 父:二宮就辰、母:門田元忠の娘
兄弟 元経矢田経行、女(財満元久室)、
女(中村元俊室)、女(平佐元貞室)、女(佐武元好室)
児玉元兼の娘
元弥、女(天野元処室)、元億
女(兼重景経室)、女(繁沢就貞室、杉就之室)
養子:女(河本新兵衛の娘、財満元直室)
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門田 元経(かどた もとつね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で長州藩士。家格は大組。父は毛利輝元の側近を務めた二宮就辰

生涯

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天正12年(1584年)、毛利氏家臣で毛利輝元の側近を務めた二宮就辰の嫡男として生まれる。

文禄4年(1595年6月15日、輝元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元経」と名乗った。なお、加冠状の宛名に「門田小伝次」と書かれているように、元服の時点で既に母方の「門田」の苗字を名乗っていることが分かる。慶長8年(1603年12月26日には、父・就辰と同様に「太郎右衛門尉」の官途名を輝元から与えられた。

慶長12年(1607年5月3日に父・就辰が死去し、その後を継いだ。元経は長州藩において大組の組頭[1]を務め、元和6年(1620年10月16日には毛利秀就から、大組配下の者の生活における禁止事項等を定めた17条の掟書を与えられる[2]

元和10年(1624年)から始まる大坂城の第二期普請に大組を率いて加わった。普請参加の準備として、前年の元和9年(1623年3月28日12月16日に、大組配下の者の俸禄や借銀に関する指示を秀就から受けている。

寛永2年(1625年8月13日付で益田元祥清水景治宍道元兼の連名で出された御配所付立によれば、元経の知行は長門国美祢郡嘉万村[3]1000石と、周防国吉敷郡白松庄[4]の内に500石の合計1500石とされ、翌寛永3年(1626年12月13日には毛利秀就から「隠岐守」の受領名を与えられた。

慶安3年(1650年12月30日に死去。享年67。嫡男の元弥が後を継いだ。

なお、萩城下の市街地には子孫の屋敷跡の長屋門が現存している。

脚注

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  1. ^ 大組の組数は後に8組となるが、元経の時は6組。
  2. ^ 閥閲録』巻64「二宮太郎右衛門」第33号、元和6年(1620年)10月16日付 門田太郎右衛門尉(元経)宛て毛利秀就掟書。
  3. ^ 現在の山口県美祢市秋芳町嘉万。
  4. ^ 現在の山口県宇部市西岐波や山口県山口市阿知須の一帯。

参考文献

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