コンテンツにスキップ

財満元直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
財満元直
時代 江戸時代
死没 寛文5年8月10日(1665年9月18日
別名 孫太郎、八郎右衛門、三郎兵衛
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 財満氏
父母 父:財満元久 母:二宮就辰の娘
兄弟 元直、元房、就久、就冬、女(井原元方室)、女(佐々部就茂室)、女(楢崎元重室)、女(口羽元良室)、女(懸谷隆貞室)、女(渡辺就久室)
先妻:門田元経の娘
後妻:口羽元良の娘
後妻:和智元通の娘
女(久長室(先妻))、女(久長室(後妻))、女(久長室(後妻))、女(小川玄逹室)
久長(実父益田就之
テンプレートを表示

財満 元直(ざいま もとなお)は江戸時代初期の毛利氏家臣。萩藩大組である財満氏の当主・財満元久の嫡子。 通称は孫太郎、八郎右衛門、三郎兵衛[1]

生涯

[編集]

毛利氏の家臣である財満元久の長男として萩に生まれる。母は二宮就辰の娘であることから、毛利元就は外曾祖父にあたる[注釈 1]

男子が生まれなかったため、長女と婚姻した益田就之の次男・才嶋を婿養子に迎えた。才嶋は財満新右衛門久長と改名する。しかしその長女が早世し、続いて久長と婚姻した次女も早世したため、元直は三女も久長に婚姻させて、財満氏の血筋を維持することに腐心した。三女の母は和智元通の娘。

寛永7年(1630年)7月に父・元久が亡くなると財満氏750石の家督を継ぎ、以降終身、御弓頭を務めた[2]。また組番頭にも抜擢されている。江戸において江戸番手を勤めていた寛文5年(1665年)8月10日、江戸において病没した[3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『萩藩閥閲録』巻64「二宮太郎右衛門」の記述によると、二宮就辰は毛利元就の六男

出典

[編集]

参考文献

[編集]