長良型軽巡洋艦
長良型軽巡洋艦 | |
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竣工直後の「長良」(推定)[1] | |
基本情報 | |
種別 | 二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)[3] |
命名基準 | 川の名 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 長良・五十鈴・名取・由良・鬼怒・阿武隈[2] |
前級 | 球磨型軽巡洋艦 |
次級 | 川内型軽巡洋艦 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 5,170トン[4] |
常備排水量 |
5502.81トン[5] 公表値 5,570英トン[4] |
全長 | 532 ft 0 in (162.15 m)[5] |
水線長 | 520 ft 1+1⁄2 in (158.53 m)[5] |
垂線間長 | 500 ft 0 in (152.40 m)[5] |
最大幅 | 46 ft 6 in (14.17 m)[5] |
水線幅 | 46 ft 6 in (14.17 m)[5] |
深さ | 29 ft 0 in (8.84 m)[5] |
吃水 |
常備 15 ft 9 in (4.80 m)[5] または 15 ft 10+1⁄2 in (4.84 m)[6] |
ボイラー |
ロ号艦本式重油専焼水管缶大型6基、小型4基[8] 同石炭・重油混焼水管缶2基[8] |
主機 | 三菱技本式高圧衝動型・三菱パーソンズ式低圧反動型(鬼怒は川崎ブラウン・カーチス式高低圧衝動型[9])オール・ギアード・タービン4基[10] |
推進器 |
4軸 x 380rpm[8] 直径11 ft 0 in (3.35 m)[8]、ピッチ3.429m[10] |
出力 | 90,000馬力[5][8] |
速力 | 36ノット[5][注釈 1] |
航続距離 | 5,000カイリ / 14ノット[11] |
燃料 |
重油:1,260トン[11] 石炭:350トン[11] |
乗員 | 長良竣工時定員450名[12] |
兵装 |
竣工時 50口径三年式14cm砲単装7基7門[11] 40口径三年式8cm単装高角砲2門[11] 三年式機砲2挺[13] 八年式(61cm)連装発射管4基8門 八年式魚雷16本[13] 九三式機雷56個[11] |
装甲 |
舷側:63.5mm(25.4+38.1mmHT鋼)[7] 甲板:6.35-28.6mmHT鋼(上甲板)[7] |
搭載機 |
艦上偵察機 1機[13] 滑走台 1基[13] |
搭載艇 | 1920年:7隻[14] |
長良型軽巡洋艦(ながらがたけいじゅんようかん)は、日本海軍の二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)[3]。同型艦6隻[2]。いわゆる5,500トン型軽巡洋艦のひとつで、球磨型に続く第2グループにあたる[3]。
概要
[編集]日本海軍は1917年(大正6年)の八四艦隊案での巡洋艦建造計画を変更し、いわゆる5,500トン型軽巡洋艦8隻と「夕張」を建造した[3]。5,500トン型の最初の5隻は第1グループになる球磨型であり、残りが第2グループにあたる長良型の「長良」、「五十鈴」、「名取」の3隻になる[3][15]。続く1918年(大正7年)の八六艦隊案で5,500トン型3隻の予算が成立し、「由良」、「鬼怒」、「阿武隈」が建造された[16]。球磨型からの大きな変更点は
などになる。
太平洋戦争開戦まで、多くの改装を経て装備の強化が行われたため、7,000トン近くまで排水量が増大し速力が33から32ノット前後まで低下した[17][18]。また、阿武隈を除く5隻と「夕張」は1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)にかけて老朽化に伴い第一線での運用から外される見込みとなり、代艦として④計画で阿賀野型4隻と大淀型2隻が建造されることになった[17]。このような状況であったにもかかわらず、代わる艦がなかったため、太平洋戦争において各艦とも第一線で活躍した[17]。
艦型
[編集]球磨型軽巡洋艦の改良型として設計され、球磨型の船型、主要寸法、機関出力、速力、備砲、機雷搭載量は変更無い[13][19]。艦型は球磨型軽巡洋艦#艦型も参照。球磨型からの主な変更点は以下のとおり。
水雷兵装
[編集]魚雷兵装は、魚雷数と発射管数は球磨型と同一であるが、魚雷を六年式53cm魚雷から八年式61cm魚雷搭載に変更した[20]。この当時は主力艦の戦闘距離が伸び、53cm魚雷では射程が不充分となったためであった[20]。これにより当時の世界水準において有数の攻撃力を持つものとなった[20]。発射管の位置も球磨型と同一であるが、短艇甲板を後部へ延長して、後部発射管はその下に収められた[20]。これにより後部構造と短艇甲板は連続することになった[20]。 なお短艇甲板の延長は球磨型の各艦も後日、同様の改装を行っている。
航空兵装
[編集]球磨型では水偵(水上偵察機)1機を搭載するも発艦装置がなく、水上に降ろして発進させる形だった[20]。この時は艦は停止または微速航行する必要があり、軽巡の機動性が犠牲になってしまう[20]。また当時の水偵は外洋での発進は出来ず、実用の域に達していなかった[21]。射出機の実用化にも日本海軍は遅れをとっていた[22]。
そこで本型では艦橋構造を拡大して羅針艦橋下に格納庫を設け、その前方に滑走台を設けた[20]。滑走台方式はイギリス海軍が開発した方式で、前型(球磨型)の木曽で実験を行い成功していた[22]。滑走台は船体に固定され(木曽は2番砲上に設置)、前方に傾斜が付けられた[23]。また艦橋側面に飛行機積み込み用のデリックが設置され、搭載機は一〇年式艦上戦闘機を偵察機として使用した[24]。この滑走台方式では一応実用化に達したというだけで、発艦した機体を帰還後に収容できない不便なものだった[24]。就役後に航空機はまれにしか搭載されず、滑走台はほとんど使用されなかった[25]。
艦橋
[編集]艦橋構造は格納庫を設けた関係で司令塔は廃止され、代わりに操舵室が設けられた[24]。羅針艦橋は球磨型の三角形に近い平面形状から、本型では矩形になった[24]。面積は広くなったが、斜め前方に角があり視界が悪い欠点もあった[24]。羅針艦橋が露天なのは球磨型と同様である[24]。
機関
[編集]機関も球磨型と同様で、主機は高圧タービンが技本式衝動型、低圧タービンが三菱パーソンズ式反動型のオール・ギアード・タービンである[26][27]。
川崎造船所建造の「鬼怒」だけは主機にブラウン・カーチス式タービンを装備しており、巡航タービンを装備していなかった[9][28]。またボイラーに過熱器を装備、過熱蒸気(他の艦は飽和蒸気)を使用していた[26]。そのため他の艦より排水量が100トンほど多かったという[26]。なお、「鬼怒」のタービンはトラブルが多かったと言われ、就役後まもなく大修理を行っている[26]。
その他
[編集]球磨型にあった後部艦橋は廃止された[24]。また7番砲下にあった機雷庫も廃止されている[24]。
兵装の変化
[編集]竣工後
[編集]竣工からほどなくして、前部マスト上の射撃指揮所の下方に魚雷戦用の測的所が新設された[29](「阿武隈」は竣工時から設置[30])。1931年(昭和6年)ころまでに、測的所は更に拡大され[25]、艦橋後方に作戦室と電信室が拡大、前部マストは複雑な構造になった[29]。同時期、煙突に雨水除けが装着されている[25]。方位測定儀はX字型アンテナから、菱形状のものに交換された[29]。三年式機砲も留式7.7mm機銃に交換されている(後述)[29]。
近代化改装
[編集]1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)に長良型の各艦は順次近代化改装が行われた[31]。後述する航空兵装の刷新が中心となる[32]。その他に前後マストに見張所を新設などが行われている[32]。
近代化改装後も太平洋戦争開戦までにボイラーの重油専焼化、前部マストの短縮、探照燈の換装、方位測定儀アンテナの換装などが行われている[32]。
航空兵装
[編集]射出機は1930年(昭和5年)に陸上試験を行った萱場式射出機が、同年「由良」に初めて搭載された[33]。射出機は滑走台上に設置、水偵1機を搭載した[33]。この射出機は事故が多く「由良」搭載の1基だけで製作は打ち切られている[33]。
鬼怒は1930年10月に呉式2号2型射出機を滑走台上に装備、九〇式一号水偵を搭載した[33]。
近代化改装により「由良」、「鬼怒」を含む長良型各艦は5番砲と6番砲の間に支柱を設け、呉式二号三型射出機を装備した[25]。滑走台は撤去(または後に撤去)、格納庫は司令部施設や通信施設に充てられた[25]。後部マストにはデリックが装備され、補強のためにマスト下部は三脚式に改められた[25]。また水偵の揚収や整備のため、付近の短艇甲板が拡大された[25]。「長良」は右舷側を拡大、「名取」は左舷側を拡大するなど各艦で違いがある[32]。
搭載機は改装時は九〇式水上偵察機、その後九五式水上偵察機から九四式水上偵察機に変更され、そのまま太平洋戦争開戦時も搭載していた[34]。
対空兵装
[編集]竣工時に2挺が装備されていた三年式機砲(口径6.5mm)は、1931年(昭和6年)から1934年(昭和9年)にかけて留式7.7mm機銃に交換された[35]。なおこれら単装機銃の装備位置については短艇甲板との記述が多いが搭載位置が分かる写真などは残っておらず正確な装備位置は不明である。第一煙突と第二煙突間の吸気塔上とする推測図面もあるが、同位置には1923年(大正12年)末に水雷戦用測距儀が装備されており、考えづらい。なおこの7.7mm機銃は1942年(昭和17年)途中に撤去されたようである。[要出典]
ウェルデッキ後方の短艇甲板前端に装備されていた8cm単装高角砲2基は、1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて九三式13mm連装機銃2基に換装された[35]。なお「名取」のみは1937年(昭和12年)、8cm高角砲に換えて毘式40mm連装機銃を一時的に装備した[35]。93式13mm連装機銃は1941年の開戦までに九六式25mm連装機銃2基に換装された[35]。
1932年から1934年の近代化改装で、「名取」と「阿武隈」は不要となった滑走台の前端に九三式13mm4連装機銃1基を装備した。後に滑走台は撤去されるが、その際には改めて艦橋中央前方に機銃台が設けられて同機銃がそこに配置された。その他の4艦は近代化改装で滑走台を撤去、各艦は艦橋前面に13mm4連装機銃を設置した(「由良」は機銃座のみの設置)。
太平洋戦争時
[編集]1942年(昭和17年)9月に沈没した「由良」の兵装は、開戦時から変更は無いと思われる[18]。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて、艦橋前の機銃は九三式13mm連装機銃1基に換装される(この換装を連装機銃「2基」へとの記述をする文献が見かけられる[36]が、これは誤りで「1基」が正しい)。[要出典]「五十鈴」は防空巡洋艦に改装された時、この位置(羅針艦橋前)に九六式25mm三連装機銃2基を装備した[37]
「阿武隈」と「長良」は1942年から1943年初めに5番主砲を撤去、阿武隈は後部魚雷発射管上部のシェルター甲板に左右1基ずつの25mm3連装機銃を追加装備した[36]。阿武隈は1943年10月から11月、「長良」は1944年1月から4月の工事で7番主砲を撤去し跡地に12.7cm連装高角砲1基を装備、射出機を撤去して支柱上に25mm三連装機銃1基を装備した[36]。「五十鈴」、「名取」、「鬼怒」の3隻は1943年から翌年にかけて5番砲・7番砲を同時に撤去、対空兵装を前の2隻と同様に強化した[36]。同時期及びそれ以降、艦上の各所に25mm単装機銃や13mm単装機銃が追加装備され、「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると、1944年8月調査の長良の場合で25mm3連装機銃2基、同連装機銃6基、同単装機銃14基、13mm連装機銃1基、同単装機銃8基とされている[38]。
防空巡洋艦兼対潜掃討艦になった「五十鈴」は14cm砲を全部撤去して12.7cm連装高角砲3基を装備、25mm機銃も増備した[19]。
魚雷
[編集]太平洋戦争開戦時、阿武隈を除く5隻は九〇式魚雷(空気魚雷)を搭載していた。 「阿武隈」のみは1941年(昭和16年)に前部の魚雷発射管2基を撤去してウェルデッキを廃止、後部発射管2基を四連装発射管2基に換装して九三式魚雷(酸素魚雷)の発射能力を得ていた[39]。1944年(昭和19年)に防空巡洋艦へ改装された「五十鈴」も同様の改造を行い、酸素魚雷発射機能を持ち合わせた[34]。また「長良」も1944年の修理において、発射管は連装発射管4基のままとし、発射管の改造にて酸素魚雷発射機能を有したとの説もある[40]。
同型艦
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻p.309では、速力35.25ノットとしている。
出典
[編集]- ^ #海軍艦艇史2p.253、No.2463の写真解説。
- ^ a b c d #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92、大正15年11月29日内令第238号
- ^ a b c d e #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.150
- ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲、うちpp.1060-1061。
- ^ a b c d e f g h i j #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.1、ただし、ページ数が振っていないので戦後複写版と同じく表紙の次を1ページとして数えている(以下同様)。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b #JapaneseCruiserspp.32,34, "Hull and Protection Particulars". p.34,Drawing 1.14, "Kuma Class, Midships Section".
- ^ a b c d e #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.17
- ^ a b #海軍造船技術概要(1987)上巻p.306
- ^ a b #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1689、機関大体要目。
- ^ a b c d e f #海軍造船技術概要(1987)上巻p.309、天龍及5,500噸型巡洋艦要目比較(新造計画)。
- ^ 大正11年2月25日付 海軍内令 第48号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。
- ^ a b c d e f g h #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.151
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.251
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.260
- ^ a b c #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.156
- ^ a b #東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈p.219
- ^ a b #日本巡洋艦史(2011)p.88
- ^ a b c d e f g h #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.152
- ^ #日本の巡洋艦1993p.273
- ^ a b #東・石橋(1990)球磨多摩木曽p.48
- ^ #東・石橋(1990)長良五十鈴名取pp.152-153
- ^ a b c d e f g h #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.153
- ^ a b c d e f g #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.154
- ^ a b c d #東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈p.213
- ^ #JapaneseCruiserspp.35-37, "Machinery Particulars". p.36, "Drawing 1.16A, 5,500-Ton Class, Layout of Foward Part Turbine Set, Mitsubishi-Parsons-Gihon Design".
- ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1690
- ^ a b c d #東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈p.215
- ^ #写真日本の軍艦第8巻p.247
- ^ #日本巡洋艦史(2011)p.94の写真解説
- ^ a b c d #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.155
- ^ a b c d #東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈p.216
- ^ a b #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.158
- ^ a b c d #JapaneseCruisersp.168, TABLE 5.4.
- ^ a b c d #JapaneseCruisersp.371, TABLE 8.1, "Wartime Modifications of the Armament of the 5,500-TOn Cruisers".
- ^ #東・石橋(1990)長良五十鈴名取p.158、第5図
- ^ #世界巡洋艦物語p.356「あ号作戦後の巡洋艦兵装状況一覧表(増設数/既設数)」
- ^ #JapaneseCruisersp.212, Modification of the Torpedo Equipment of the Destroyer Squardron Flagship.
- ^ #学研艦艇史2p.88-89
参考文献
[編集]- Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 『世界の艦船 増刊第32集 日本巡洋艦史』海人社、1991年
- 『日本巡洋艦史』 世界の艦船 2012年1月号増刊 第754集(増刊第101集)、海人社、2011年12月。
- 福井静夫『世界巡洋艦物語』 福井静夫著作集第8巻、光人社、1994年。ISBN 4-7698-0656-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X。
- 解説・東清二/作図・石橋孝夫『図で見る軽巡『球磨・多摩・木曽』変遷史』、44-51頁。
- 解説・東清二/作図・石橋孝夫『図で見る軽巡『長良・五十鈴・名取』変遷史』、150-158頁。
- 解説・東清二/作図・石橋孝夫『図で見る軽巡『由良・鬼怒・阿武隈』変遷史』、212-220頁。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年
- 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の巡洋艦』グランプリ出版、1993年3月。ISBN 4-87687-132-9。
- 『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.32「軽巡 球磨・長良・川内型」』学習研究社、2001年。
- 『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.51「帝国海軍 真実の艦艇史2」』学習研究社、2005年。
- 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、長良型軽巡洋艦に関するカテゴリがあります。