長広敏雄
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生誕 | 1905年12月27日 |
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出身地 | 日本東京都葛飾 |
死没 | 1990年11月28日(84歳没) |
学歴 | 京都帝国大学 |
ジャンル | 音楽、美術史 |
職業 | 美術史家 |
長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月27日[1] - 1990年11月28日[1])は、日本の美術史学者。専攻は東洋美術史。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中国石窟寺院の研究」)。京都大学名誉教授。
人物・来歴
[編集]東京葛飾生まれ(牛込とする記述もあり[1])。1929年京都帝国大学文学部卒業[1]、東方文化学院京都研究所所員となり[1]、梅原末治の助手となる[1]。1934年の中国旅行を経て仏教石窟研究へ関心が移り[1]、1936年に水野清一と中華民国・河北省南北響堂山および河南省龍門石窟の調査を行った[1]。1938年から1944年にかけては、山西省雲崗石窟の調査を行った[1]。
1930年代後半には反ファシズムの隔週刊新聞『土曜日』の執筆に参加したこともある。
戦後、東方文化学院京都研究所が改編された東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)助教授、1950年、教授。1952年、「雲岡石窟」(水野清一共著)で日本学士院賞・恩賜賞(第42回)受賞。1962年2月「中国石窟寺院の研究」で、京都大学より文学博士の学位を取得[1]。1969年京都大学を停年退官[1]、同大学名誉教授[1]。同年から京都橘女子大学教授[1]。1975年黒川古文化研究所理事[1]。1976年勲三等旭日中綬章受章[1]。1978年京都橘女子大学学長に就任[1]。1986年同大学を退任[1]、同大学名誉教授[1]。
著書
[編集]- 『古代支那工藝史に於ける帯鉤の研究』桑名文星堂 1943(東方文化研究所研究報告)
- 『大同石佛藝術論』高桐書院 1946
- 『北京の画家たち』全国書房 1946
- 『音楽論ノート』全国書房 1947
- 『飛天の藝術』朝日新聞社 1949
- 『ヨーロッパ芸術紀行』角川書店(角川新書)1963
- 『雲岡と龍門-中国の石窟美術』中央公論美術出版(芸術選書)1964、新版1978
- 『漢代畫象(画象)の研究』中央公論美術出版 1965(京都大學人文科學研究所研究報告)
- 『東洋の美-こころとかたち』美術出版社(美術選書)1967
- 『天人の譜』淡交新社 1967
- 『南陽の画象石』美術出版社 1969(非売品・限定版)
- 『六朝時代美術の研究』美術出版社 1969、増補版 朋友書店 2010(京都大學人文科學研究所研究報告)
- 『雲岡石窟 中国文化史蹟』世界文化社 1976(図版・解説篇の2冊組)
- 『中国美術論集』講談社 1984.9
- 『雲岡日記 大戦中の仏教石窟調査』日本放送出版協会〈NHKブックス〉 1988.2[2]
編著・共著
[編集]- 『河北磁県・河南武安響堂山石窟』水野清一 東方文化学院京都研究所 1937
- 『河南洛陽 龍門石窟の研究』水野清一 東方文化研究所 1941(東方文化研究所研究報告)
- 『龍門石窟の研究 座右寶刊行会 1943/覆刻版 全3巻(本文篇2冊・図版篇1冊) 同朋舎 1980
- 『雲岡石窟 西暦五世紀における仏教寺院の考古学的調査報告』京都大學人文科學研究所
- 『世界美術全集 第14巻 中国(3) 六朝』 角川書店 1963
- 『東洋美術 第3巻 彫塑』朝日新聞社 1968
- 『世界の文化史蹟 第7巻 中国の石窟寺』講談社 1969、新装版1980
- 『モダンアート客話 大原総一郎と京都の五人』大原美術館・中央公論事業出版 1970
- 『中国美術 第3巻 彫塑』佐藤雅彦共著 講談社 1972
- 『御物集成 東山御物 柳営御物』淡交社(2巻組)1972。谷信一・岡田譲 共編
- 『グランド世界美術 6 中国の美術Ⅱ』講談社 1978
訳書
[編集]- 『音楽通論』ハンス・メルスマン 第一書房 1939
- 『美術様式論 装飾史の基本問題』アロイス・リイグル 座右宝刊行会 1942/改訳版・岩崎美術社(美術名著選書)1970、新版1990
- 『歴代名画記』全2巻 張彦遠 平凡社東洋文庫 1977。ワイド判(オンデマンド) 2003
記念論集
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「長廣敏雄先生略歴・著作目録」『橘女子大学研究紀要』1986