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金炳徽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金 炳徽
김 병휘
生誕 1921年3月21日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮江原道江陵市
死没 (2012-04-22) 2012年4月22日(91歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織  大日本帝国陸軍
大韓民国陸軍
軍歴 1946-1965
最終階級 少尉(日本陸軍)
少将(韓国陸軍)
除隊後 嶺南化学常任監事
墓所 国立大田顕忠院将軍第2墓域204号[1]
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金 炳徽(キム・ビョンヒ、김 병휘1921年3月21日[2] - 2012年4月22日[1])は、大韓民国の軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

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京城帝国大学在学中に学徒出陣し、四国第34部隊での訓練を経て広島県中国軍管区歩兵第2補充隊(中国第106部隊[3][4])にて少尉で終戦を迎える。

1946年、軍事英語学校を3月23日付で卒業、警備隊参尉任官(軍番74[5])。 春川で新規編成された第8連隊に配属され、A中隊(長:金鍾甲中尉)小隊長。

やがて同連隊大隊長となった際、部下に表武源姜太武がおり、のちに第6旅団参謀長在任中に両名の越北事件が起こると、第7連隊長の沈彦俸に攻撃命令を伝える[6]

朝鮮戦争直前の1950年6月10日、第2師団第25連隊長(中領)に発令され、後方の温陽でゲリラ討伐戦に従事する。しかしそれから間もない13日に義政府の第7師団隷下に加わるよう辞令を受けたが、予定の20日を過ぎても移駐準備が整わず、そのまま同地で25日の開戦を迎える。第3師団(師団長:李俊植准将)に組み込まれ、漢江の戦いに参加。それから間もなく、済州島の第5訓練所所長に転じる。

のち第1軍団参謀長を経て第11師団長となり、奪還した束草市の復興に携わる。

1960年9月、整軍派将校らが合同参謀本部議長・崔栄喜中将に辞任を迫った「下剋上事件」を受け、陸軍中央懲戒委員会委員長として事態の収拾を行った[7]

第5軍管区司令官、作戦参謀部長を経て1964年、第2訓練所所長。

1965年2月に予備役編入後は嶺南化学理事、常任監事。

年譜

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  • 1950年
  • 1952年:第1軍団参謀長
  • 1953年:第11師団長
  • 1961年7月:第5軍管区司令官(大邱)
  • 1963年:作戦参謀部長
  • 1964年:第2訓練所所長
  • 1965年2月:予備役編入

脚注

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  1. ^ a b 陸軍少将金炳徽” (朝鮮語). 国立大田顕忠院. 2016年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月21日閲覧。
  2. ^ 東洋経済日報社 編『東洋会社年鑑 1982年版』東洋経済日報社、1982年1月、667頁。NDLJP:11917650/334 
  3. ^ 112~121.中国軍管区”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15011253000、「昭和20年10月下旬「マ」司令部提出 帝国陸軍部隊調査表 集成表(原簿)List4 日本陸軍省(防衛省防衛研究所). 2024年9月17日閲覧。
  4. ^ 154.広島師管区部隊 (5D関係)”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15011215900、「昭和20年10月下旬 「マ」司令部提出 帝国陸軍部隊調査表 集成表(原簿)List2-(1) 日本陸軍省. 2025年1月30日閲覧。
  5. ^ 佐々木上 1976, pp. 88.
  6. ^ 佐々木上 1976, pp. 188.
  7. ^ “軍法會議回附지시” (朝鮮語). 부산일보. (1960年11月5日). https://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19601105000076 2025年1月22日閲覧。 

参考文献

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軍職
先代
朴基丙
第5軍管区司令官
第?代:1961.7 - 1963.4
次代
呉昌根
先代
金相福
第2訓練所
第15代:1964.8 - 1965.2
次代
金振暐