身池対論
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身池対論(しんちたいろん)とは、寺領は国主の供養か仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺・日暹と不受不施を主張する池上本門寺・日樹との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争をいう[1][2]。
概要
[編集]1630年3月25日(寛永7年2月12日)受布施派は寺領は国主の供養であると主張し、不受不施派は寺領は供養の施と仁恩の施があり、供養一途には解すべきでないと主張した。1630年5月13日(寛永7年4月2日)幕府は対論を裁決し、徳川家康が不受不施派を禁止した裁きに違背した罪として、不受不施派を敗者とする結論を下した。池上本門寺・日樹は信州伊那に流罪、中山法華経寺・日賢は遠州横須賀に流罪、平賀本土寺・日弘は伊豆戸田に流罪、小西檀林・日領は佐渡のち奥州中村に流罪、碑文谷法華寺・日進は信州上田に流罪、中村檀林・日充は奥州岩城平に流罪、となった。また、不受不施派の首謀者として大きな影響を与えた日奥は、裁決直前、1630年4月22日(寛永7年3月10日)66歳で京都妙覚寺に没したが、死後に関わらず再度、対馬に流罪となった。更に幕府は不受不施派の拠点である池上本門寺を日遠に、京都妙覚寺を日乾に与えた。身延久遠寺はこれを好機として飯高檀林・中村檀林・小西檀林の三檀林を接収し、中山法華経寺・小湊誕生寺の不受不施派の拠点をも支配下に収めた。