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趙雲

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趙雲
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 生年不詳
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
別名 虎威将軍
主君 公孫瓚劉備劉禅
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趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、生年不詳 - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍(しりゅう・しりょう)[1]冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯

生涯[編集]

公孫瓚の配下にいた頃、青州袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、2人は危機を免れることができたが、劉備の娘2人は曹純に捕らえられた(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 1]

劉備の東征では、魏への備えと後方支援のため江州に駐屯し、敗走する劉備の救援を行った。建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 2]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された[注釈 3]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

建興7年(229年旧暦11月、没した。子の趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。

趙雲別伝[編集]

正定県趙雲故里にある趙雲像

正史『三国志』(蜀書)趙雲伝に裴松之が引用した『趙雲別伝』には、趙雲について以下の記述がある。

生誕[編集]

常山真定出身。身長八尺(約185cm)、姿や顔つきが際立って立派だったという。

公孫瓚配下時代[編集]

故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州の公孫瓚の配下となった。

当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲をからかって「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか」と言った。趙雲は「いま天下は乱れ、いまだ誰が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したのではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した。

この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。次第に劉備と趙雲は仲を深めていった。

その後、趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、[注釈 4]趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた。

劉備との再会[編集]

建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに目通りし、劉備は趙雲の来付けを喜び、同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して募兵させて、密かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた。

劉備配下時代[編集]

旧友を生け捕る[編集]

建安8年(203年)、博望坡の戦いで、敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さいころからの同郷の旧友であることから、劉備に助命嘆願すると共に、法律に明るい人物として軍正に推挙した。その結果、夏侯蘭は軍正として登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないように気遣った。

長坂坡の戦い[編集]

趙雲(長坂の戦い)

建安13年(208年長坂の戦いにおいて、劉備が敗れると、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と怒った。ほどなく趙雲が到着した。

荊州平定[編集]

建安13年(208年)荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄なら、わたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった。樊氏は傾国の美女であったので、なおも趙雲に、娶るようすすめる者がいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。それに、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。その後、趙雲の警戒通り趙範は逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった。

阿斗奪還[編集]

劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、劉備の正妻となっていた孫権の妹である孫夫人(孫尚香)は、孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させて、軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるには最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した。

孫権は劉備が入蜀したことを知ると、孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。諸葛亮は趙雲に命じ、張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。

益州平定[編集]

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば、自然と心服するでしょう」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った。

定軍山の戦い[編集]

建安24年(219年)、漢中攻め(定軍山の戦い)で、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。心配した趙雲は少数の兵を率いて偵察へ向かったところ、曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に囲(拠点)へと戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出した。

しかし曹操軍は再び盛り返し、趙雲らの囲まで追撃してきた。囲には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は陣営に入ると大いに門を開き、旗を伏せて太鼓を止めさせた。曹操軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげた。そして、趙雲は雷のように太鼓を天を震わせるほどたたき、で後から曹操軍を射た。曹操軍は驚き、混乱の中、互いに蹂躙し漢水の中に落ち、大勢が死んだ。(空城計

劉備は翌日の朝、趙雲の囲に自ら向かい、昨日の戦いの場所を視て、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至った。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。

対呉戦争[編集]

章武元年(221年)、を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した。

第一次北伐[編集]

建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が自ら殿軍を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功した。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき、将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでも、わが軍はまとまることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍のおかげであります。将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊はまとまりを失わずすんだのです」と答えた。

諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残して赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の備えとされますようお頼みします」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ。

死後[編集]

劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた。

景耀4年(261年)3月、大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した。

「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役(長坂坡の戦い)では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです」

「謹んで諡法を調べますに、柔順で賢明で、慈愛を持ち恵愛にあふれることを『』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです」

趙雲別伝の信憑性と見解[編集]

別伝とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[4]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎や佐著作郎の課題として書かれた[5]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[6][7][8]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[9]。裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[10]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[11]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[12]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[13]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[14][15]

史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[16]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素であることから、その信憑性を疑う声もある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。

採用者および肯定派の見解[編集]

  • 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
  • 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
  • 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[17]
  • 矢野主税: 対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[18]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[19]

否定派の見解[編集]

  • 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[20]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応であるとして、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[21]

その他[編集]

  • 李光地中国語版:「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか」と疑問を呈している[22]

家族[編集]

親族[編集]

  • 兄: 名は不詳。『趙雲別伝』に記載がある。『演義』には登場しない。

子孫[編集]

  • 趙統: 長男。趙雲の死後、後を継いだ蜀漢の武将。『演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広(趙廣): 次男。蜀漢の武将。沓中での戦いにて戦死。『演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 関樾: 趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。

評価[編集]

成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。

後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。清代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清代は『演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。

また、康熙61年(1722年)には、歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注釈 5]

その他評価[編集]

  • 陳寿 「黄忠と趙雲は、共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となった。灌嬰滕公のともがらであろうか」[注釈 6]
  • 楊戯 「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、度々勲功をあげた猛将であった」[25]
  • 李光地:張嶷とあわせて、趙雲のことを「(ふたりは)明瞭な頭脳と賢明さを備えている」と評価している[26]

四字熟語[編集]

一身是胆(いっしんしたん)[27]
強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味から。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から。
満身是胆(まんしんしたん)[28]
一身是胆の類語。

三国志演義[編集]

公孫瓚の下で活躍する趙雲

五虎大将軍として関羽・張飛・馬超・黄忠ら四人と同格に位置付けられ、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。

身体的な特徴付けとして、初登場時に「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と、まだ少年ながらに体躯堂々たる偉丈夫として描写されている。

長坂では、単騎で大軍の中を単騎で駆け抜け、阿斗と甘夫人を救出する話が代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。ちなみに嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[29]

劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[30]。また五虎大将の序列について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗中国語版が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[31]

民間伝説[編集]

Mask of Zhao Yun used in folk opera
演劇で用いられる趙雲の仮面

民間伝説によると、趙雲は「白龍」(はくりゅう)、もしくは「白龍駒」(はくりゅうく)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように開放し、大変喜ばれている。

また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたとなっている。『三国志平話』によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯に敵う者なし」という意味で名付けたことになっている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。

妻の身分は不詳。民間伝承によると、趙雲の妻に孫軟児なる夫人がおり、この夫人が戯れに刺繍針で趙雲の身体をつついたところ、血が止まらなくなり死んでしまった。河北梆子劇『青釭剣』によると、趙雲の妻に李翠蓮の名が見られる。

上記は『三国志』や『三国志演義』では一切語られていないが、白龍の話は映画『レッドクリフ』で採用されている。軟児の名は、映画『三国志』(2008年、中国・韓国)で採用されている。

趙雲を主題とした作品[編集]

映画
テレビドラマ
小説
朗読CD
  • 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ “夷陵に燃ゆ” / 趙雲篇(2012年、主演:KENN
漫画

その他関連作品[編集]

小説[編集]

蜀漢滅亡後、劉備や諸葛亮、関羽、張飛、趙雲たちの子孫が活躍する。
新聞『民徳報』にて連載。馬超、趙雲、馬超の妹の馬雲騄が主人公。日本語訳は以下ふたつの版がある。

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

アニメ作品[編集]

ゲーム[編集]

漫画[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
  2. ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば、趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという。
  3. ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[2]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[3]
  4. ^ 192年に常山郡は袁紹の統治領となった。
  5. ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡仲虺中国語版畢公高周呂侯仲山甫中国語版尹吉甫劉章魏相丙吉耿弇馬援狄仁傑宋璟姚崇李泌中国語版陸贄中国語版裴度呂蒙正李沆中国語版寇準王曾范仲淹富弼韓琦文彦博、司馬光、李綱趙鼎文天祥、呼嚕、博果密、托克托常遇春李文忠楊士奇楊榮于謙李賢劉大夏[23]
  6. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[24]

出典[編集]

  1. ^ 趙雲』 - コトバンク
  2. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。" 
  3. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
  4. ^ 楊子龍「浅談魏晋南北朝時期雑伝之別伝」『四川教育学院学報』第3号、2009年、57-58頁。 p. 58.
  5. ^ 朱静「魏晋別伝繁興原因探析」『塩城師範学院学報(文社会科学版)』第2号、2006年、62-66頁。 p. 65.
  6. ^ 田延峰「漢魏六朝時期人物別伝綜論」『宝鶏匯理学院学報(哲学社会科学版)』第2号、1995年、76-80, 20。 pp. 77-78, 80.
  7. ^ 趙華「略論別伝与史伝之異同」『黒河学刊』第6号、2003年、85-86頁。 p. 58.
  8. ^ 朱 2006, pp. 62–64.
  9. ^ 王煥然「試論漢末的名土別伝」『沈陽師範大学学報(社会科学版)』第2号、2004年、70-74頁。 p. 74.
  10. ^ 裴媛媛「魏晋別伝体例考論」『編輯之友』第11号、2012年、106-108頁。 p. 107.
  11. ^ 『三国志』巻14孫資伝注引『孫資別伝』
  12. ^ 田 1995, p. 80; 楊 2009, p. 58.
  13. ^ 漢書』巻65東方朔伝顔師古注, "謂如《東方朔別傳》及俗用五行時日之書,皆非實事也。"
  14. ^ 矢野 1967, pp. 30–31.
  15. ^ 田 1995, pp. 77, 80.
  16. ^ 渡邉 2020, pp. 242–243.
  17. ^ 渡邉 2020, p. 243.
  18. ^ 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。 p. 31.
  19. ^ 矢野 1967, p. 45.
  20. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "本傳先主為平原相時,[]雲已隨從主騎,《別傳》謂 '就袁紹,雲見於鄴' 則在建安五年後,此違反不可信也。";"諸葛賞罰之肅,雲猶貶號,其下安得濫賜?又足以明其不然。別傳類皆子孫溢美之言,故承祚不取。"
  21. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。"
  22. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之美德皆見《別傳》 ,而本傳略不及之,何哉?"
  23. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『清史稿』巻84礼志三, ウィキソースより閲覧, "[康熙]六十一年,[聖祖]諭:「帝王崇祀,代止一二君,或廟饗其臣子而不及其君父,是偏也。凡為天下主,除亡國暨無道被弒,悉當廟祀。有明國事,壞自萬曆、泰昌、天啟三朝,神宗、光宗、憙宗不應崇祀,咎不在愍帝也。」於是廷臣議正殿增祀[...]凡百四十三位。其從祀功臣,增黃帝臣倉頡,商仲虺,周畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫,漢劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲,唐狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度,宋呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥,金呼嚕,元博果密、托克托,明常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏,凡四十人。是歲,世宗御極,依議行,增置神主,為文鑱之石。" 
  24. ^ 『三国志集解』巻36評, "灌[]摧項羽於垓下,滕[]脫孝惠於彭城,比之定軍、當陽之事。"
  25. ^ ウィキソース出典 季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。  - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  26. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『榕村語録』巻22, ウィキソースより閲覧, "趙雲、張嶷不獨有將略,其見事明決,持重老成,實古重臣之選。" 
  27. ^ 一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  28. ^ 満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  29. ^ 嘉靖元年(1522年)序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」
  30. ^ 上野隆三「『三国演義』における趙雲像」(PDF)『中國文學報』第38号、1987年、86-114頁。 p. 98.
  31. ^ 上野 1987, pp. 102–104.

参考文献・関連書籍[編集]

  • 陳寿撰、裴松之注 『正史 三国志 5 蜀書』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年。- ISBN 4-480-08045-7
  • 「中国の思想」刊行委員会編訳『正史 三国志英傑伝III 貫く 蜀書』徳間書店、1994年。- ISBN 4-19-860086-4
  • 渡邉義浩 著「趙雲 主君の子を守り抜く」、鶴間和幸 編『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年、240-249頁。ISBN 978-4-389-50122-8 
  • 『三國志 英傑完全ランキング』渡邉義浩監修、宝島社、2020年。- ISBN 978-4-299-01092-6
  • 『三国志ビジュアル百科』渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス 企画協力、講談社、2018年。- ISBN 978-4-06-513580-8
  • 小林瑞恵「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」後藤裕也・小林瑞恵・高橋康浩・中川諭『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年、p. 147-261。- ISBN 978-4-585-29078-0
  • 坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』平凡社新書、2006年。ISBN 4-582-85325-0 
  • 董毎戡『三国演義試論』上海古典文学出版社、1956年。ISBN 9787200148374 
  • 華陽国志

関連項目[編集]

外部リンク[編集]