孫軟児
孫 軟児 そん なんじ | |
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拼音 | Sūn Ruǎnér |
幼名 | 軟児 |
夫 | 趙雲 |
備考 | 民間伝承上の妻 |
孫 軟児(そん なんじ、拼音: Sūn Ruǎnér、簡体字: 孙 软儿)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍・趙雲の架空の妻。伝承によっては、軟児の名は幼名とし、孫氏と呼ぶものもある[1]。『三国志』『三国志演義』には登場しない。
趙雲の死と妻の刺繍針
[編集]大まかなあらすじは、「戦場で一度も負けなかった趙雲の身体には傷一つなかった。そこで妻(孫軟児)が戯れで(刺繍)針で傷をつけたところ、血が止まらなくなり趙雲は死んでしまった」といった内容である。この伝承には地方で似通ったパターンが存在するが、趙雲の墓があるとされる大邑県と趙雲の故郷である正定県の物語では妻の名前はない。1980年代頃に収集されている[注 1]。
四川省大邑県版
[編集]趙子龍は生涯で数百回戦ったが、一度も負けたり怪我をしたことはなかった。
ある日、子龍と妻は楽しくおしゃべりをしていると、子龍は「自分の身体には矢傷どころか、針先ほどの小さな傷跡もない」と豪語した。妻はその話を楽しく聴いていたが、完全には信じられなかった。「それなら調べてもいいよ」と、子龍は衣服を解き始め、妻に身体を見せようとしたので、妻は慌てて「服なんて脱いだら風邪をひきますよ!」と止めさせた。その夜、子龍が眠りにつくのを待って、妻は燈を持ち、身体のすみずみまで観察したが、本当に針の先ほどの傷さえ見つけることができなかった。彼女は幸せな気持ちになり、明日、子龍をからかってやろうと思い、子龍のおへその横に針を少し突き刺して、口紅を塗った。
翌日、子龍がなかなか起きてこないので、彼女は布団を開け、屈み込んで様子を見た。すると……子龍の腰からは大量の血だまりが流れ出し、全身は冷え、硬直して死んでいた。彼女は恐怖に叫び、その場で気絶した。
子龍はなぜ針で刺されただけで死んでしまったのか?それは子龍が天から地上に降り立った『燈籠星』だからだ。彼は90年以上生きたが、針で殻に穴を開けたからガスが放出されて燈籠が消え、子龍は死んだのだ[2]。 — 「趙子龍之死」
河北省正定県版
[編集]1970年に秦家庄村で採録。大邑版より10年ほど古い時期に記録されている。大邑版とほぼ同じ内容で、相違点は正定版では趙雲の年齢は84歳となっており、妻が針で刺した場所は、へその横ではなく額になっている。また『燈籠星』のくだりが『水瓶星』となっており、「趙雲の妻は趙雲の皮膚を刺した。それは水の入った瓶を割ったのと同じことだから、水が漏れて趙雲は死んでしまった」と書かれている[3]。
書籍版
[編集]民間伝承を取り扱った書籍に収録されている物語で、大邑や正定の話と類似しているが、上記二つの物語とは違い、妻の名前として「孫軟児」が確認される[1]。ただし、「軟児」を幼名とし、「孫氏」と呼んでいる[1]。
趙子龍の妻の名は孫氏、幼名は軟児。美しい容貌とすらりとした体形で、活発な性格だった。子龍が出征先から数ヶ月して帰ってくると、孫氏は笑いながらほうきを振り回し、帰りが遅いと子龍を叩いた。子龍もまた、笑いながら謝罪した。このように二人は冗談を言い合う非常に仲睦まじい夫婦だった。子龍が40歳の時、孫氏は湯を沸かし、刺繍をしていると子龍が戦を終え帰宅したので、満面の笑みで迎えた。子龍が服を脱ぎ、傷一つない白い肌を見せると、孫氏は「長く戦場を駆け回っているのに、どうして傷一つないのかしら?」と尋ねた。子龍は得意げに笑って言う。「私は戦場で一度も傷ついたことがなく、だから『常勝将軍』と呼ばれているんだ」「本当に?信じられないわ!」子龍は笑って尋ねた。「どうしたら信じてくれる?」彼女は刺繍針を高く掲げ、冗談で子龍の肩を軽く刺した。
すると、肩から血が噴き出し、子龍は思わず悲鳴を上げた。血はなかなか止まらず、涙ながらに介抱する妻に、子龍は力なく微笑みながら言った。「まさか、戦場で死ぬのではなく、愛する妻の針で命を落とすとは…」そう言い残し、息を引き取った。孫氏は悲しみに暮れ、後を追うように夫の佩刀で自害した。
——このあまりにも悲劇的な結末は、『三国志演義』では削除された。作者は、この逸話が人々に子龍の妻を責める口実を与えてしまうと懸念したからだ。子龍の本当の死因はこうして伝説となった」 — 王登雲「趙雲之死」
その他
[編集]出典元不明。前述の書籍版『趙雲の死』の内容を詳細に描いたような内容となっており、派生形と考えられる。
ある夜、趙雲が戦場から帰ってくると孫軟児はお風呂を沸かせて待っていた。孫軟児が「本日も、お勤めご苦労様でした。子龍池で汲んだ霊泉水を沸かしたお風呂をご用意いたしました。冷めないうちにどうぞ、白龍(白龍駒、趙雲の愛馬)には霊泉水の用意があります」と言うと、趙雲は「ありがとう」と言い、返り血や土埃で汚れた衣服を脱ぎ、湯気が立ち籠める湯船に浸かった。孫軟児は浴場の隣で蝋燭を灯して、服の破れた場所に目立たないように刺繍をしながら、ふと、月明かりのもとで夫の身体が水晶の如く透き通り、鎧服(がいふう、鎧兜(甲冑)や衣服)から解き放たれた白い肌が桃色に染まっていくのに気が付いた。
孫軟児は不思議に思い「長年、戦場を駆け抜けたのに、あなたの背はなぜそのように白いのですか?」と尋ねると、趙雲は笑いながら「私は戦友から常勝の兵などと呼ばれ、大きな怪我をしたことがない。陛下から賜りし鎧や妻である君が織ってくれた服に守られた肌の傷は小さく、いつもこの子龍池の霊泉や君の笑顔で癒されているからだよ」と答えた。
孫軟児は「今日は常勝将軍様に傷を付けちゃおうかしら?」などと冗談を言いながら、刺繍針を趙雲の肩にちくりと一針刺した途端、肩から鮮血が泉のように噴き、滝のように流れ出して止まらなくなった。慌てて持ち出した薬箱の薬草や包帯を試してもほとんど効き目はなく、最期を悟った趙雲は妻を責めず、それまでの労に礼を言い遺し、それからすぐに顔から血の気が引いて死んでしまった。孫軟児は声が嗄れるほどに泣き、子供たちの制止を振り切り、自らの行いを責めながら刀を喉元に突き立て、趙雲の亡骸の傍らで自刃して死んだ。
趙雲の訃報は趙統、趙広の息子2人によって諸葛亮らに届けられ、「我が四友(劉備、関羽、張飛、趙雲)、ここに奪われり」と悲哀の余り倒れる。その昏睡の中で諸葛亮は、趙雲と孫軟児が睦まじく微笑みながら、劉備と関羽と張飛に導かれる姿を夢に見て目を覚ます。 — 「刺繍針」
解説
[編集]葉威伸はこれらの物語を比較し、正定で記録された『趙雲の死』は大邑の『趙子龍の死』よりも10年以上早く採集されていることから、大邑の物語は正定の物語を参考に改変された可能性があると指摘している。また、採集時期に大きな隔たりがあるにもかかわらず両者に類似性が見られるのは、物語が人々に語り継がれる中で変容していったためだと推測している[4]。
それぞれの物語の特徴を見ると、大邑や正定では趙雲が「天から降り立った(転生した)星」として神格化され、その死は神秘的に描かれている。一方、他の地域に伝わる『趙雲得意笑死』[注 2]や前述の書籍に収録されている『趙雲の死』では、そうした神秘性は見られず、具体的な死因や「風呂に入る」といった日常的な描写を通して、趙雲が身近な存在として描かれている[5]。
「武芸に優れた者が、針の一刺しで血が止まらず死に至る」という物語は、「不死身のアキレウスが、かかと(アキレス腱)を射られて死に至った」などの世界各地の民間伝承に見られる「英雄は必ず致命的な弱点を持つ」「傷口からの出血が止まらず失血死する」という英雄譚の類型と一致する[6]。
これらの趙雲の死の物語が生まれた背景について、葉威伸は、趙雲が歴史上、武勇に優れ生涯病気を経験しなかったというイメージが人々に強く根付いていたこと、そして『正史』や『演義』における「病死」の記述に人々が納得せず、趙雲の卓越した武勇を深く崇拝していたことが背景にあると示唆している[7]。
関連事項
[編集]関連作品
[編集]映画
[編集]- 『三国志(2008年)』
(2008年、中国・韓国、主演(趙雲役):アンディ・ラウ、軟児役:チアン・ホンボー)
小説
[編集]- 塚本靑史『趙雲伝』河出書房新社、2022年。ISBN 9784309030258。
ゲーム
[編集]- 三国大戦スマッシュ!
(2015年-展開中、株式会社エイチーム)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 王登雲「趙雲之死」『三国伝説故事365(下)』中国国際廣播出版社、1991年。pp.113-114.
- ^ 『「趙子龍之死」中国民間文学集成「四川巻・成都市大邑縣」巻4』成都:成都市大邑縣修正辦公室、1989年。pp.261-263.
- ^ 「《歴史人物伝説》趙雲之死」『中国民間文学集成「正定縣故事巻」第一巻』石家荘市正定縣三套集成編輯委員会、1988年。pp.138-139.
- ^ 葉威伸『武神傳説 歴史記憶与民間信仰中的趙雲』文津出版社有限公司、2023年。pp.224-231.
- ^ 葉 2023, pp. 229–231.
- ^ 葉 2023, p. 228.
- ^ 葉 2023, p. 231.
- ^ 塚本 2022, p. 4.